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知恵と啓示の霊 (Ⅰ コリント2・10〜16)

メッセージ

2010年1月17日富里教会
    「知恵と啓示の霊」
         (Ⅰコリント2:10〜16)

1.知恵と啓示の霊
第一コリント2:10から読んでみましょう。
「私たちには、神が霊によってそのことを明らかに示して下さいました。“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます。人の内にある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、神の霊以外に神のことを知るものはいません。わたしたちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。それでわたしたちは、神から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(?コリント2:10〜12)

神様の霊以外、神様のことを知ることはできません。ですから、私たちが神様のことを知ることができたということは、自分で修行を積んで、あるいは学問を研鑚して神を知るようになったと言うのではなく、神様の側から聖霊様を通して私達に御自身を現して下さったからなのです。これを啓示といいます。一方的な恵みによって神を知ることができるようになったのです。「私たちは神からの霊を受けたのです。それで、私たちは、神からの恵みとして与えられたものを知るようになったのです。」(2:12)とあります。

10節に「明らかに示して下さいました」という言葉がありますが、口語訳聖書では「神が聖霊によって私達に啓示して下さったのである」となっています。英語ではこの「啓示する」ということを、「リビール(Reveal)」といいます。「Re」は「除く」で、「Veal」はベールです。ですから、啓示と言うのは、「ベールで覆われていた、そのベールを取り除くと言う事です。」そこで初めて真理がわかるのです。(原語のギリシャ語では、「アポカリュプトウ」で、「アポ」は「除く」、「カリュプトウ」は「覆う」を意味する。)日本語の「啓示」という言葉も、訓読みをしますと「啓(ひら)き示す」となります。自分で啓くのではなく、神様の側から聖霊様を通して、私たちの心の扉を啓いて下さったので神様を知ることができたのです。

では聖霊様は、私達に神様の何を啓き示して下さったのでしょうか。7節に「わたしたちが語るのは、隠されていた、神秘としての神の知恵であり、神がわたしたちに栄光を与えるために、世界の始まる前から定めておられたものです。」とあります。つまり神様は、天地万物の初めから、この世が造られる前から私たちのために準備しておられたものです。それはイエス・キリストの十字架に示された神様の大きな愛ではなかったでしょうか。イエス・キリストの十字架に示された神様の愛、このことが最初から私たちのために定められ準備されていたのです。

神様は天地創造の前から私たちを神の子としようとあらかじめ予定して下さいました。そして、御子イエス・キリストをこの世に送り、御子の十字架を通して私たちの罪を赦し、神の子として下さるということです。御子は十字架の上に死なれましたが三日目に復活され、信じる者に永遠の命を約束してくださいました。その十字架と復活の福音が、聖霊様を通して私たちの心に届けられたのです。この聖霊様を通して、この神の救いの御計画と神様の大きな愛が、わたしたちに明らかに示されたのです。これは啓示の霊の働きです。

そして私たちはすでにこの神からの霊をいただきました。心の中に神様の思いもいただいております。このすでに神様からいただいているものがどんなに大きなものであるのかを、知ってもらいたいとパウロは祈っています。それを教え悟らせるのが、知恵と啓示の霊なのです。エフェソ1:17にパウロはこう祈っています。「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の源である御父が、あなたがたに知恵と啓示との霊を与え、神を深く知ることができるようにし、心の目を開いてくださるように。」と祈っています。

パウロは、私達信じる者に与えられたこの霊的祝福がどんなに大きなものであるかということを知って欲しいと語っています。聖霊様を通して神様の知恵とと救いの御計画を知ることができるようにと祈っています。わたしたちが救われたこと、こうして教会に集められていること、やがて栄光の姿で天国に行くことができること、それがどんなにすばらしいことであるかということを知って欲しいと願っています。神様にあれをして下さい、こうしてくださいと願うことよりも、今救われて恵みのうちに生かされていること、そして聖書を通して神様のことをもっともっと深く知ることができるということ、神様の奥義と神秘を極めることができるということのすばらしさ、これ以上に幸せなことはないというのです。

2.霊の乳飲み子
それにもかかわらず、コリントの信徒たちはまだ、キリストにある幼子だったのです。?コリント3:2〜3を読んでみましょう。「私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません。相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか。」

コリント教会の人たちはクリスチャンですが、まだ霊的には幼子だったのです。ねたみや争いが絶えなかったようです。ですからパウロは「あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる」と少し厳しい言葉で注意しています。残念ですが、クリスチャンが霊的に成長するには時間がかかります。教会が大きくなっても,その内部ではいろんな問題を抱えて、教会が苦しんでいることがあります。イエス・キリストを通してすべてのものをいただいているにもかかわらず、何も持たない人のようにお互いにねたんだり、逆に自分を誇ったりしていました。また十字架の言葉が根付いてこないのです。霊的な幼子でした。ですから、この聖霊様の働きによって、神様の大きな愛をみんなが知って、教会が一つとなってゆくようにということをパウロ先生は絶えず祈りました。

教会の中で、あるいは日々の生活の中で神様は私たちを絶えず御言葉をもって養っていて下さいます。聖霊様も私たちを励まし助けて下さっています。そして神様の大きな愛をもっと深く知り、感謝と喜びを持って歩んでゆけるようにと願っています。最後に、ではどうしたら、この知恵と啓示の霊を受けることができるでしょうか。

3.霊の人となるために
まず、聖霊様を認めることです。クリスチャンの中には「聖霊っているんですか?」と尋ねられる方もおられるくらいです。おられるのです。「クリスチャンなら、誰でもあなたの心の中に聖霊様がおられるのです」と答えてあげたいです。そしてすでにわたしたちの心の中に働いて、イエス様を心の中に住まわせて下さっているのです。そして、パウロ先生が私たちのために「神様が私たちの心に、知恵と啓示の霊を与えて、心の目を開いて下さって、神様をもっと深く知ることができるように」と祈ってくださっています。ですから、私たちもお互いに知恵と啓示の霊が与えられるようにと祈りましょう。

イエス様が「心の貧しいものは幸いである」とおっしゃったように、自分の足りないところを知り、それを求めるものには惜しみなく霊的な祝福を注いで下さいます。ですから誰でも、自分に欠けているもの、足りないものを遠慮せずに神様に求めてみましょう。必ず神様は、その祈りに答えて下さいます。聖書が解らなければ啓示の霊を求めればいいし、人間関係に悩んでいれば知恵の霊を求めればいいでしょう。信じたいと願う人は信仰の霊を求めればいいです。いつもいらいらしているならば柔和な霊、しとやかな霊を求めればいいです。傲慢な人は謙遜の霊を求めればいいのです。すでに聖霊様はここにおられる皆様方の心にいて下さいますから。

そして、聖書のみ言葉をあきらめないでいつも祈りつつ読みましょう。またいつも共に集まって、賛美と祈りを捧げましょう。熱心に教会の奉仕をしましょう。エフェソ5:18に「酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩篇と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向って心からほめ歌いなさい。」とあります。共に集まって賛美し、語り合う時に聖霊様の満たし、充満が起こります。身体を動かして、奉仕をし伝道する時にも聖霊様はわたしたちの内に働いて力を与えて下さいます。
 
私たちはすでに、この世の霊ではなく、神様からの霊を受けました。そしてイエス様の十字架の言葉によって救われました。ですから絶えず、神様の救いを感謝し、私たちを愛して下さったその神様の愛がもっと深く解るように祈りたいものです。「主よ私の目を開いて、あなたのおきてのうちのくすしき事を見させてください。」(詩篇119:18)と。         
                                                  (岡田 久)

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