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神からの恵みを受ける (ルカ1:26~38)

メッセージ

2011年12月18日富里キリスト教会
「神からの恵みを受ける」
(ルカ1:26~38)
1.おめでとう、マリア

今日のルカ伝1章26節からは、「マリアへの受胎告知」として有名な個所です。
少し読んでみましょう。「六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアと言った。天使は彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。』」(ルカ1:26~28)」

クリスマスは、実にめでたい出来事です。今年は、東日本の大震災、津波、原発事故で手放しで「おめでとう、おめでとう。」と言えない年かもしれません。
しかし、この天使からのメッセージは、時代を超えて、国を超えて、どんな災害や悲しみや苦しみの中にある人にも、宣べ伝えられるメッセージです。そういう人こそ必要としている言葉です。どういう意味でそうなのかと申しますと、二つございます。

A.神の恵みゆえ

一つは、「マリヤが神様の恵みにあずかった」ということの故です。世界には、多くの女性が古今東西いました。マリヤよりももっと神の子、救い主を胎に宿す資格のある女性は、ほかにもいたのではないでしょうか。もっと身分の高い女性、信仰的な女性、祭司階級の女性、数え上げればきりのないほどの賢明な女性はいたでしょう。それがよりによって、ナザレというガリラヤの田舎の方の一人のごくありふれた女性が選ばれたのです。

人類の歴史の中で、全世界の中で、神の子を宿すという大いなる恵みにあずかり、キリストの母として選ばれた女性が他にいるでしょうか。なんという幸いでしょうか。なんという恵みでしょうか。神様は、取るに足らないいと小さき者に目をとめられて、御子の母としてお選び下さったのです。これが恵みです。神様からの一方的な恩寵、プレゼントです。神は全人類を選んだわけではありません。このたった一人の女性を救い主の母として選び、この貧しき一人の女性の信仰を通して全世界、全人類を救おうとされたのです。ここに神様の不思議な救いの御計画があります。

全人類の救いは、この一人の貧しきおとめマリヤの信仰にかかっていたのです。
たった一人を選んで、その人の信仰を通してすべての人を救われるのです。もちろん、その最初の初穂は人間イエス・キリストです。しかし、そのキリストを信じ、受け入れ、そのお方に従う信仰の一番最初の人間がマリヤだったのです。もしマリヤが、そしてもしヨセフがこのクリスマスの恵みである、肉を取って人間の胎に宿られた救い主を受け止めなかったら、人類の救いはありませんでした。信仰とはそういうかけがえのないものです。世界を滅ぼすのも救うのも、実にこの一人の小さい人の信仰にかかっているのです。その器として、マリアは選ばれました。これが恵みです。

B.共におられる神

二つ目におめでたいことは、「主があなたと共におられる」ということです。クリスマスのメッセージの第一は、そして神様からの恵みの中身は何と言っても、主が共におられるという約束ですし、また真実でもあります。英語ではThe Lord is with youです。ヘブライ語ではインマヌエル(=神我らと共にいます)です。

神が共におられるというメッセージを聞きますと、私たちの頭には、「じゃあどうしてあんなひどいことが東北の人たちに起こったの?」という疑問がわいてきます。何の罪もない多くの人たちが、一瞬にして命を失いました。「あれでも神は共にいるの?」という疑問です。

確かにあの時は、日本中が命の大切さを教えられました。でも今は、命があっただけでは生きて行けない。食べ物、着る物、住む場所がかろうじて確保されたとしても、人々の心の傷、痛み、苦しみ、空しさを救うのは命だけではないということを知るようになりました。私は、あの震災は人類に対してもっと根本的な問いを突き付けたような気がしてなりません。人間に希望はあるのか、神は果たして存在するのかという問いです。そのような根源的な問いを解決しない限り、あの未曾有の大災害に対する答えはないような気がします。命のさらに奥にある、そして命よりも大切な霊的な問い、神への問いです。

人は人から見捨てられ、神から見放された時に、自分で自分をこの世から抹殺してしまいたくなるそうです。創世記の1:2に「地は混沌として、暗闇が深い淵の表面にあり、神の霊が水の表面を覆っていた。」とあります。まさに現代の世界そのものです。孤独、絶望、見捨てられたという思い、これこそが、あの震災の後に人々の心を襲ってきた最大の心の闇ではなかったでしょうか。そういう世界を神の霊が覆っていた。そして「光あれ!」と神がおっしゃって光ができた。これが、真の世の光、イエス・キリストの誕生ではないでしょうか。神様は共におられる。こんな暗闇と混沌の世界だからこそ神が来て下さった。それがこのインマヌエ(=神我らと共なり)、神の子イエス・キリストの誕生のメッセージではないでしょうか。

2.マリアの戸惑い

しかし、このすばらしい恵みの知らせを受けたマリアは、手放しで喜んでこのメッセージを受け入れ、それに従ったわけではありませんでした。29節に「マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」とあります。このすばらしいメッセージを受けたマリアは、一時戸惑い考え込んでしまいました。

それは、彼女はちょうどこのころ、親の紹介で大工のヨセフと婚約していたからです。この時代の婚約期間は、だいたい一年間あったと言われています。そして、婚約とは言っても契約社会ですから、実質的には法律上は夫婦となっていました。しかし、この間はまだ一緒に住むことは許されていません。でも、マリアはやがて来る幸せな結婚生活を夢見ていました。

そのマリアが、夫の手も握ったこともないのに妊娠したということが解ったら、彼女は姦淫罪で死刑にもなりかねません。もちろん婚約解消、破談、離婚経験者となってしまうわけです。ですから、このガブリエルの知らせを彼女はにわかには受け入れることができませんでした。「戸惑い、考え込んだ」とあります。
口語訳では、「胸騒ぎがして、思い巡らした」となっています。さらに彼女は男の子を産むと告げられると、「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」(1:34)と言いました。「どうして?!なぜ」という問いです。そんなことありえませんという反論です。

これは誰でも、たとえ神様からの素晴らしいメッセージが届いたとしても、それが自分に向けて語られ、自分がそれを受け入れてそれに答えなければならないとしたら、誰でも戸惑います。抵抗します。本当だろうか。自分の人生設計が崩れてしまうからです。このメッセージを受け入れたら、自分が自分で亡くなる、そういう不安は誰でも持ちます。将来どうなるんだろう、むしろ恐れと不安の方が大きくなってきます。

このマリアへの知らせの前に、天使ガブリエルが告知した祭司ザカリヤの場合もそうでした。ザカリヤは、祭司であり、自分が神殿で祭司として神の前で香をたいて祈り仕えている時に、天使からメッセージを受けました。しかし、彼はこのメッセージを受け入れませんでした。ガブリエルはこう反論しました。「自分はもう老人だし、妻も年を取っていますので・・・」(1:18)

ガブリエルの場合もマリアの場合も、にわかに信じることができませんでした。
皆さんはどう思いますか。老夫婦に子供ができることと、結婚しない女性に子供ができることを比べた場合、どちらが難しいでしょうか。ザカリヤはもっと喜んでいいはずです。長年の願いがかなったのですから。しかも祈って神に仕えている最中に、最も神様のお告げがありそうな場所にいたにもかかわらず、彼は信じませんでした。何のために祭司をしていたのでしょうか。そのために、彼は息子ヨハネが生まれるまで、口をきくことができないという罰を受けました。しかし、一介の市井の女性であるマリアは、この天使のメッセージを受け入れ信じたのです。

4.お言葉どおりに成りますように

38節に「マリアは言った。『わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。』そこで、天使は去って行った。」とあります。ここにマリアの信仰の素晴らしさがあります。彼女は、もしかしたら自分の人生を踏み間違えるかもしれない、一生、棒に振ってしまうかもしれないという恐れや不安はありました。それでも、彼女はこの天使ガブリエルのメッセージを信じたのです。

確かに、この信仰には、自分が自分で亡くなるかもしれない、世間の人から白い目で見られるかもしれない、夫ヨセフとの間に何か気まずいことが起こるかもしれないといういろんな不安や心配の材料はあるでしょう。でも、まず最初に、この御言葉を受け入れること、これが信仰です。全部わかったうえで、ヨセフも理解してくれるだろうとか、周りの親戚も理解してくれるだろうということが解ったうえで信じているわけではありません。まだいろんなことが未知数で、先が見えないのです。それでも、この告げられた御言葉「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共にいます。」というメッセージを信じて受け入れ、それに従ったのです。

このマリアの信仰の故に、神はマリヤの胎に、聖霊様を通して御子イエス・キリストを授けたのです。このマリヤの信仰によって、私たちもイエス様の十字架の救いにあずかることができました。そして私たちも、神の恵みによって、マリアと同じ信仰の道を歩む者として下さいました。これもまた恵みです。クリスマスは、この神様からの一方的な恵みのプレゼントを、素直に感謝を持って受ける時です。神様からの恵みですから、ただそれを受け取るだけでいいのです。                          (岡田 久)

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