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祈りの祭壇を築く (創世記12:1~9)

メッセージ

2011年6月19日富里キリスト教会
「祈りの祭壇を築く」
(創世記12:1~9)
1.行きなさい(レフ・レハー)

この12章からは、創世記を12のお話に分けて暗記しやすくしておりまして、その中の第3番目のお話の冒頭になっております。それぞれの物語に題がついておりまして、この第3部のお話には「レフ・レハ―」という題がついております。「レフ」は「行きなさい」という意味で、「レハ―」は「自分自身に」という意味です。ですから、直訳しますと「自分自身に向って行きなさい」という題になります。また、強い命令を表わす言葉だとも言われています。第3部は、12章から17章のイシュマエル誕生の時までとなっています。そして、第4番目の段落に入った時に、アブラムは神様から「多くの国民の父」となるという祝福をいただき、その時にアブラハムという名に変えられました。

「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。」アブラムは、ハランを出発したとき、75歳であった。」(創世記12:1~4)

A.父の家を離れる

まず出発するためには、自分の生まれ故郷、父の家を出なければなりません。聖書では「生まれ故郷、父の家を離れて」(12:1)となっていますが、原文のヘブライ語を見てみますと、「国」と「故郷」と「父の家」から離れなさいと、三つの言葉が並べて書いてあります。国というのは日本、故郷は私たちでしたら、「津軽」とか「信濃の国」という意味になるでしょうか。そして父の家というのは、自分の家族や親戚という意味です。自分を今まで育ててきてくれた、故郷、文化、習慣、親戚、それらすべてのものから離れるということでしょうか。もう少し、深めて言うならば、自分の価値観、この世的な考え方、人間的な思想文化、そういうこの世的な価値観から離れるということを意味しているのではないかと思います。

神様は、ここでアブラムに距離的な意味で、また地理的な意味で「私が示す地」と言っているのではないような気がします。神様がいっている地とは、むしろこのテーマにありましたように「自分自身に向って」つまり、「本来の自分自身に向って歩みなさい」という意味ではないかと思います。本来の自分、それはやはり、神に造られ神によって生かされている自分に立ち返る道ではないでしょうか。それが、神様が示す地、約束の地ではないかと思います。

アウグスチヌスは、この箇所をこう言っています。「アブラムの決別は、地理的肉体的な分離ではなく、人間の魂の内的決別、すなわち自分の所有欲といった罪からの分離を意味している」と。ですから、神様は、私たちに、この世的に自分を支えている基盤、お金や財産、地位、名誉、といったものから離れなさいと言っているのではないでしょうか。自分の心を支配しているこの世の物から決別して、本来の自分自身に向って旅に出なさいと言っているのではないでしょうか。それは、神の祝福の中に生きるということです。

B.祝福の源となる

アブラムにとって、75歳で自分の家を離れると言うことは、どんなに大きな決断を必要としたでしょうか。失う物が大きかったと思います。普通でしたら、ここハランを終の棲家と定めて静かに余生を送るものです。向こうに家があるとか、畑があるとかだったら何とか頑張れるでしょう。何も保証がないのです。ただ、神様が祝福すると言ったので出てきたのです。こんな危険が伴った祝福だったら、やはり二の足を踏みます。

神様は、アブラムにこう約束されました。「大いなる国民とする」「あなたを祝福し、あなたの名を高める」「祝福の源になる」「すべての人がアブラムを通して祝福に入る」ということでした。正直言って、これも言葉だけで、見に見えない何の保証もない約束です。

でも、聖書には、アブラムは「主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。」とあります。家財をまとめて、一族郎党を率いて旅に出たのです。(ヘブライ11:6、8)アブラムは、この主の言葉を信じて出発しました。信じるとはまさにこのことです。この言葉を信じ、この言葉に従うことです。保証は何もありません。強いて言えば、保証は聖霊様です。エフェソ1:13~14に「あなたがたも、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。この聖霊は、私たちが御国を受け継ぐための保証です。」とあります。

4.祭壇を築く人生

もし、アブラム一行が約束の地カナンに入ることが、神の祝福だとしたら、この物語は5節で終っています。後のお話はないことになります。何度も申しますように、物理的地理的にカナンの地に入ることが、神の祝福の中に入ることではありません。真の神の祝福と言うのは、絶えず、この世の富や欲といった罪のしがらみを振りほどいて、そこから離れて、神の御心を求めてゆくことではないでしょうか。

そのためにアブラムが行なった第一のことは、「祭壇を築く」ということでした。祭壇を通して、アブラムは神と共に旅をしました。アブラムの人生は祭壇を築く人生であったと言ってもいいかも知れません。祭壇で始まり祭壇で終った旅でした。祭壇というのは、神を礼拝する場所です。そこで、彼は神の言葉を聞き、神に祈ったのです。その祭壇を通してその周囲に、神の恵みがあふれ出て行く、そこが祝福の源と言われる所以ではないかと思います。

「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて、言われた。「あなたの子孫にこの土地を与える。」アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。アブラムはそこからベテルの東の山に移り、西にベテル、東にアイを臨む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムはさらに旅を続け、ネゲブ地方へ移った。」(創世記12:6~9)

最初の祭壇が、シケムの聖所があった場所で、そこのモレには大きな樫の木がありました。そしてそこには、原住民であったカナン人が住んでいました。異教の礼拝所があり、異邦の民が住んでいて、とても自分たちが住めるような場所ではなかったのです。にもかかわらず、神様は「この地を与える。」と言われました。そしてそこに現れて下さった主のために祭壇を築きました。これは、神様のみ言葉に対して、応答して祈ったと言うことです。

たとえ、まだ、約束の地には、異教の祭壇があり、異教の神々が祭られ、異邦人が住んでいて、とても自分たちに与えられた土地ではないように思えても、そこで感謝をもって主への祭壇を築いて礼拝をしたのです。そのようにして、行く先々で、アブラムは神を礼拝する祭壇を築きました。(ヘブライ11:1)

5.贖いの祭壇

しかし、アブラムも人間です。長い人生の旅路にあって、すべてが順風満帆ではありませんでした。生活に困る時もあります。旅の途中で飢饉に襲われました。背に腹は変えられない、彼は神の祝福の約束を忘れて、エジプトに避難しました。あれほど、神の約束を信じて、一切を捨てて従って来て約束の地に着いたのに、こんな苦しみに会うくらいだったら、ハランから出てくるのではなかったと思ったかもしれません。今さら故郷に帰るわけにはいきません。そこで、彼は神の祝福も約束も忘れて、食べるためにエジプトに避難しました。

しかも、そこで大きな失態を演じてしまいます。自分の妻、サライが美しいが故に、エジプトの王は自分を殺して妻を奪ってしまうかも知れないと考えました。そこで、サライには、自分の妹だと偽をつかせて王様に与えようとしました。そうすれば、自分も家族も助かるし、その見返りとして多くの食料を手に入れることができるかもしれないと考えたのです。古いかつてのアブラムの性格、世的な考え方が表れています。ところが、神様がそこに介入されて、この罪の間違いを未然に防いでくれました。サライは無事に戻り、アブラムには多くの食糧財産が与えられました。この事件を通して、アブラムは、自分の不信仰に気づき、ベテルとアイの間にあった最初の祭壇に戻って来て、そこで再び祭壇を築き直しました。(13:4)

このようにして、アブラムの生涯は祭壇と共にあった生涯でしたが、人生、いろんなことが起こります。生活上の困窮、病気、失敗、挫折、そういう暗い道も通させられます。でも神様は、そのような中でも私たちを必ずいやし、救い、回復して立ち直らせて下さいます。いやむしろ、そういう試練を通して、私たちを時には訓練し、そのような試練に打ち勝つ信仰へと成長させて下さいます。何度も困難や試練に遭いますが、でも新しい祭壇は前の祭壇よりは、一歩成長した大きな祭壇になって行くのではないでしょうか。そして、人は誰でもそういう時をくぐらされるということです。でも、そういう試練を経た後の祭壇は、以前よりももっと神様の愛と祝福、恵みと言うものを強く感じる祭壇となるのです。祭壇を築くたびに、主からの恵みと祝福が段々大きく感じられ、主への感謝と賛美に満ちあふれて来るのではないかと思います。

アブラムは晩年、人生最大の危機と同時に最高の祭壇を築かなければなりませんでした。それは自分の独り息子イサクを献げるという祭壇でした。できれば避けて通りたい、なぜ神は自分にこういう試練を与えるのか、呻き苦しみます。しかし、意を決してイサクを祭壇に載せ、手をかけようとした時、神が介入されて、身代わりの雄羊が備えられました。

この自分の独り息子を献げるという厳しく辛い祭壇を通して、アブラムは神様の愛と恵みというものをいっそう大きく知ることになります。そして、やがて神は御独り子イエス・キリストを十字架につけるほどに自分を愛しておられるという、神様御自身の贖いの祭壇を知るようになって行きます。アブラムの祈りの祭壇はこのようにして、神様の供えたもう愛の祭壇であるイエス・キリストの十字架の贖いへと高められて行ったのです。

パウロも、あなたがたの体を神に喜ばれる聖なる生きたいけにえとして祭壇に献げなさいと言いました。この祭壇は、私たちが目指すべき人生の目的であり、私たちが帰るべき場所なのです。即ち、本来の自分に、神に造られ神を礼拝するために造られた本当の自分自身へと帰って行く場所なのです。そしてこの私たちの祈りの祭壇に、私たちだけではなくこの地方の人々の救いが、世界の救いがかかっていると言っても過言ではありません。私達自身が、この世界の祝福の源なのです。私たちを通して人々が祝福され、私たちを通して人々が呪われるのです。私たち無しには、人々もこの世界の救いもありません。「レフ・レハ―」。「この世の欲と罪を離れて、本来の自分自身に還れ!神の祝福のもとに還れ!」これが、アブラムに語られた神の祝福の言葉だったのです。(岡田 久)

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