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礼拝のおける男と女 (Ⅰコリント11:2~16)

メッセージ

2013年11月3日富里キリスト教会

「礼拝における男と女」
(Ⅰコリント11:2~16)

1.コリント教会における女性たち

今朝は、コリント教会における女性の働きと立場についてお話したいと思います。私たちの教会もそうですが、キリスト教会は女性の方が多いです。バプテスト連盟でも7~8割が女性で占められています。そして、「主においては、男なしには女はなく、女なしには男はありません。」(11:11)とパウロが言っているように、男女平等、男女同権の風潮が異邦人教会の中には早くからありました。テレビの「八重の桜」でも、妻の八重が、夫の新島襄を「ジョー!」と呼び捨てにして、周りがびっくりしていました。儒教の教えの強かった封建的な日本では、当時考えられない習慣でした。

ところがコリント教会でも、ウーマンパワーが強かったのでしょうか、女性の意識と働きが教会を圧倒してしまい、礼拝の場で、女性が被り物をかぶらなくなってしまったのです。もし、かぶり物をしないで、女性が公の席に出るということは、頭を坊主にして出るのと同じくらい恥ずかしいことだとも言っています。ユダヤ人の女性も、最初はそのような被り物をして礼拝していたようですが、コリントの教会など異邦人の教会では必ずしもそういう習慣はありませんでした。また、家の教会が多かったせいか、家の中にいるような習慣で礼拝を持っていましたので、特別に服装を整えて帽子をかぶって礼拝するという習慣が薄れて行ったのではないかと言われています。

それだけ、このコリント教会のように異邦人の多い教会では、皆さんも知っているとおり、女性の働きは目覚ましいものがありました。女性執事や、女性教師もいました。もちろん、毎週の集会の準備や後片付け、家の教会の管理などは女性が担っていました。聖書の説き明かしをする預言の働きも担っていたのでしょう。多くの女性が目覚ましい活動を担っていました。しかし、パウロはやはり、教会での女性の働きと言うのは、神様の創造の秩序に従ってなされるべきであると勧めています。

2.男の栄光と女の栄光

11:3から読んでみましょう。「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです。男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります。それは髪の毛をそり落としたのと同じだからです。女が頭に物をかぶらないなら、髪の毛を切ってしまいなさい。女にとって髪の毛を切ったり、剃り落したりすることが恥ずかしいことなら、頭に物をかぶるべきです。男は神の姿と栄光を映すものですから、頭に物をかぶるべきではありません。しかし女は男の栄光を映すものです。と言うのは、男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。だから、女は天使たちのために、頭に力のしるしをかぶるべきです。」(11:3~10)

少し難しい文章が続いています。何を言っているのか少し解らないのではないかと思います。ただ、パウロは3節で、「ここであなたがたに知っておいてほしいのは、すべての男の頭はキリスト、女の頭は男、そしてキリストの頭は神であるということです」と言っています。この中で、「女の頭は男」であると言っています。私も長い間、この「女の頭は男です。」と言う言葉に縛られていたことがありました。そして自分は男として、女である妻を引っ張って行くんだ。また、「自分が先頭に立ってリードして行く、お前は黙ってついて来い」という考え方を長い間していたような気がします。

これは確かに神様が人間を創造した時の秩序でもあるわけです。その意味するところはこうです。「秩序においては、女は男に従属し、男はキリストに従属し、キリストは神に従属しているということです。」(現代訳聖書)つまり女は男に従属しているということなのです。それは、男がキリストに従属しているようにということです。つまり、男がキリストに従うように、女は男に従うことが神様の定めて下さった本来のあり方だということです。その夫の権威に従うしるしとして、女には長い髪の毛が与えられているというのです。

そして、この女性の髪の毛が美しいように、女は男に従うという態度や行いを通して、神の栄光を現すように造られているということです。そのようにして女は、男の栄光を現すものなのです。(11:7)一方、男は直接に「神の姿と栄光を現すものとして造られているので、物をかぶる必要はない。そのままで神の栄光を現すものです。しかし、女は、男の栄光を現すものとして造られたのであり、そのようにして、間接的に神の栄光を現すものなのです。女と男は神の栄光を現す表し方が違うのです。」(11:7現代訳)ですから、エフェソ書でも「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。・・・そして夫たちよ、キリストが教会を愛したように、妻を愛しなさい。」(エフェソ5:22,25)となっています。男と女は、神の栄光の現し方が違うということなのです。

つまり、男と女の栄光の表し方が違うのであるから、女は自分が直接的に神の栄光を現すものとして教会の中、とりわけ礼拝場面では、そのような神の創造の秩序に反するような態度を取ってはいけないとパウロは注意しております。女はあくまでも男に従い、男を自分の頭にして仕え、男が神の栄光を現すことによって、女の栄光があるというのです。したがって、教会の中や礼拝の時には、夫の権威に従うというしるしであるかぶり物(スカーフや帽子)をかぶらないで奉仕してはいけないというのです。女性は常に教会の中では、自分は男に従属することによって、神の栄光を現すものであるということを告白するようにしなさいと言うのです。そのために、頭にはかぶりものをつけなさいと言っています。

3.男なしに女はなく、女なしに男はない

男は男として神の栄光を現し、女は女として、男に従うという形で神の栄光を現しなさいということです。キリストも父なる神に従う従順な生き方を通して、神の栄光を現しました。そのように、男はキリストへの従順を現わすことによって、神の栄光を現し、女は男に従うことによって神の栄光を現すものとなって行くのです。神の栄光を現すことにおいては、男も女も同じであり、女の方が下だとか、劣っているということでは決してないのです。

女は、男の助け手として造られました。男のあばら骨から造られました。8節に「というのは、男が女から出て来たのではなく、女が男ら出て来たのだし、男が女のために造られたのではなく、女が男のために造られたのだからです。」(11:8~9)とパウロは言っています。これが「助け手」としての女の働きです。助け手をヘブライ語でエゼルと言います。これは本来は、男と向き合う者、相対する者と言う意味だそうです。また、英語でイーゼル(=easel)と言いますと、キャンバスを立てる画架のことを言います。つまり助け手と言いますのは、ただ単に男の助手とか補助者と言う意味ではなく、夫の心がきちんと神様に向いているかどうかを見つめるものです。そして、もし曲がっていたら、それを正して神様にまっすぐに向けさせる働きをする者と言う意味です。

女が単独で、神の栄光を映すものとはならないというのです。女の命は、そういう意味で男がどれだけ神に近づき、神に似るようになるかにかかっているといっても過言ではありません。そのために女は、信仰を持って男に従いつつ、男を助けて、神に従う者に造り上げて行くことを使命として、神様から受けているのではないでしょうか。それが助け手として創造された女の本質であり、目的ではないでしょうか。

フィギアスケートなんかは、その助け手であるコーチ如何によって、その選手が上手に滑るかどうかがかかっています。上手なコーチのところには何人もの選手が指導してほしいと集まって来ます。しかし、栄冠を受けるのは、コーチではなく選手です。ですから、この関係が大事だということです。スケートでは、コーチが男性で選手が女性です。男が女の栄光を現していますが、決して自分は助け手であり、コーチのようなものだと思って、卑下する必要はないということです。女は頭に物をかぶることによって、自分を隠し、男の権威の下に服しつつ、蔭になってしっかりと男を支えているのです。

そういう意味で、パウロは「主においては、男なしに女はなく、女なしに男はありません。」(11:11)と言っています。そして、教会の底力は、この多くの女性のへりくだった謙遜な従順に主に仕え、夫に仕えるという働きによって支えられていることを感謝したいと思います。

最後に箴言31:29の御言葉を読んで終わりにしたいと思います。「『有能な女は多いが、あなたはなお、そのすべてにまさる。』と。あでやかさは欺き、美しさは空しい。主を畏れる女こそ、たたえられる。彼女にその手の実りを報いよ。その業を町の城門でたたえよ。」(箴言31:29~31)そのようなすばらしい女の働きを、皆さんと共にほめたたえましょう。(岡田 久)

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