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祈りの家 (マルコ11:15~19)

メッセージ

2015年2月8日富里キリスト教会

祈りの家
(マルコ11:15~19)

1.神との出会いの場としての神殿

「それから、一行はエルサレムに来た。イエスは神殿の境内に入り、そこで売り買いしていた人々を追い出し始め、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けをひっくり返された。また、境内を通って物を運ぶこともお許しにならなかった。そして、人々に教えて言われた。『こう書いてあるではないか。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしてしまった。』祭司長たちや律法学者たちはこれを聞いて、イエスをどのように殺そうかと謀った。群衆が皆その教えに打たれていたので、彼らはイエスを恐れたからである。夕方になると、イエスは弟子達と都の外に出て行かれた。」(マルコ11:15~19)

この宮聖めの記事は、マルコやマタイ福音書には、最後のエルサレムに入場する場面で出て来ていますが、ヨハネによる福音書の方では、最初の2章に出てきております。あのニコデモやサマリヤの女のお話より前にあります。この宮聖めの後に、ユダヤ人の指導者ニコデモは、水と霊によって新しく生まれ変わることによって神の国に入るということを知りました。また、サマリヤの女は自分のあるがままの罪を告白して、霊的な礼拝という神と人間との出会いを経験しました。

おそらく私の推察では、神殿と言いますのは、本来神と人間とが出会う場所です。つまり神と人間との出会い、本当の意味での神礼拝とはどういうものかをヨハネは教えるために、ニコデモとサマリヤの女のお話の前に、イエスの宮聖めの出来事を入れたのではないかと思います。後に続く、神と人間との出会いの導入部分として、この宮聖めの記事を福音書の最初の場面に持って来たのではないかと思います。

そこにははっきりと人間の献げる自己中心的な礼拝、いわば見せかけの形だけの礼拝というものと、神中心の本当の意味での霊的な礼拝の違いが明確に描き出されております。同じ神殿でも、人間中心の礼拝と、神中心の礼拝の違いというものを明確に区別して、真の礼拝というものを描き出したのがこの場面ではないかと思います。

2.商売人を追い出す

どうして聖なる神の神殿がこんなにもにぎわっていたのかと言いますと、ユダヤ教の儀式では、神様とお会いする時には、動物のいけにえを献げなければなりませんでした。ところが全世界から巡礼でやってくる人々は、遠くから動物を連れて来ることができません。ですから、神殿で売られているいけにえの動物を買ってそれを献げていたわけです。もちろん、家畜や鳩を売る商売の人から、その代金の一部が神殿の会計に入っていました。

そういう商売人や商売をしていた道具などを、イエス様は片っ端からひっくり返されました。こういう乱暴な行動は赦されるべきものではありませんが、イエス様はこう言いました。「わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。」と。真の神礼拝とは何かということです。そのような人間が造った偶像礼拝との最初の戦いがこの場面でした。

11:17で引用されている言葉は、イザヤ書56:7(P.1154)から取ったものです。「なぜなら主はこう言われる。宦官が、わたしの安息日を常に守り、わたしの望むことを選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。その名は決して消し去られることはない。また、主のもとに集ってきた異邦人が、主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なる私の山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに、連なることを許す。彼らが焼き尽くす献げ物といけにえを献げるなら、わたしの祭壇で、私はそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。追い散らされたイスラエルを集める方、主なる神は言われる。すでに集められた者に、更に加えて集めよう、と。」(イザヤ書56:4~8)

この主の祈りの家は、たとえ神から見捨てられたと言われているような宦官や異邦人でありましても、主の約束を守るならば、誰でも主の祈りの家に入り、主の民として、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、宦官であろうが、共に集って神を礼拝することができる場所なのです。このいけにえの動物や鳩を売っている境内は、異邦人の庭と言って、どこの国の人であろうが何人であろうが区別なく、信仰を持って出入りできる場所でもあったのです。

そう言う意味でも最も聖なる場所であるこの異邦人の庭が、全く信仰のない商売人や両替人のマーケットの場所になってしまっていました。聖なる祈りの場が汚されてしまっていたのでした。礼拝よりも、祈りの時間よりも、商売に必要なもの、その日の生活に必要な食べ物や生活用品をもって出入り自由にできる場所になってしまっていたのです。

もしわたしたちが、生活に追われ、神を忘れ、普段の生活であくせくして忙しくして心を滅ぼすならば、それはこの世の経済や生活で本当の礼拝を忘れていると言っても過言ではないような気がします。でも、誰でもそういう時はあります。心が神様ではなく、この世の方に生活、経済の方に向いてしまっていることはないでしょうか。「忙しい」という漢字は、見ての通り、「心が亡びる」と書きます。いろんなことで忙しくしていると、いつの間にか心が滅んでしまって、神様さえ忘れてしまうことがあります。

イエス様は、この汚れた罪の体にお入りくださいました。そしてこの世の富や知識、見栄や人の評判とか言ったうわべだけの信仰を打ち砕いて下さいました。そのような人間の肉の欲を、御自身の十字架によって打ち砕き、そのような肉の思いを完全に打ち砕いて下さったのです。このイエス様の宮聖めの働きは、私達の心の中の汚れた思いや物欲や肉の思いうわべだけの信仰をことごとく打ち砕いて下さり、そのような悪い思いを取り除いてくださったお方です。主の十字架の戦いと勝利がすでにここに述べられているのです。

3.祈りの家

イエス様は、この出来事を通して真の祈りと礼拝の場所は、この地上での物理的な場所ではなく、私たちの心と体をもって、信仰を持って献げる礼拝が真の礼拝であり、私たち自身が神の霊の宿るところの聖なる神殿だと言われました。(ヨハネ2:21、4:24、Ⅰコリント6:19、ローマ12:1)

ヨハネの福音書では、この神殿というのはイエス様の体のことを言っているのだと述べています。(ヨハネ2:21)イエス・キリストは十字架に架けられて、三日目に復活されました。そのことによって、目に見えない霊的な神殿を支える隅の頭石になりました。そしてこの隅の頭石を土台にして、その上に私たち一人一人が救われて築きあげられ、目に見えない霊の家が築き上げられます。これがキリストの体なる教会、霊のイスラエルだと言っております。「あなた方自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。」(Ⅰペテロ2:5)と聖書にあります。

つまりイエス様がおっしゃっている神殿とは、教会堂という建物ではなく、この教会に集う私たち一人一人の霊的な交わりのことを言っているのではないでしょうか。私達にとって、人生の中でなくてならないただ一つのことがあります。それは主の家に入って、御言葉を聞き祈りを献げるということです。ちょうど先週、この説教を準備しておりましたら、聖書日課の詩篇27篇4節に次のような御言葉がありました。「一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命のある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。」(詩篇27:4)

つまり私たちの人生になくてならぬもの、唯一の願いごと、それは主の家に宿って、喜びをもって朝を迎えることであると。つまり主の家とは、イエス様御自身の体である教会を指しています。主を信じて、主の教会に入り、兄弟姉妹との交わりを通して主の愛を体験しつつ、常に一つになって集まり、主に感謝と賛美と喜びを献げて生涯を過ごし、主の再臨する時まで、信仰を持って祈りつつ待ち望むことです。これこそ私たちの人生の究極の目的であり、この唯一のことだけを追い求めて行こうというのです。

4年前の東日本大震災の時も、20年前の阪神大震災の時も何もできませんでした。多くの人の命が瞬時にして奪われました。私たちができること、そして私たちができる最大の特権は、すべてを御支配し、すべてを裁かれる唯一の主なる神に祈ることです。すべては主の御手の内にあることを覚え、このお方にとりなしの祈りを献げることではないでしょうか。

パウロは、こう言いました。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿って下さる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。」(Ⅰコリント6:19)と。知らなかったでは済まされません。私達の体は、御聖霊様の宿る聖なる神殿なのです。わたし自身が神殿ですから、その神殿にふさわしく祈りの香を常に焚きつづけたいものです。

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