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真実の愛 (ガラテヤ1:1~6、26~29)

メッセージ
2019年5月12日富里キリスト教会
「真実の愛」
(ガラテヤ3:1~6、26~29)

1.十字架の恥か律法の誇りか

先週は「律法に死ぬとはどういうことか」ということについてお話しました。
律法に死ぬということは、「自分の中には神の恵みに値するものが何もない、罪深い人間でしかないという所に立つことだ」と言いました。自分の実績や努力や知識によって神に認めてもらおうとする思い上がった考えを放棄することであるとも言いました。でも人間は、どうしても自分を誇りたい、自分を良く見せたいという思いが強いですから、知らず知らずのうちに何かを誇ってしまうのです。それは、自分は不十分だ、何もできない弱い人間だという低い自己評価がありますと、逆に自分を誇ってよく見せたいと思うのではないでしょうか。あのアダムとエバが自分で作った無花果の葉っぱの服のようなものです。自分の欠点、欠けを隠すために良く見せようと必死に努力する、これが律法の本質です。

人間は誰でも自分の弱さや欠点や障害や罪を出したくない、できればそういう劣る部分は隠しておきたい、良いところだけ見せたいと思うのが人情です。自分にプラスのことを言って誇りたいのです。すると聞く人も、「じゃあ、うちもそうなりたい。どうしたらそうなれるのですか。教えてください。」と言ってきます。すると得意げに、こうした方がいい、ああした方がいいと言って自分の能力や伝道方法を誇り、人を教えることによって自己満足をするのです。これが律法主義の本音です。いかがですか、わたしたちの中にそういう律法主義的な信仰はないでしょうか。自分を誇り自己中心の心を満足させたいがために、自分たちの外形的なしるしや習慣を誇り、これを押し付けたいのです。

でも大事なことは、その人が心の底から新しく造りかえられて、良い実をつけて行くことではないでしょうか。その人が新しく内側から造りかえられて、実を結ぶ、つまり愛、喜び、平安、従順と言った賜物を身に着け、人々を救いに導くようになることです。これが弟子訓練の目的です。「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(6:15)あれを受講したこれを受けたという証明書が問題ではありません。大事なことをそれによって、日々新しく変えられてゆくことです。日々悔い改めて行くことです。昨日の自分よりも今日の自分、今日の自分よりも明日の自分へと造り替えられてゆくことが信仰なのです。

I preached what is to die to the law. To die to the law means I have nothing worthy of God’s grace and I am a sinful person. To die to the law means I abandon thought that I want God to recognize by my own achievement, effort and knowledge. But the people who want to proud to the other will boast their good point. They never proud their weak point and sins. But Jesus Christ was clearly portrayed as crucified. He has been crucified for our own sins. So we cannot proud for anyone for our sins. We should proud our weakness and failure.

自分たち異邦人もユダヤ人のような信仰の民になりたい、そういう錯覚をユダヤ主義的なクリスチャンは植え付けていました。そのように信仰による救いよりも、何か行いによって救われるという律法的な考え方に引き込まれて行ってしまったガラテヤ教会の人々に対して、失望し落胆して自分の本音をぶつけて書いたのがこの手紙です。彼の激情がほとばしり出るような文面になっています。3:1から読んでみます。

「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、誰があなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか。あなたがたに一つだけ確かめたい。あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか。あなたがたは、それほど物分かりが悪く、“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか。無駄であったはずはないでしょうに・・・・。あなたがたに”霊”を授け、また、あなたがたの間で奇跡を行われる方は、あなたがたが律法を行ったから、そうなさるのでしょうか。それとも、あなたがたが福音を聞いて信じたからですか。それは、「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」と言われているとおりです。」(ガラテヤ3:1~6)

2.愛する者の与える傷

これは手紙というよりは、パウロの生の肉声の言葉です。しかも失望と叱責の言葉です。パウロが目の前にいて、わたしたちを叱っているような口調です。開口一番、「物分かりの悪いガラテヤの人たち。」と言っています。また3節でも「物分かりが悪い」と言っています。わたしはちょっと言えない気がします。皆さんに向かって、「富里教会の人は物分かりが悪い。まだそんなことも知らないのか。まるで子供に話すように話さなければならないのか。」と、中々面と向かって言えない言葉です。先週は、少し頑張って、自分たちだけの自己中心的な食事会をしてはいけませんと、まるで親が子供に言うように言ってしまいました。まだ子供じみたことをしているのですから。まるで子供を叱る親のような牧師になってしまっているのです。

でもパウロは、はっきりと「物分かりが悪い」と言っています。彼はまたペテロに対しても、「あなたは二心を持っている、一貫して福音に立ってはいない。」と公衆の面前でなじっているのです。言うべきことハッキリと信徒に対しても先輩に対しても言いました。「物分かりの悪い信徒だ。」と。でも最近、教えられたことは「愛をもって真理を語る」(エフェソ4:15)の言葉です。実はこのみ言葉は、わたしが副牧師に就任した教会の就任記念のしおりの御言葉でした。そのみ言葉を、主任の先生が選んでくださったのです。今思えば、その方は非常に厳しい牧師でしたが、やはりその根底には愛があったからこそ真理をハッキリと語り、信徒を叱ることができたのではないだろうかと思います。

また先日、箴言の中にもこういう言葉を見つけました。「あらわな戒めは隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は忠実さのしるし、憎む人は数多くの接吻を与える。」(箴言27:5~6)と。本当にその人を愛している人は、その人に傷を与える人だということです。そして逆に憎んでいる人は多くの接吻を与えるとあります。皆さんはどちらですか。友人を愛する人ですか、それとも憎む人ですか。憎む人は、その人が失敗しても悪いことをして、「いいの、いいの、あなたのせいじゃないわ。」と偽りの接吻をどんどん与えます。でも真の友は、「そんな愚かなことしちゃいけない、神様に背くことです。悔い改めなさい。謝りなさい。あなたは滅びるわよ。」と傷つくくらい警告する人です。皆さんはどちらの友が良いですか。

Paul said “You foolish Galatians” in 3:1. He said to the Galatian Christians “You are foolish”. This is a very tough word. I may not speak. But Paul said to Galatians with his passionate love. In Ephesians letter he said “speaking the truth in love” (Ephesians 4:15). Or “Better is open rebuke than hidden love” is in Proverbs 27:5. If we have a love to our friend we should rebuke him and speak the truth, never hidden his failure and his sins and unbelief. To speak openly is to prove his true love. Conversely hating one will give many kisses. Which person do you want?

3.十字架につけられたキリスト

わたしもパウロのようにはっきり言わせてもらいますが、富里教会に来て気が付いたことがあります。それは、「聖霊」という言葉と「十字架」という言葉があまり語られていないということです。この二つが解らないと、聖書が分かりません。よく「わたしには信仰が無い。」という言葉を言う方がいますが、この二つが解らないと聖書が分かりませんから信仰も解らないのではないでしょうか。
週報にようやく、「教会に聖霊が注がれて」という言葉が入りましたので、皆さんの中には少し「聖霊」という言葉を言う方も出てきました。そして後はこの「十字架」です。つまり、わたしの罪のためにイエス様が十字架に架かって下さり罪を贖って下さった。十字架はわたしの罪のためです。という言葉です。

自分の目の前に十字架につけられたあのキリストの姿を見ていなければ、自分の行いによって救われるという律法的なクリスチャンです。自分を誇り、自分中心のまだ幼いクリスチャンかもしれません。十字架のキリストがまだよく解かっていない、まだよく見えていないのです。自我で信仰している時です。律法にまだ死んでいない、まだ自分が何かできると思っています。律法に死ぬということは、祈るときに、静まって自分の心と語り、自分の罪を見つめて、罪を告白し、悔い改めることです。これが自我に死ぬことです。

つまり自分の内には神の恵みに値するものが何もない、本当に主の十字架の前に罪深い人間でしかないと認めることです。自分に死ぬということです。自我、自分、こうしなければという自己中心の自分を守ろうとすることを放棄することです。どんな時でも神様の愛と恵みに心を向けることです。神から目が離れているから、自分守ろう良く見せようと思うのではないでしょうか。しかし主の向き直り、主の愛に浸るならば、自分を守ろうとすることが無くなります。自分の弱さ、無力さ、罪深さ、失敗を素直に認めることができるようになります。それが恵みの福音に生きるキリスト者です。

自分がこうして救われて、今教会に入れられて、主と共に行かされていること、これは自分から出たものではなく、神様の一方的な恵みのプレゼントです。自分を誇らない、自分中心にはならないと肝に命じるのです。自我に死んでいる人は、人の忠告や警告を素直に聞きます。教えを受けるのです。そして聖霊によって、神の栄光から栄光へとどんどん造り替えられてゆきます。成長してゆきます。良い実をつけて行きます。

パウロは「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも福音を聞いて信じたからですか。」(3:2)どっちですかと問うています。わたしたちが救われたのは、ただ福音を聞いて信じたからです。それを可能にして下さったのが、聖霊様です。アブラハムでさえ、あの神の約束の御言葉を聞いて信じたので、罪赦されて義とされたのです。何か大きな仕事をしたとか、一族を守ったとかではありません。「あなたの子孫は、この星のようになる。」といった主の御言葉を聞いて信じたのです。(創世記15:5~6)

聞いて信じたのは、わたしの力ではありません。聖霊様の力なのです。ですから福音を聞いて信じた者は、聖霊によって信じているのです。霊を受けたので信じたのです。何かをしたのではありません。わたしたちは皆この霊によって、主イエスを信じる恵みへと招き入れられたものなのです。

Paul showed them crucified Jesus on the cross clearly like a picture.
By Jesus’s crucifixion our sins were redeemed and we were saved in God’s grace. Our deed and work have no value for salvation. And the Holy Spirit lead us to the faith to hear the Gospels. All work is by the Holy Spirit. Noting is comes from our side. This is the gift of grace from the God. You are loved by God.

4.キリストを着る

そしてパウロはこの3章の最後のところで、あれほどにガラテヤの信徒を物分かりが悪いと言っておきながら、3:26で「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」(3:26~27)と言っています。そこの26節から29節までの間に、「皆」という言葉が3回も出ています。その皆という言葉の中には、信仰が弱くて、物分かりの悪いガラテヤの信徒も入っているのです。パウロが散々けなしているのは、彼らを見捨てたり、裁いたりしたのではなく、彼らが何とか本当の恵みの信仰へと立ち返ってほしいからでした。

あなたがたもわたしと同じ信仰をいただいているのだから、その福音の真理に立って歩んで欲しいと願っているからこそです。「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです。バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたがは皆、キリストを着ているからです。」というパウロの宣言です。誰が何といおうが、この言葉は真実です。クリスチャンの間に差別はないのです。ユダヤ人クリスチャンもギリシャ人クリスチャンも、日本人であろうが、モンゴル人であろうがなん区別も差別もありません。わたしたちは一つとなるために、キリストを着せてもらったのです。

わたしたちは皆、イエス・キリストの福音を聞いて信じたのです。それは自分から出たものではありません。神様の恵みです。聞いて信じるということは、簡単なことのようですが、聖霊様が働かなければだれも信仰を持つことはできないのです。そのような大きな恵みを忘れないでほしいとパウロは願っています。バプテスマと同時に、イエス・キリストを着たのです。いや着せられたと言ってもいいかもしれません。自分で着たのではありません。神様が着せて下さったのです。取るに足らない、罪深い、失敗だらけの、不信仰な自分ですが、神様の一方的な憐れみによって選ばれてキリストを着せてもらったのです。どこに自分の力、自分の努力があるでしょうか。

Paul said “You are all sons of God through faith in Christ Jesus, for all of you who were baptized into Christ have clothed yourselves with Christ.” (3:26-27) when we baptized, we have clothed with Christ. Or
we have been clothed by God not by myself but by God. We have clothed same uniform of Jesus Christ. There is no different between us. We are all one in Christ. We were save to be one body of Christ. Never proud ourselves and never selfish. We should love each other and serve to the other members.

そして同じキリストを着せてもらったのは、ただ一つ、わたしたちがキリストにあって一つとなるためなのです。ユダヤ人、ギリシャ人、お金持ち、貧しい人、男と女、若い人とお年寄り、妻帯者と独身者、そのような区別はありません。皆キリストを着て、一つの体なのです。それぞれの部分が自分勝手に動くのではなく、相手のために、教会全体のプラスのためにだけ行動するのです。

もし自分勝手な集まりをしたりグループを作ったり、分裂的な行動をするならば、その人は一つであるキリストの体に対して罪を犯していることになります。そういうことがないがどうか、いつも自己反省と自分の行動を吟味するのが主の晩餐式です。そことだけは常に肝に命じて、自分からこの恵みの食卓から外れてしまうことのないように注意しなければなりません。皆イエス・キリストという一つのユニホームを着たチームなのです。教会の目的はわたしたちが一つになることなのです。ですから、一切の律法主義や分裂分派行動に陥らないように、毎月毎月主の晩餐式をしながら、確認し合っているのです。

自分を喜ばせるのではなく、チームが勝利するために、教会がサタンに勝利して主の栄光を表すために働くべきではないでしょうか。「あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです。」(3:28)この一つになることを妨げるサタンの攻撃には、徹底して戦ってゆきましょう。そのことを宣べ伝えるのが説教です。それが牧師の一番大切な宣教の仕事です。パウロのようにはっきりと、そんなことをすると裁かれるよ、罪を悔い改めなさいとお互いに言葉に出して戒め合える富里教会になってゆきたいと願っています。(岡田 久)

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