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真ん中に立ちなさい (マルコ3:1~6)

メッセージ
2018年1月21日富里キリスト教会

「真ん中に立ちなさい」
(マルコ3:1~6)
1.仕掛けられた罠

「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた。」(マルコ3:1~2)

いかがでしょうか。安息日というユダヤ教の礼拝の日です。神と共に過ごす聖なる日です。しかし、その神を礼拝する聖なる場所に、人間の悪巧みが渦巻いていたのです。その礼拝堂には、これも中風にかかったのでしょうか、片手の麻痺した人がいました。もしかしたら、この人はファリサイ派の人々が仕組んだ罠だったかもしれません。彼らは、何とかイエスの律法違反を見つけようとして、あちこちに罠を仕掛けていました。安息日には人をいやすという労働をしてはならないという規定を設けて、いやすことを禁じていました。ですからいくら神にいやしてほしいと思って礼拝に来ても、律法学者やファリサイ人たちが、それを許さなかったのです。

彼らはいやしが禁じられていた安息日に、この片手の萎えた人をイエスの前に置いて、彼がその人をいやすかどうか、虎視眈々とその一挙手一投足を見張っていたのです。これが彼らユダヤ人の律法に基づいたユダヤ教の礼拝でした。いかがでしょうか。神様に目を注ぐのではなく、礼拝している人を監視しているのです。律法に違反していないかどうかを、いつもチェックしているのです。監視社会、監視礼拝です。見せかけの表面的形式的な、形中心の礼拝だったのです。

このガリラヤ伝道の初めから、律法を中心とする人々とイエスキリストの福音とが真っ向からぶつかったのです。イエス様は、律法を破壊したり、律法を廃棄したりするために来たのではなく、むしろ律法を完成するために来たとおっしゃいました。律法の目的は、その規定や戒めを守ることにあるのではなく、むしろ自分は律法を守り切れない人間だ、罪のある人間だということを示すためでした。

ところがファリサイ派の人々は、自分は律法を守っている、罪ある人は守っていない非難していました。そして、自分は義しい、自分は聖いといって、世の罪人と自分たちを区別して一線を引いている人たちでした。ファリサイという言葉の語源は、「分ける、区別する」というところからきています。そして片手の萎えた人は、罪を犯したから病気になったのであり、汚れたものとして会堂の隅の方に追いやられていました。真に、助けと救いが必要な人々の居場所を奪っていたのです。

In the beginning of the evangelism in galilee, Jesus encountered with the conflict of teachers of law and the Pharisees. They were proud of their deed of law and judged and accused sinners. Pharisees means to separate themselves from sinners. Then Pharisees have kept out sinners and sick persons and shriveled man from God. Even they put the trap before Jesus whether He would work to heal the shriveled person on the Sabbath. Please imagen the atmosphere of this synagogue. Jesus Christ proclaim the Gospel against the opposite “I have not come to call righteous ,but sinners”(2:17)

このような礼拝に対して、主イエスはむしろ「私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪びとを招くために来たのだ。」(マルコ2:17)と言って、真っ向から彼らファリサイ派の人々と対立したのでした。安息日という特別な日が第一となり、肝心の人間の救いが第二となってしまっていたのです。安息日というのは、安息日を守ることではなく、人がいやされ、平安が与えられ、罪の許しが宣言され、新しい命を充電する日が真の安息日の目的なのです。

そのためにイエスは肉をとってこの世に来てくださり、人々に慰めと平安と癒しと希望を与えるために来てくださったのであり、このお方こそが安息日の主人なのだと言うことを宣言されました。それが、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから人の子(キリスト)が安息日の主でもある。」(2:27~28)と言ったのです。律法主義者や自分を義しいとするファリサイ派の人々と、ここで真っ向から対立されたのでした。それが次の言葉です。

2.真ん中に立ちなさい

「イエスは手の萎えた人に、『真ん中に立ちなさい。』と言われた。そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。」(3:3~4)

主イエスは、この手の萎えた人に向かって「真ん中に立ちなさい。」と言いました。おそらくこの言葉から、その手の萎えた人は、会堂の隅の方に、人目を避けるようにして座っていたのではないでしょうか。なぜか?それは自分がこうして手が萎えているのは、罪の結果だと思っていたからです。こんな罪びとの自分は、神の前に行く資格がないと思って、会堂の隅でこっそりと人目をはばかって礼拝していたのではないでしょうか。

でもイエス様は、そういう人だからこそ、礼拝の中で一番神の祝福にあずかる必要のある人だと考えました。そしてご自分は、そのような人々のために来たのだということを明確にされました。そして、会堂の真ん中に立ちなさいといったのです。それはあなたのように、罪を犯してその結果である病気や貧しさで苦しんでいる人のために、ご自分が来られたということを教えたかったからではないでしょうか。あなたの罪を赦すために、その病をいやすためにわたしは来たのです。あなたこそ、この礼拝に招かれている人なのですということを言わんとしたのではないでしょうか。

この「真ん中に立ちなさい。」という言葉は、英語では「stand up in front of everyone」(NIV)となっています。また他の聖書では、「get up and stand here in the midst」
(Amplified)また「Come here」(RS)と訳している聖書もございます。つまり、「真ん中に立ちなさい。」という言葉には二つの意味があります。一つは、「街道の隅にいて、身を隠しているのではなく、この会衆の真ん前に出てきなさい。あなたこそ、この礼拝に招かれている人なのです。」ということを意味しています。また二つ目は、「神の前に出ることです。」イエス・キリストの前に立つということです。

恥ずかしがることはないのです。自分を卑下することもありません。病気の人、重荷を負っている人、悲しんでいる人、中風の人、心に渇きを覚えている人こそ主が招かれている人なのです。ですから、恥ずかしがる必要はありません。あるがままで、病を持ったままで、傷を持ったままで、痛みを持ったままで、そして罪を持ったままで出てくればいいのです。主が「come here and stand by me 」とおっしゃってくださっています。あなたはどうされますか?

Jesus said to the man with the shriveled hand “Stand up in front of everyone.
In other translation Jesus said “Get up and come here and stand here and stand in front of the congregation “ It is very important to stand in front of Jesus. Only to stand before Jesus you will be healed and will be forgiven your sins. Do you have anything to avoid your standing or do you have some afraid to stand before Jesus. Please don’t be hesitate to come to Jesus. Because Jesus Christ have come to you to love and to forgive all your sins and all your failures. Don’t be afraid only to come to Jesus. Jesus want you not to keep silence like a Pharisees and withdraw before Jesus. Jesus said to you “Stand up and come here and stand in front of me, you will be saved and forgiven all of your sins and
failures.

「私は、人様の前に立つほどのものではありません。」と遠慮されるでしょうか。あるいは、目を伏せるでしょうか。あるいは沈黙したままでいるでしょうか。主イエス様には、皆さん方の心の中がはっきりと見えています。解かっておられます。隠しおおせることはありません。沈黙を守り切れますでしょうか。今日も私たちに向かって、罪を持って悩み苦しんでいるもの、罪の重荷に耐えかねている人は、今立ち上がりなさい。そしてこの礼拝堂の真ん中に立ちなさい、わたしのそばに来なさいと呼びかけておられるような気がします。主は私たちの罪を裁くために、その罪をあげつらうために来られたのではなりません。罪を赦すために来られたのです。

真ん中に立つということはみんなの人に顔が見えます。自分の顔も心もすべてが明らかにされます。恥ずかしいと思うかもしれません。黙って知らん顔をして群衆の中に紛れ込んでいたいです。でもその前に、神様があなたの罪も穢れも失敗をもすべてを赦してくださっているのです。いやあなたを、出てくる前から心から愛してくださっているのです。主の前に立つならば、あなたの罪は赦されます。主のもとに行くならば、あなたの罪は聖められます。
なぜならば、主は罪を赦し、平安を与え、あなたの身分を回復させて神の子としてくださるために来られたからです。Get up, come here, stand here, and stand in front of everyone.

恐れることも、心配することもありません。主に顔を向けるならば、あなたの心に光が差し込んできます。主の前に立つならば、そこには赦しと愛が待っています。希望が与えられ、神様の愛が聖霊様を通して心に注がれます。喜びと平安が与えられます。何も恐れることはなくなります。神様ご自身がその苦しみと血潮と死をもってあなたの罪を赦すと宣言して下っているのですから。これが「真ん中に立ちなさい」ということの意味です。

3.イエスの怒りと悲しみ

しかし、イエスを陥れようとしている人は、心を閉じたまま、心を押し殺したまま、じっと沈黙を続けていました。黙っていれば解からないと思ったのでしょうか。とっくに彼らの心を見透かされていました。そしてこう主は言われました。
「そして人々にこう言われた。『安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。』彼らは黙っていた。そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、『手を伸ばしなさい』と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。」(3:4~5)

なぜ彼らファリサイ派の人々は黙ってしまったのでしょうか。それは、自分たちが正しい、律法を守っていると思っていたからです。誰も自分に罪はあるとは考えてもいませんでした。あんな手の萎えた罪びととは違う、あんな中風にかかった罪びととは違う、われわれは正しい、間違ってはいない、罪は無い、罪を犯したこともないと言い張っていたのです。しかし、そのようにして自分に罪は無いと言い張るところに、人間の一番大きな罪があったのです。

真の安息日とは、神が人間に休みを与え、平安を与えるために制定したものです。神のみ心を行うことが安息日の目的です。しかし、ファリサイ派の人々は、自分たちこそ罪のない正しい人間で、罪びととは区別しなければならないと考えていました。その彼らが、罪に苦しむ手の萎えた人をいやしてあげないのです。むしろ律法をもって、逆にそのような人々を神の前から締め出していました。聖なる安息日、神の賜える安息の日を、善を行わずに悪を行い、命のお方を捨て、自分たちで自ら死と裁きの道を選び取ってしまっていたのです。彼らは、ただひたすら神の前に口を閉じて、押し殺したまま沈黙を守っていました。

そういう彼らのかたくなな心をご覧になった主は、聖なる怒りの感情を感じました。彼らの拒否の態度を怒りの感情をもって見まわしました。聖なる怒りです。感情的な憎しみと恨みのこもった怒りではなく、神に敵対する彼らのかたくなな態度、そして彼らの持っている罪に対する激しい怒りを顕わにされました。イエス・キリストは罪を憎みます。罪を放っておいたり、罪を見逃したり、罪を黙認されるお方ではありません。自分を義とする大きな罪に対する怒りです。

そしてそれと同時に、主の目には悲しみの眼差しもありました。罪に対する怒りはあります。しかしその罪を犯した人間に対しては、悲しみと憐みの気持ちを持っておられます。この怒りと悲しみに満ちた主の複雑な眼差しは何を物語っているのでしょうか。彼らは、その場を出て行って何をしたかと言いますと、ファリサイ派とヘロデ派の人々は一緒になって、イエスを殺す相談をし始めたのです。どこまでも悔い改めることを拒み、神に背き、死と裁きの道をまっしぐらに突っ走って行く彼らの最期を見ていたのではないでしょうか。これが主の悲しみの眼差しの意味です。どこまでも彼らの悔い改めることを待っている眼差しです。

Jesus looked at Pharisees in anger and deeply grieved at their hardness of heart.
Jesus had two emotions in his heart, one is an anger to accuse their sin which is insisting their own righteousness, the other is grief to the end of their arrival. I think that Jesus is waiting for their repentance to come back before God. And Jesus certified himself as a Son of God having the authority to forgive the sins.
And he ordered to the shriveled man to stretch out his arm. Then his hand was completely restored. In spite of seeing the miracle Pharisees began to discuss to
kill the Lord. How grieved Jesus to know the end of their goal, Jesus want us not to be a hardened hearted man, Jesus want us to be a shriveled man being with a humble heart and submit to Jesus’s word. This is the day to be saved and this is the time to enter the peace with God.

一方、主の前に立った手の萎えた人に向かっては、「手を伸ばしなさい。」と言われました。すると萎えていた手が、元どおりになったではありませんか。自分の罪や恥を忍んで、主のそばに行き、罪を持ったままで主の前に立ち、また会衆の前に立つとき、主はその人の体をもとの完全な姿へと回復させてくださいます。罪に対する赦しの結果です。本来の自分、神の前にある正しい自分、完全な自分、神の子へと回復させてくださったのです。これが元どおりになったということです。

恐れることはありません。主は私たちを愛して下さり、私たちの犯した罪をことごとく赦すために来てくださいました。主は今も「真ん中に立ちなさい。」と私たちを招いてくださっています。罪も穢れもあるがままで、主のもとに行きましょう。立ち上がりましょう。そして主の身元へと一歩足を踏み出しましょう。主のもとには赦しと平安と命があります。そして「手を伸ばしなさい。」とおっしゃってくださっています。自分の手を伸ばして、主を求めましょう。自分の手で、主の手をしっかりと握りましょう。新しい人生の出発です。

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