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知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げる (Ⅰコリント8:1~13)

メッセージ

2013年8月11日富里キリスト教会

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を造り上げる」
(Ⅰコリント8:1~13)

1.偶像に備えられた肉を食べるという問題の所在

コリントの町にはコリント名物の女神アフロデイーテの神殿だけではなく、ギリシャのいろんな神々をまつった神殿があちこちに立っておりました。そして、そこにお供え物として、牛や羊の肉を献げる風習がありました。供え物の肉の一部は祭司の懐に、残りは捧げた人のところに戻って来ました。ですから、奉献した人は、その異教の神々の神殿で、捧げものの肉を使って祝いの席を催したりしていました。それでも残った肉は、町の一般の肉屋さんに卸されて販売されていました。また、祭司のものとなった肉も祭司の家族だけでは食べきれませんから、市場に卸して換金していたようです。ですから、町で食べる食肉のどれが神殿の偶像に捧げられた肉かどうか判別が難しかったのです。

ですから、コリント教会の信徒も、いちいちどれが神殿に捧げられたものかを詮索することなく自由に買って食べていました。また、自分の家族や友人から、神殿での神事の食事会に呼ばれることもありましたので、そういう神殿での食事の席にも付いていたわけです。そういうクリスチャンは、信仰的にもしっかりと聖書を学んでいて、この肉が神殿の偶像に捧げられたものがどうかを気にしないで、招待を受けた時にはその宴席で飲み食いをしていました。彼らの考えでは、この世に偶像なる神は存在しないし、真の唯一の神のみが存在するのであるから、偶像の神殿で食事をしてその献げられた肉を食べても、信仰とはかかわりのないことだと考えておりました。

ところが、教会員の中にいろんな信仰を持った方がおられます。絶対に偶像に献げられた肉は口にしない、もしそれを食べてしまったら自分が汚れてしまうし、神に対する背信行為だと考えていました。エルサレムの教会の指導者たちからは、異邦人クリスチャンにはくれぐれも偶像に供えられた肉だけは食べないように、それ以外はよろしいという通達がありました。おそらく、そのようなユダヤ系のクリスチャンから、パウロにこっそりとあんなに神殿で平気で偶像に備えられた肉を食べてもいいのでしょうか、というような質問状が寄せられたのではないかと思います。そのような質問状に答える形で、パウロはこの手紙を書いています。

2.知識は人を高ぶらせる

8:4から読んでみましょう。「そこで、偶像に備えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、私たちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、私たちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。」(Ⅰコリント8:4~6)

ここに万物の起源であり、終わりである唯一の神のことが記されています。人間はすべてこの神から出て、神に帰って行くというのが聖書の真の神の教えです。また、万物はこのイエス・キリストによって存在していると記されています。この唯一の主、唯一の神であるお方しか存在していないのですから、他のどんな神々も、どんな主も存在しないというのです。確かにその通りです。ですから、太陽神アポロも、全能の主なる神ゼウスも、アポロの兄弟である女神アフロデイーテの神も存在しないのです。そういう神々の像や神殿が、コリントの町のあちこちにありました。日本の神々の風景と同じです。鎌倉の鶴岡八幡宮も、大宮の氷川神社も成田山新勝寺の不動明王も、閻魔様もこの世には存在しないのです。

そんな存在しない神々や仏様の前で食事をしたからと言って、何の差しさわりもないではない。せっかく呼ばれたのだから、いちいちこの肉がどこから来たのか、宴会の場所が神社、お寺だろうが、神殿だろうがどうでもいいことではないか。そんなことで信仰が無くなるとか、偶像礼拝者の仲間になってしまうとは思わないと考えていました。そして、堂々と神殿に献げられた肉料理にあずかっていたのです。

むしろ、聖書を学ぶことによって、神に対する知識が豊富になり、自分で聖書から判断して異教世界における信仰生活の守り方というようなものを、自分たちなりに考え出していたようです。そしてそのことが、知識をもったクリスチャンの間では、自分たちの方が進んでいる信仰、自分たちの方が食べ物にあまりこだわらない自由な信仰だと考え、そうでない人を幼い信仰、弱い信仰の人だと考えていた節があります。

3.偶像に備えられた肉を食べないと信じている人

パウロはそういう人々の知識や自由が、本当に神様から出て来ているものであるかどうか注意勧告をしています。彼らの自由と知識が、そういう弱い人々に対してどういう結果になるかという心配しています。

8:9から読んでみましょう。「ただ、あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識をもっているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、誰かが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことになるのです。」(8:9~12)

これはどういうことかと言いますと、知識のあるクリスチャンが、たまたま友人のお祝いの席に招待を受けて、神殿の宴会の席に座って食事をしていました。もちろん、出た肉はその偶像の神に献げられた肉です。そこにたまたま、入信間もないクリスチャンの方が同席していて、自分の教会の先輩の方が堂々と偶像に捧げられた肉を食べているのを見て、「アッ、クリスチャンは偶像に捧げられた肉を食べてもいいんだな。」と思ったとします。

ところがこの信徒の方はまだ信仰が十分に育っていないために、先輩をまねして食べてみたもののどこか後ろめたい感じがします。自分に言い聞かせて、「これは大丈夫、普通の肉なんだ」と言い聞かせて食べてみたものの、何となく心がすっきりしません。どっかに自分は罪を犯しているんじゃないだろうかという不安が心の中をよぎりました。これがその弱い人の良心が傷つくということです。先輩のまねをして思い切って肉は食べては見たものの、なんか罪を犯したんじゃないかという不安、迷い、確信のなさが彼の信仰を揺さるのです。なぜなら、まだしっかりした救いの確信をもっていないからです。

パウロは、このようなクリスチャンの心の不安、疑いというものが、救われたばかりの弱く幼い魂にとって致命的な打撃を与えることになると警告しています。そして、引いてはその人の信仰まで失ってしまわないだろうかと心配しています。ローマ14:22にこういう言葉があります。「あなたは自分が抱いている確信を、神の御前で心の内に持っていなさい。自分の決心にやましさを感じない人は幸いです。疑いながら食べる人は、確信に基づいて行動していないので、罪に定められます。確信に基づいていないことは、全て罪なのです。」(ローマ14:22~23)

このようにして、もし神についての知識があり、自由な信仰を持っている人が、その自由さのゆえに、一人の信仰の弱い人の確信を揺さぶり、疑いと迷いと不信仰の中へと追いやってしまったのなら、いったいあなたの神に対する知識とは何なのですかとパウロは問うています。その結果、その弱い人に対してあなたは罪を犯し、その人の弱い良心を傷つけ、その人を滅ぼしししまうことになります。これはキリストに対する明らかな罪なんですよ、と警告しています。それでもあなたがた強い人は、まだ自分が神の知識をもっていると言い張るのですか。それでは、あなたがた知識のある人は、自分が知らなければならないほどのことすらまだ何も知っていないのですと戒めています。(8:2)

4.愛は人を造り上げる

最後に、「知識は人を高ぶらせるが、愛は人を造り上げる。」とパウロは言っています。今日の説教の題となっていますが、どんなに知識があっても、自由な信仰を持っていても、その根底に愛という動機がなければ、それはむなしいものであるし、キリストに対する罪でもあるとパウロは言っています。「たとえ預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの信仰を持っていようとも、愛がなければ無に等しい。」(Ⅰコリント13:2)

愛とは何か。それはイエス・キリストが私たちのためにご自分の命を与えるほどに、私たちのためにご自分を低くして仕えてくださり、その命をも与えてくださったほどの愛です。愛は「自慢せず、高ぶらず、礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。(Ⅰコリント13:4~5)」とありますとおり、自分を誇るのではなく、どこまでも相手の益をはかってあげることです。パウロはこれを、「人を造り上げる」と言っています。これはギリシャ語では、「オイコドメオー」という建築用語です。「相手を建て上げる」、「相手の徳を高める」と訳している聖書もあります。

ですから、いくら自分に知識があり、自由な信仰があっても、そのことによって信仰の弱い人が教育されて、先輩のまねをして偶像に供えられた肉を食べるようになり、信仰の確信を失ってしまいかねないのならば、真の知識とはいえないというのです。パウロ自身は、そのような弱い人を失ってしまわないために、自分は今後決して肉は食べないと断言しています。たとえ、偶像にささげられなかった健全な肉であっても、兄弟をつまずかせるならば、私は今後、肉は絶対に口にしないと宣言しています。(8:13)

皆さん、教会は愛の教会です。そして、その愛と言うのは、どこまでも相手を建て上げるための言葉であり、態度であり、行為ではないでしょうか。相手を造り上げることです。相手のために益を図ってあげることです。分かっているようでなかなかできません。自分の考え、ポリシー、信念というものを持っています。しかし、自分がへりくだることによって、逆にどうすれば相手の益を図れるかが見えてきます。

一見、自分を捨て、自分ばかり損をしているような気持ちになるかもしれませんが、実はそのことによって一人一人がしっかりと造り上げられてゆきます。相手だけではなく、結果的には自分自身も造り上げられてゆくのです。建て上げられてゆくのです。こうして柱と壁がつながり、梁と梁が合わされて一軒の大きな家が建ち上がって行くのです。これがキリストの体である教会です。命のある生きた建物です。そのような富里キリスト教会になって行きたいと願っています。                      (岡田 久)

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