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神と共にあるそれぞれの役割 (出エジプト18:12~26)

メッセージ
2020/09/13
富里キリスト教会礼拝説教
「神と共にあるそれぞれの役割」
(出エジプト18:12〜26)

①モーセと民の不健全な関係
先週はとうとう、イスラエルの民がエジプトを脱出するその始まりについての話でした。神様はあえて最短ルートではなく遠回りの道、しかも一見大変そうな荒野の道を用意されたのでした。しかも実際にその道は主が用意されたものでありながらも、決して平坦な旅の道のりではありませんでした。エジプト軍が襲ってき、荒野には食べ物もなく、アマレクという敵と戦うこともありました。しかし、その都度主は、海をわけ、マナを降らせ、アマレクと戦われ、主の道に従う民を守ってきたのでした。そして旅は一息つき、イスラエルの民は荒野で宿営をしていました。
そのようなとき、一つ心をホッとさせる麗しい場面が起こります。それはモーセとその妻と子供、そしてしゅうとエトロとの感動の再会です。しゅうとのエトロが預けていたモーセの家族を連れてきてくれたのでした。優しいしゅうとです。モーセは神様に召されるまでは、いわゆるサザエさんでいうマスオさんという立場でしたがエトロとの関係はどうやら良好だったようです。
しかし、この場面はただの麗しい家族の再会ではありませんでした。モーセとイスラエルの民の一つのターニングポイントといっても良いでしょう。この出来事からバラバラだったイスラエルの民から秩序が生まれ、家族であり、民族でありながらも一つの組織となっていきます。例えるなら、全てゼロから始まった開拓伝道所が教会組織化されていくようなものかもしれません。バラバラだった状態から一つ一つがつながり、体となる。キリストのからだなる教会の交わりのための組織化についてが、実は今日の箇所では語られているのです。

18:13―15
「翌日になって、モーセは座に着いて民を裁いたが、民は朝から晩までモーセの裁きを待って並んでいた。モーセのしゅうとは、彼が民のために行なっているすべてのことを見て、『あなたが民のためにしているこのやり方はどうしたことか。なぜ、あなた一人だけが座に着いて、民は朝から晩まであなたの裁きを待って並んでいるのか』と尋ねた。」

感動の再会の翌日、エトロはある光景を見て驚きます。当時、朝から晩までモーセは神の代理人として民の問題を全て聞きさばきを行なっていました。モーセはイスラエルの民の霊的、軍事的必要だけでなく民事的問題にも必然的に責任をもつようになっていたのです。特に民事的問題をさばくために相当の時間を割かねばならなかったようです。民も民で神さまからの答えが欲しくて、どんなに時間がかかろうと朝から晩まで忍耐を持ってずっと待ち続けていました。
モーセは神の代理人としてその召しに忠実に応えようと全力を注ぎ、民もモーセを通して神の導きを真剣に求める。何か彼らの情熱だけ見たら一見よさそうに見えないこともありません。しかし、朝から晩までです。効率も悪ければお互いにストレスもかかるでしょう。しかも、これは形としてはあまりにも一方的でモーセへの負担が大きすぎます。モーセの頑張りもいいのですが、過度に良心的な行為と、過度な心労は両者をただ疲れさせてしまい共倒れになってしまいます。これは現代の教会においても十分ありえることで、気をつけるべきことでしょう。

②エテロの忠告
そんなモーセの姿を見てエトロは、「あなたのやり方はよくない」と言います。一刀両断って感じですね。ちょっと躊躇をおぼえるくらいハッキリ言いますね。でもよく見るとこれは、モーセの人格そのもの対しての否定でありません。あくまでやり方についての指摘をしているのです。モーセ、あなた自身は素晴らしい、しかしやり方がよくない。そういうことでしょう。
得てして人は、注意や指摘をするとき、やり方ではなく相手そのものを否定してしまうことがあります。そうすると人は中々その指摘を受け入れにくくなってしまいます。このエトロの注意の仕方は非常に思慮が深く、神の知恵がそこにあるように思います。
しかし、口先のテクニックではありません。そこに義理とはいえ息子への愛があったからです。それは彼の注意に続く言葉を見れば明らかでしょう。

18:18
「あなた自身も、あなたを訪ねてくる民も、きっと疲れ果ててしまうだろう。このやり方ではあなたの荷が重すぎて、一人では負いきれないからだ。」

本当にモーセのことが心配だったんですよね。愛と思いやりに満ちた指摘です。

「一人ではこの荷は重すぎて、負いきれない。」この言葉を牧師も信徒も重々踏まえながら教会生活を過ごさなければならないでしょう。この言葉は牧師に対しては、自分の弱さや拙さ、人としての限界をしっかりと踏まえることの大切さを教えてくれます。何事もすべて自分でやろうとするのではなく、できないことはしっかりと認めつつ、信徒に時には助けてくださいと言える素直さを持つ必要があるでしょう。それはある意味で、プライドを捨てることにもなりますが、謙遜にへりくだるという牧師にとっては最も大切な資質を育てることにもなります。
他方、信徒に対してもこの言葉は牧師が決してスーパーマンではないということを踏まえさせてくれるでしょう。牧師も一人の人間です。権威があるのはみことばとイエス様だけです。牧師をどこか偶像化して、全てに依存してしまうのはよくありません。そうなってしまうと個人の信仰成長も止まってしまいますし、教会そのものの成長をも止めてしまいます。
仕事や家庭などの一般論でも同じことが言えるでしょう。何事もすべて自分でしようと抱え込んでしまうと潰れてしまいます。責任感が強い人ほどそうです。しかし、誰しも人には弱さがあるし限界があります。自分にできないことはあるし、それでいいんだ。そういって自分を受けいれ、周囲の人に素直に助けてもらったほうがよっぽどスムーズでしょう。そして時には逆に自分がだれかを助ける機会もあるのです。世の中、助け合いです。

③役割分担
モーセと民の今のやり方には無理がある。では、一体どうすれば良いのでしょうか。それは、モーセが全て担っていた責任と役割をスリム化し、その分の役割を民から選び出し担当してもらうということでした。お互いのためにちゃんと役割を分担すればいいのです。エトロはその具体的な改善方法を提案していきます。
エトロの提案は大きく分けて3つありました。1つはとりなしの祈りはモーセが責任を持つということでした。民に代わって神の前に出ることはモーセにしかできなかったからです。2つめは民の宗教教育と道徳教育の根本はモーセが責任を持つということでした。これは民族の行くべき方向を決める重要なことだからでしょう。そして、肝心なのが3つ目で、それは司法と行政の面では大部分を他の有能な人々にゆだねるということでした。
この3つ目によってモーセは重荷を民と分かちあい、役割を細分化し、イスラエルは家族、民族でありながらも一つの組織として機能するようになっていきます。千人、百人、五十人、十人といった軍隊組織のようなものを作り、民からそれぞれ隊長を立て、小さな事件は小さな部隊長が対処するというのです。十人隊長でダメだったら、五十人隊長まで話を持っていき、それでもダメなら百、千と問題はふるい落とされて、本当にどうしようもない問題だけがモーセのところまで来るといった非常にスムーズな形の組織作りをエトロは提案したのでした。
ここで少し心に留めておきたいことは、この形は一見、縦の関係にも見えますが、これはあくまで役割分担であるということです。このことをきちんと踏まえておきたいと思います。十人隊長よりも千人隊長が偉いというわけではありません。責任の重さは違うかもしれませんが上下関係ではありません。私たちの教会組織のあり方を考える時もこの点を十分に踏まえなければならないでしょう。
牧師や信徒、それぞれに役割が与えられていますが奉仕の内容等で上下関係ができることはありません。奉仕に大小はなく全ての役割が大切ですし、差別されるものではありません。私たちは主の御前に立ったとき等しく救われるべき憐れな罪人でしかありません。そのような中でキリストをかしらとした教会という組織は生き生きと動き出します。
世の中の組織やシステムでもそうです。縦の関係のように見えても、それは本来役割の分担なのです。例えば日本の裁判のシステムもそうでしょう。日本の裁判所には、簡易裁判所、地方裁判所、家庭裁判所、高等裁判所、最高裁判所というものがそれぞれあります。各裁判所によってなされる裁判はどれも大切な裁判です。ただ取り扱う内容がそれぞれに違うことがあります。簡単に結論の出ない難しい問題などは、高等、最高裁判所まで上告され、各裁判所で裁判がなされます。最高裁判所の判断が最終のものとなり、それ以上争うことはできません。
しかし、最高裁判所の裁判官が偉くて簡易裁判所の裁判官が下というわけではありませんね。責任の重さは違えど各裁判所がそれぞれの役割をしっかりと全うしているからこそ日本の司法は成立しているわけです。しかし、縦関係の序列だと思っているとやはり、最高裁判官は簡易裁判官を見下すことにつながってしまいます。それでは、組織はうまくいかないでしょう。互いへの敬意と協力によって組織は繋がり、作用していくのだと思います。
教会という組織においても同じことが言えるでしょう。牧師や役員がえらいわけではありません。ましてや信徒が下というものでもありません。しかし、他方で上下はありませんが牧師も含めて信徒は一人一人全員に特別な役割があります。その互いの役割をお互いに認識し、敬意を持って互いに協力することによって教会は建て上げられていきます。
今日は組織について話をしていますが、実は教会は組織にあって組織にあらずです。教会はキリストのからだです。教会は組織でありながらも生きたからだなのです。わたしたちはその中のかけがえのない一部分であり、その部分が繋がって教会という一つのからだとなっているのです。体の部位とはどれもちがい、どれも必要です。ですから、上下関係はありませんがみな、かけがえのない役割があるのです。
そして、そのからだは同じ目的があって初めて動くのです。その目的は「神の栄光」です。自分の栄光、誉れじゃありません。自分があがめられるのではなく、主があがめられるために、ということです。皆の願いが「主のために」となった時、聖霊が私たちをつなぎ合わせひとつのからだとなって教会は動いていくのです。

◎結
モーセはエトロのこの助言を聞き、すぐに受け入れ、言われた通りしました。本当にモーセという人は謙遜ですね。エトロは義理の父とはいえ、事情もあまり知らない異邦人、しかも他の神々の祭司をしていたような者です。またリーダーとして立てられているプライドも多少なりともあったでしょう。しかし、モーセは自分の限界を素直に認め、エトロの助言を尊重し、受けいれたのです。本当の良きリーダーとはこのように柔軟で謙遜な者なのでしょう。
また、民にとってもこの変化は喜ばしいことでした。申命記でこの同じ場面についての記述がありますが、民はこの提案を聞いて「提案されたことは結構なことです。」と言って喜んでこの組織作りに加わりました。モーセに依存する姿はそこにはなく、とても生き生きと主体的な民の姿がここに見えます。
ここから私たち教会のあるべき姿をみることができるように思います。牧師は全てを自分でできると背負い込まず、ある意味重荷を手放す必要があるでしょう。それは素直に自分の限界を認め、信徒を信頼して委ねる、まかせるということでしょう。また、信徒にとっては全てを牧師に依存せず、自ら教会に主体的に関わっていくことが求められていると言えるでしょう。その互いの信頼と協力の中でこそ教会は健全に成長していくのです。
この形はもうお互いにとってWinwinですね。Winwinというとどこか損得のように聞こえますが信徒も牧師もそこに喜びがあり、その喜びを共に分かち合う恵みがそこにあるということです。義務ではありませんが自覚的、主体的に信仰生活を送っていると本当にそこから喜びが湧いてくるものです。また、牧師にとっては負担が減ることもありますがそれ以上に、その主体的な信徒の姿を見たときに喜びが溢れてくるでしょう。信徒が生き生きと主体的にイエスさまと共に生きようとする姿は牧師から見て、これほど嬉しいことはありません。
エトロは互いに役割を担い助け合う新しいイスラエルの姿を見ると、満足げに自分の国に帰って行きました。まるで、このために来たようです。私たちの助言者、助け主である聖霊様のようです。私たちもモーセと民のように、みことばを受け、聖霊に導かれ、素直に動く謙遜なものとして、共に主にある教会を建て上げていきましょう。

武井誠司

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