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真理を行う者は光に来る (ヨハネ3:1~21)

メッセージ
2020年1月5日新年礼拝
「真理を行う者は光に来る」
(ヨハネ3:1~21)

1.悪を行う者

永遠の命を与える光が世に来て、輝いているにもかかわらず、世はこの光を認めず、光の元へ来ようとさえしません。それが現代の社会そのものでもあるわけです。むしろ光よりも闇の方を愛して、闇から闇へと悪を重ねて姿を隠してうごめきまわっている、これが現代社会の人間の姿でもあるわけです。先日もアメリカ軍がイランの軍事的指導者を攻撃して暗殺しました。そして自分の正当性を主張しています。これからの報復の繰り返しが心配です。国内的にもカジノ汚職で、中国の企業から日本の政治家に賄賂が渡されました。とばくの利権に群がる虫のような存在です。

さらに日本では、親が子供を殺し、子供が親を殺すという事件が後を絶ちません。沈黙の闇世界が支配する社会です。天地創造の時の御言葉「地は混沌であって、暗闇が淵の面を覆っていた。」(創世記2:2)という原始の状態です。誰一人として、今光り輝いている真理の光の元へ来ようとはしません。背を向けて暗闇の中に逃げ込んでしまうか、開き直って自分の見せかけの義を主張するかのどちらかです。

今日の聖書の御言葉にございます。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」(ヨハネ3:19~20)もしこの世に悪人、悪い者と称する人が存在するならば、それは光の元に来ない人です。光を憎む人です。そういう言う人は正真正銘、悪を行う人です。人は皆例外なく、自分の内側に闇を持っています。暗闇、汚れ、苦さ、咎を持っていない人はいません。

そして、光である御子イエス・キリストがこの世に来てからすでに2020年経ちました。この間、命と光の源であるお方は、この世をズーっと照らし続けてきました。その言葉は耳には聞こえませんが、大きな声で地響きを立てて全世界に、語り告げられて来ています。そして毎年12月には、世界的な伝道が全世界の人々に向かって、クリスマスとして語られてきました。誰もイエス・キリストの言葉を聞いたことがないという人はいません。それでもその言葉を聞いて光の元へ来る人はほんのわずかです。何故悪を行う人が光を憎み、光のもとへ来ようとしないのでしょうか。それは自分の悪行、罪、過ちといった闇の部分が明らかにされるからです。そして非難されたり、恥をこうむったり、裁かれたり、懲らしめられたり、罰を受けるからです。だから来ません。その心境は分かります。

19節にあります通り、「その行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それがもう裁きになっている。」とあります通りです。アダムが自分の裸の体を隠しながら、神の顔を避けて逃げ回っている姿そのものです。逃げる、姿を隠す、これが罪を犯し隠し続けている人間の習性です。どんどんと悪のスパイラルに陥ってしまいます。そして、聖書はそのことを「それがもう裁きになっている。」と言っています。もう一度19節を読んでみます。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行うものは皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。」とあります。まさにこのみ言葉のとおりです。光によって自分の悪事が明らかにされて、裁かれることを恐れ、光の方に来ようとしないのです。これが悪を行う人です。そしてそのことがすでに裁きになっているのです。

2.真理を行う者

では一体、この悪を行う者の反対の人、真理を行う者とは誰のことでしょうか。先ほどの20節と並列して21節にはこう記されています。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」真理を行う人、英語では But whoever lives by the truth comes into the light となっています。つまり日本語にしますと、「真実によって生きている人は、光の元に来ます。」となります。つまり、真理を行う人といいますのは、自分が常に正しいことをする人、間違ったことをしていない人ということではなく、真理に従って生活している人、真理に依って生活している人のことです。真理なるお方は唯一人、「わたしは道であり、命であり、真理である」(ヨハネ14:6)と言われたイエス・キリスト唯お一人です。

真理を行う人というのは、この真理であるイエス・キリストによって生きている人のことを言います。つまり、自分の罪を認め、光なるお方のもとに来て、その方の命の光に照らされて生きている人のことを真理を行って生きる人といいます。光に来る人のことです。自分の闇、自分の失敗、自分の罪、自分の弱さを認めて、自分の中には光がないことを知って、唯一の光であるイエス・キリストの光によって生きる人のこと、これが真理を行う人ではないでしょうか。ニコデモは正しい人でした。イスラエルの指導者です。でも何か自分の中にあるモヤモヤとしたもの、不安や恐れの気持ちがあったのではないでしょうか。自分の中に真理がないという漠然とした恐れを抱いていたので、夜こっそりと尋ねて来たのではないでしょうか。

この方なしには生きて行けない人、真理であるイエス様に頼って生きている人です。換言すれば、それは、自分の非を認め、自分の悪を認め、自分の罪を認めて、まことの光の前に出て全てを告白する人、このような人を、本当の意味での真理を行う人というのではないでしょうか。自分の真理によってではなく、神の真理によってのみ生きる人のことです。神の真理によってのみ生かされている人、神の真理によってしか生きることのできない人、そういう人を真理を行う人というのではないかと思います。

例えば、神殿から遠く離れて、自分の胸を打ちたたきながら、「神様、罪人の私を憐れんでください。」(ルカ18:13)と祈った取税人のような人です。またイエスを裏切らないと断言していながら、三度もイエスを知らないと言ってしまい、男泣きに泣き崩れた弟子のペテロもそうです。(ルカ22:62)また姦淫と殺人の罪を犯したために、自分の子供の命を奪われ、心から悔い改めて主の前に罪の告白をしたダビデ王もそうです。(詩編51編)イエス・キリストの罪の贖いなしには生きて行けない人、主の御許に来て己の罪を悔い改め、ひれ伏した人々が真理を行う人々ではないでしょうか。

このヨハネ3:14で主イエスは、ニコデモに意味ありげな聖書の御言葉を引用されました。「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられねばならない。それは信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである。」(3:14~15)これは罪を犯したイスラエルの民が、自分の罪を認めて荒野に掲げられた青銅の蛇を見上げて、主の前に自分の罪を告白するならば、その人の傷がいやされて、生き延びることが出来たというお話です。この荒野の蛇のように、イエス・キリストが十字架に高く掲げられて、罪の贖いの業をすることによって、人々の罪を贖い、このお方を見上げて信じる者が罪赦されて永遠に生きるということを示しています。

それほどまでに、神はこの世を愛されたということです。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためです。」これは誰でも自分の罪を認めて、主のもとに来る人はどんな罪でも赦されて、永遠の命をいただくことが出来るというメッセージです。信仰とは、自分を罪人として、あるがままの姿で主の前に出て、その罪の赦しの愛の光を受けることです。そのことによって、闇の中を逃げ回っていた人間が、罪赦されて永遠の命を受けることが出来るということです。主イエスは「光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」(ヨハネ12:36)と言われました。

ニコデモはこの時、まだはっきりと主の前に出ることが出来ませんでした。ただ漠然と主の救いの光の元にやって来ていました。それは自分の罪についての解決をどこかで求めていたからかもしれません。でもはっきりとした信仰決心までは至りませんでした。しかし、このあと3年後には、同僚の議員仲間であるアリマタヤのヨセフと一緒に、十字架に架かった主の遺体を引き下ろすために、一歩足を踏み出して、大勢の人の前で、主の弟子であることを明らかにしました。(ヨハネ19:39)ニコデモのこの信仰の決断は、彼の行いがすべて神に導かれてなされていたということが明らかになるためでした。こうしてニコデモも、真理を行う者になって行きました。光は今も闇の中に輝いています。この真理の光の下に、生かされていることを感謝しつつ、闇に追いつかれないよう、光を目指して歩んでまいりましょう。(岡田 久)

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