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真夜中の讃美 (使徒言行録16:25~34)

メッセージ

2013年6月30日富里キリスト教会

「真夜中の賛美」
(使徒言行録16:25~34)

1.真夜中でも

「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」
                    (使徒言行録16:25~26)

パウロとシラスはフィリピの町で伝道しておりました。実は、トルコのトロアスにいた時に、一人のマケドニア人(ギリシャ)が幻の中でパウロに現れて、「わたしたちを助けてください。」(16:9)とパウロに懇願しました。このマケドニア人の助けを求める声に導かれて、二人はギリシャのマケドニア地方に、船で渡って行きました。そして、このフィリピの町で最初に救われた人が、紫布の商人をしていたリィデアと言う一人の女性でした。そして、更にこの町で占いの霊につかれた奴隷の女から、占いの霊を追い出してあげました。ところがこの占いで商売をしていた主人が自分の収入源を断たれてしまったので、その腹いせにパウロたちを訴えて逮捕させたのです。何も悪いことをした覚えがないのに、二人は無実の罪で鞭打たれ、厳重に木の足枷をはめられて牢屋の一番奥の部屋に入れられてしまいました。

そういう事情の中で、二人は両足に木の足枷をはめられて真っ暗闇の中に置かれたのです。鞭うちの刑によって傷ついた背中の傷がひりひりと痛みます。「なんで自分たちは、こういう目に会わなければならないのだろう。」と思ったかもしれません。「こんなんじゃ、マケドニアに来るんじゃなかった。この伝道は失敗だった。」と思ったかもしれません。夜も深々と更けてゆく中で、パウロとシラスの心も折れて、真夜中のようにお先真っ暗になっていたかもしれません。歌うどころの話ではなかったと思います。

パウロたちもおそらく、この人生の真っ暗闇の中で、ただひたすら、自分たちの力の源、自分たちの盾である一人の神をひたすら待ち望みつつ、讃美歌を歌っていたのではないでしょうか。この「鹿のように」と言う讃美歌があったかどうかわかりませんが、そのような「賛美の歌」を二人は、獄中でしかも真夜中に主に献げていました。今、暗闇の中にいると思っている人はいませんか。いつも縛られていると苦しんでいる人はいませんか。たとえ両手両足を縛られても、私たちには神に向かって歌う声があります。この人間の心の中まで縄をかけることはできません。

二人は賛美で神をほめたたえ、祈りにおいては、神に対して感謝と賛美の祈りを献げていました。ふつうでしたら、このような状況では、「神様、早くこの牢屋から出して下さい。私たちを訴えた人々の不正を明らかにして下さい。」と祈るが関の山です。でも、彼らはただひたすら、神に賛美をささげ、また神に対して感謝の祈りを捧げていたのではないでしょう。なぜなら、彼らがこのフィリピの町に来たのは、「助けてください!」と叫んでいるマケドニア人の声を聞いたからです。助けを求めていた人は、この看守だったのです。その人が自分たちを逮捕し、鞭うち、牢に入れました。彼こそ暗闇の中で、救いを求めていた人だったのです。

2.神の介入

26節から読んでみます。「突然、大地震が起こり、牢の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の鎖も外れてしまった。」とあります。
マグニチュード8クラスの地震が起こったのでしょう。牢の戸が開き、囚人たちをつないでいた鎖もほどけたとあります。神様は不思議な力をもって、この世に介入して下さり私たちを助けてくださいます。皆さんでしたら、この時どうされますか。「神様、ありがとうございます。祈りを聞いてくださり、私たちが逃げることができるようにして下さいました。」と言って、一目散に逃げて行くでしょうか。もし、「神様、私たちをここから出して下さい」と祈っていたならば、逃げて行くかもしれません。神様が奇跡を行って地震を起こし、戸を開いてくださって、逃げることできるようにして下さったと思うでしょう。

でも彼らは誰一人逃げ出しませんでした。何故でしょうか。それはパウロたちの祈りの声と賛美の声を、聞いていたからではないかと思います。そして彼らがささげていた祈りとは何でしたでしょうか。どんな祈りを二人はしていたのでしょうか。その祈りがあったからこそ、神様が介入して下さって大地震を起こして下さったのです。二人は、この地震は神様からのものだと、とっさに判断しました。ですから、牢から逃げ出すことなく、じっとそのままいたのではなかったでしょうか。他の囚人たちも、同じように逃走することはありませんでした。

3.主イエスを信じなさい

27節から読んでみます。「目を覚ました看守は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、剣を抜いて自殺しようとした。パウロは大声で叫んだ。『自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。』看守は灯りを持って来させ牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に震えながらひれ伏し、二人を外に連れ出して行った。『先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。』二人は言った。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。』そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐにバプテスマを受けた。この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。」(16:27~34)

看守の人生の土台が崩れた瞬間です。自分は看守として、今まで正しいことを行って来た。善と悪を裁いて、法に従って自分の仕事をし、忠実に勤めて来た。しかし、これで善いと思っていた自分の人生が、この出来事を通して土台から崩れ去るのを感じました。神様は、時にはこのような地震などの突然の自然災害を通して、その人の生活だけではなく、その人の生き方全体までをも振るわれる時があります。一体、人間は何のために生きているのだろうかと。彼の目の前には、この世の現実として、自分の職責を問われる道として、自害と言う道しかありませんでした。

それに対してパウロは、「自害してはいけない。私たちは皆ここにいる。」「ただ主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」と答えました。地獄に仏とはこのことです。聖書的に言いますと、地獄にキリストとでも言いましょうか。自分が死をもって責任をとらなければならないような時に、そこに一筋の救いの道が備えられていたのです。どんなにか、この看守は二人に感謝したことでしょう。命の恩人です。人はやはり一度、地獄を見なければキリストの懐に飛び込むことはできないのでしょうか。

神様が、地震を起こして看守に地獄を見せてくださいました。私たちの人生も一寸先は闇であり、地獄です。でも、そこに必ず一筋の救いの道が備えられてあるのです。ああ、助かったと思える時があります。自分に絶望した時、自分に愛想がついた時、自分が嫌になった時こそ、そこに救いの道があるのです。看守を縛っていた、仕事の責任と言う足枷や鎖も今ここで初めて外されました。神様が介入して下さって、彼の死の鎖を解き放ってくださったのです。

たとえ真夜中でも、たとえ二人しかいなくても、たとえ手足を縛られておりましても、たとえ楽器がなくても、主への賛美と祈りの声を私たちから引き離すことは誰にもできません。今週も、この賛美の働きのためにアメリカから若者たちが来て下さいます。一緒に声を合わせて、主に祈り賛美を捧げて、主の救いの御業を見ようではありませんか。             (岡田 久)

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