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神との和解 (Ⅱコリント5:10~21)

メッセージ

2015年10月11日富里キリスト教会

「神との和解」
(Ⅱコリント5:10~21)

1.モーセの仲介とキリストの和解の違い

モーセは主に強いられて、60万もの民を率いて、エジプトから荒野へと脱出しました。そしてやっとのことで、エジプトからの脱出は果たしたものの、今度は、荒野の旅の途中でああでもないこうでもない、あれが食べたいこれが食べたい、来るんじゃなかったという民の不平不満の連続です。40年もの間、彼らの言い分やわがままを聞きつづけながら、それでも忍耐と謙虚の限りを尽くして、モーセは荒野の旅を導いて来ました。

神はこの不忠実でわがままな民を、荒野で滅ぼしてしまおうと何度考えたか分かりません。それにもかかわらず、主はモーセのとりなしの祈りと嘆願によって心を変え、彼らを赦し、民のわがままな要求も何度も聞き入れて来ました。わたしも、おそらく皆さん方もこのエジプト記を読みながら、こう思ったのではないでしょうか。「自分は、あんなモーセみたいにはなれない。途中でさじを投げて、かたくなで強情な民をほっぽり出してしまうかもしれない。モーセは本当に気の毒だ、自分一人で人間の不平不満を聞かされ続けてきたのだから。」と思ったかもしれません。(詩編78:37~42・旧P915)

しかしこの偉大な指導者モーセも、最後には神に対して罪を犯してしまいます。あんまり民がモーセを苦しめたので、モーセもとうとう堪忍袋の緒が切れてしまいました。神様が「岩に向かって水を出しなさい。」と言ったにもかかわらず、モーセは感情をあらわにし、怒りに任せて岩を二回、杖でたたいて水を出しました。「いい加減に目を覚まさんか。何度、俺が神に対してお前たちのわがままを執り成せば気が済むのか!」と言って、感情に任せて岩を二回たたいてしまったのです。(民数記20:1~13)そしてこれがモーセの罪となって、彼は約束の地カナンに入ることができませんでした。モーセもやはり人間でした。最後まで完璧に、神と人間の間を取りもって仲介の働きをすることはできませんでした。

まさしく先週話したとおり、人間はどこまで行っても神の失敗作にすぎなかったのです。この民の不信仰、反逆に対して、あのノアの時のように、神は民を完全に滅ぼしてこの地上からぬぐい去っても良かったのです。神にはそういう権利がありました。創造主ですから。しかし、その怒り心頭に達した神の最終的に取った決断と行動は何だったでしょうか。失敗作であり、神の民といえどもどうしようもないほど堕落した人間に対して、最後の最後に切り札として神が取った行動とは一体何だったでしょうか。

それが、あの神の子でありかつ神そのものである御子イエス・キリストの十字架の死と苦しみだったのです。つまり神は罪を犯し背き続ける人間に対して、最後に取ったその怒りの矛先を、こともあろうに人間に向けたのではなく、自分の一人息子であり、神であるお方に向けられたのです。そして神は、ご自身の怒りと裁きをご自身の息子の上に、徹底的に完膚なきまでに打ち下されたのでした。そしてそれを全世界に向かって、示されたのです。それがあのカルバリ山の主の十字架でした。神はこともあろうに、その怒りの鉄槌を、人間であるわたしたちの頭上ではなく、自分の子供の上に、しかも同じ神の上に降されたのです。

これが神の本音であり、神の本質であり、神の本心の啓示です。罪人であり、失敗作である人間に対する、いやこの世界に対する、神の愛と赦しが十字架の上にほとばしり出たのです。残念ながらモーセのとりなしは不十分でした。彼も所詮は人間でしたから、モーセも所詮失敗しました。でもキリストのとりなしと十字架の贖いの業は、完全であり十分なものです。どうしてでしょうか。この違いがお解りでしょうか。とても大事なことです。

モーセは人間です。でもキリストは神です。父なる神は、怒りを下すべき人間に向かって怒りを下されたのではなく、わが子の上にその怒りを下されたのです。御子は私たちの罪の身代わりになって、その罰をすべて受けて下さったのです。キリストという神が罪深いに人間に変わって、神の裁きと怒りをすべてその上に負って下さったのです。これほどの確かな罪の赦し、神への取り成し、罪の贖いがあるでしょうか。こうして神は義自身の義(正しさ)を示して下さいました。

2.神の和解

ふつう法律用語で「和解」というのは、「当事者同士がそれぞれの利益を計りながら、両者が納得のゆく妥協点、折衷案を探り出し、自分の言い分も相手の言い分も認めたうえで、問題解決を図る」となっています。ところが神の和解という場合には、全く異なります。被害者が、その損害賠償を問うことなしに、無償でその過失を赦してやり、なおかつ補償金までも被害者の方で支払ってあげるというのです。モーセの例で言いますと、モーセは神の約束に違反し、背いたイスラエルの民の代弁者として、神と交渉してくれました。人間が失敗し罪を犯して神の怒りを買いそうになっても、モーセが間に入って何とか怒りを納めてくれるように、一生懸命神を宥めました。「神様、あなたは約束したではないですか。もしあなたがここで民を全滅させたら、他の異邦の民はあなたをかえって悪く言いますよ。『イスラエルの神は自分の民を滅ぼすために荒野へ導いた』と、それでもいいのですか。」モーセは必死になって民を代弁し、神の怒りをなだめました。何度も、何度もです。(出エジプト記32章)

でも神の和解調停は、被害者の方から違反者に対して、無条件でその違反を赦して帳消しにして下さるというのです。さらに本来ならば違反者の方で支払わなければならない治療費や入院費、車の修理代、慰謝料を被害者である神様の方から償って下さるというのです。これが神の和解です。一方的な赦しなのです。被害者側が、莫大な補償と完璧な謝罪を提示してくれたというのが、あの十字架の御子キリストの贖いの業だったのです。違反者は、ただ自分の非と過失を認めて謝るならば、神は何の責めも咎も負わされずに無罪放にしてくださるのです。

「(神は)その十字架の血によって平和を打ち立て、天にあるものであれ、地にあるものであれ、万物をただ御子によって、御自分と和解させられました。あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがたと和解し、御自分の前に聖なる者、傷のない者、とがめる所のない者として下さいました。」(コロサイ1:20~22、P369)

皆さん、いいですか、もう一度考えて見て下さい。人間の弁護や取り成しや嘆願はというものは、どんなに熱心であっても、所詮、加害者側の論理でありそこには限界があります。あのモーセでさえも、彼の信仰と謙遜と忠実さをもってしてでも、人間の罪と違反を完全に執り成すことはできませんでした。それは人間の側からの弁護者だったからです。

でも、御子イエス・キリストは人間ではありません。神そのものです。神の御独り子、最愛の息子です。父なる神から愛されている神の独り息子です。神は、この御独り子を、わたしたちの違反の償いとして、御自分の方から差し出して下さったのです。神の側の私たちに対する弁護者です。これ以上の和解の保証と犠牲は他にあるでしょうか。神の側から、完全な罪のない償いの犠牲を差し出して下さったのです。ここに神の完全な和解の業が示されたのです。神様の側から、被害者の側から完全な和解の手を差し出されたのです。

こうして神は、御子イエス・キリストの十字架の死を通して、この世を神御自分と和解させて下さったのです。一方的に、無償で、恵みとして、二千年前にあのカルバリの丘で和解の業を成し遂げてくださいました。あとは、この神の和解のしるしである十字架のイエス・キリストを仰いで、罪と違反を赦していただくか、あるいは自分には関係のないことだと思って、神の和解を拒むかのどちらかです。

3.新生者(新しく造られた者)

「だから、キリストと結ばれる人は誰でも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。」(Ⅱコリント5:17~
18)

神の和解を受け入れたものは、新しく生まれ変わったものです。神様の側から、わたしたちの罪を完全に贖うことのできる御子与え、和解を果たしてくださいました。御子は私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で苦しまれその血を流して執り成して下さいました。今まで神を離れ、神に背を向けて、どうしようもない罪の中にうめき苦しんでいた私たちの罪を、神は御子の血潮をもって贖い聖めてくださったのです。これが神からの一方的な無償で与えられる恵みの和解です。そしてこの神の和解を受けたものは、すなわちイエス・キリストを信じ受け入れたものは、罪赦され全く新しく生まれ変わった者となるのです。それが新生(Born again)という言葉です。

「誰でもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである。」(5:17)「Therefore,
if anyone is in Christ, he is a new creation ; the old has gone, the new has come」バプテスト教会のキャッチフレーズです。新生者の群れ、新生讃美歌、新生運動を掲げてバプテスト教会は伝道してきました。聖書の言っている「和解」というギリシャ語のもとの意味は、「帰る」「変わる」という言葉からできています。つまり、神の和解である十字架のキリストを受け入れたものは、今までとは全く違い神との関係が根本的に変わったということです。新しく創造された者、古いものが過ぎ去り、すべてのことが新しくなったということです。

ですから私たちは、何人であっても主にあるならば、皆同じ兄弟姉妹であり、神の家族です。台湾人であろうが、中国人であろうが、モンゴル人であろうが、フィリピン人であろうが、韓国人であろうが北朝鮮人であろうが、何の違いもありません。皆同じ一つの神の家族の一員です。「実にキリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。」(エフェソ4:14~16)一つの体です。神との和解をいただいた者、心から新しく造りかえられた者です。

4.キリストの使者、神の協力者

最後になりますが、神の和解を受けたものは、今度はそれをただ受けるだけではなく、和解の務めを神から委ねられたものとして立てられたものなのです。わたしたちが全く新しくされた、生まれ変わった、神の家族となったということは、ただ単に、嬉しい、何か気分が良くなったということだけではありません。わたしたち新生した者は、「神の和解のために奉仕する任務を、神から授かったものなのです。」(5:18)新生したクリスチャンは(Born again Believers)新しく生まれたものですが、それは神と和解していただいたと同時に、この和解の務めを神から授かっているのです。

「これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務を私たちにお授けになりました。つまり神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神は私たちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。わたしたちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。」(5:18~6:1)

神の和解であるイエス・キリストを受け入れた者は、同時に、神の和解の務めを授けられた者なのです。わたしたちは和解の言葉である福音を神からゆだねられました。わたしたちはキリストの使者なのです。わたしたちは神の協力者なのです。これがキリストの十字架によって新しくされた者の姿です。「和解の任務を授かった者」「和解の言葉いただいた者」、それはまた「キリストの使者」でもあり「神との協力者」なのです。

ですからバプテストの信徒は新生させられたものですが、それは同時に、イエス・キリストの福音を宣べ伝える者とされたということです。和解を何か労律的に人間同士の紛争解決だと考えてはいけません。あくまでも世の人々にキリストの和解を進めることです。神の和解の福音を伝えることです。人々を神と和解させる働きです。わたしたちはその使者であり、神と共に協力して働く者です。一人でも多くの人に、この和解の福音を宣べ伝え、神との和解を果たしていただくように説得する働きです。

モーセは人間でしたが、来たるべきキリストの和解の働きを最高度に実践し、それを人々に教えた信仰の大先輩です。わたし達も、今、荒野の信仰の旅を続けているものです。途中いろんな不平や不満や失敗や過ちはあるでしょう。でもお互いに神様のこの一方的な和解の恵みにあずかった者として、神を見上げ、お互いに励まし合いながら、この地上での信仰の旅を続けて行きたいと願っています。そして、全世界に出て行って、この和解の福音を人々に告げ知らせる者となって行きましょう。

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