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目を覚ましていなさい2021年 (マタイ25:1~13)

メッセージ
2021/3/07
富里キリスト教会礼拝説教
「目を覚ましていなさい」
(マタイ福音書25:1〜13)

①終末の備え
今日の箇所は、イエス様による例え話がなされた箇所です。イエス様は群衆に向かって、神の国の福音を語るときによくたとえをもってお話をされました。その中でも、今日のたとえは、十人のおとめのたとえと呼ばれる大変有名な例え話です。しかし、例え話と聞くとどこか、牧歌的と言いますか、ほのぼのしたイメージを私は持つのですが、今日の例え話は非常にどこか恐ろしさといいますか、背筋がのばされるような話です。なぜなら、この例えはイエス様が再び来られる再臨、終末の備えについての例え話だからです。
マタイ福音書は24章からオリブ山講話と言われる終末についてのイエス様の預言が書かれています。そこでイエス様は、終末の時代にはいると、偽メシアの大量発生、戦争の騒ぎや噂、飢饉、地震といったしるしが現れ、愛が冷え込み、キリスト者にとっては苦難の時となる。そして、福音が全世界に宣べ伝えられ、終わりの時が来ると語られました。
このしるしを見ると、なんだ、これはもう、まさに今じゃないかと思ったりもいたしますし、現にそのように言っている人たちも大勢います。しかしいつの時代にも当てはまるような気もいたしますし、いつの時代にもそのように言う人はいます。はっきりとわかっていることは着実に一歩ずつその時は近づいてきているということです。
しかし、具体的にいつその時が来るのかと言うことについて聖書は沈黙しています。それは父だけがご存知であるとイエス様は言われました。ただ、そのときは稲妻のように突然やってくるそうです。この聖書のメッセージ、また無言のメッセージから、終末については、終わりの時がいつ来るのかということを知ろうとして騒ぐのではなく、いつ来てもいいように心落ち着け、備えておく、これがみこころではないかと私たちは受け止めることができます。イエス様はこの終末について語られる中で何度も「目を覚ましていなさい。」と言われます。今日の例え話の結論もその言葉です。いつ来るのかと言うことではなく、いつ来てもいいように、いつも心構えをしておきなさいと言うことです。
その備えをしているのか、していないのかで大きく明暗が分かれる。そのようにここでは語られていきます。終末に対する心構えとして、最初にイエス様は忠実なしもべと悪いしもべの例え話をされます。忠実で賢いしもべは、いつでも言われた通りにしており、普段から変わらずに過ごすことが幸いであると評価されます。しかし一方で悪いしもべは、主人の帰りが遅いと思うとだらけ、手抜きをしどうせまだ帰ってこないとたかをくくり油断をします。そういった者は厳しく罰を受け、泣きわめき歯ぎしりをすると厳しく言われます。
ちょっと怖いですよね。泣いて歯ぎしりとか。しかし、怖くても仕方ないかもしれません。なぜならこれは、明らかにイエス様から私たちへの警告だからです。戸惑う方もおられるかもしれませんが、怖くともこの警告を受け止めなければなりません。終末に対して私たちは、救われているから大丈夫なのだという安心感がまずあるべきですが、他方で一定の緊張感というものも必要だということです。本当に自分は大丈夫なのだろうかという自己吟味の時も大切だということです。安心感が転じてゆるゆるになってしまい、油断してしまったら危ないよ。そのようにイエス様は私たちのことを思って警告をなされているのです。
今日の十人のおとめの話もそう言った内容のものです。賢い者となって花婿と婚宴を楽しむのか、それとも愚かな者となって締め出されてしまうのか。明暗を分ける鍵を握るのは油です。文字通り、油断してはならない。そういったメッセージです。

②婚宴と油
イエス様の例え話は当時の人たちにとっては、とても身近なものを題材に用いられました。難しい神学的な話というよりは日常生活に照らしあわせたものでしたので非常にイメージがつきやすかったことと思います。この十人のおとめの例え話もそうでした。まずこの話のキーポイントにもなる油。油はぶどう酒と共にパレスチナの主要農産物です。これは今でも変わりません。イスラエルと聞けばオリーブ油を思い浮かべる人も多くいるでしょう。ちなみに私の故郷である香川県の小豆島もオリーブで有名です。日本で唯一オリーブを作れる環境なのだそうです。これまたちなみに香川県の県木はオリーブです。
イスラエルにおけるオリーブ油の用途は多岐に渡ります。まず食用。パンを作るのにも油が使われます。また灯火用。そして王や祭司の聖別に用いる注油用。また、化粧用であったりナルドの香油、死体に塗る香油、祭壇の捧げ物。医療用など本当にさまざまです。つまり彼らにとって油とはとても身近な存在であり、最も欠かせない大切な存在でもありました。そしてその油は繁栄、喜びのしるしとされ、油が欠乏することは悲哀を表していました。
現代人である私たちにとっても油とは日常生活に欠かせないものですよね。料理はもちろんのこと、車、船、飛行機を動かすにも油が必要ですし、電気を作るにも油が必要です。また、私たちの衣服にも油を素材として使われているものが多くあります。油は今も昔も必要不可欠です。
次に婚宴です。この例え話は、花婿が花嫁を迎えにきて婚宴を開くといった内容ですが、これはユダヤ人の典型的な婚礼の形です。ここにみられるユダヤの婚礼は婚約して約一年後、法的にすでに夫婦となっていた両人の夫婦生活が始まることを祝う喜びの祝宴です。花婿は、花婿の友と一緒に花嫁の家に花嫁を迎えにいき、花婿の友が音頭をとり、花嫁の友が美しく着飾り、二人を婚宴の席に導き盛大な祝宴が開かれます。その際、花婿の来る前に先ぶれの男が花嫁の家に行き「そら、花婿だ。迎えにでよ」というと、花嫁の友人が揃って花婿を出迎えるのが常であったといいます。そして、結婚式の準備に時間がかかると花婿が真夜中になってくることもあったといいます。
この例え話の中での花婿はイエス様を表します。そして、この話では出てきませんが花嫁は主の再臨を待ち望む教会を表すと言われています。イエス様と教会の関係は婚姻関係に例えられています。よく、キリストの花嫁という言葉を聞きますが教会とイエス様の関係とはそれほど密接で、重く、分かち難く人格的につながっているのです。
そしてここでの花嫁の友、十人のおとめが教会に連なる私たちキリスト者一人一人であると言えるでしょう。主の再臨である終末は花婿なるキリストと花嫁なる教会の子羊の婚宴であるとヨハネ黙示録には書かれています。そして、私たちキリスト者は一人一人その婚宴に招かれているのです。しかし、その婚宴を前にした時、教会の中に用意できている者と用意できていない者がいるのであれば、容赦無く明確に分けられてしまう。そういった重い現実をこの例え話では突きつけられます。

③賢いおとめと愚かなおとめ
この十人のおとめの例え話は、その名の通り十人のおとめが登場人物ですがそのうち五人が賢いおとめ、もう五人が愚かなおとめだと分けられてしまうお話です。少しそのおとめたちの共通点と相違点を見ていきましょう。
十人のおとめは花嫁の友人です。そして、婚宴のために迎えにくる花婿を待っていた。これが十人全員の共通点ですね。この姿は終末の婚礼を待つ教会であり、その教会につながる私たちを表しています。そしてもう一つの共通点は、全員が灯火をもっているということです。この灯火は私たちの信仰生活や、信仰そのものを表しているように思えます。私たちにはみな、信仰が与えられています。
しかし、彼女たちにはその共通点以上に一つだけ、とても大きな、決定的に違う点がありました。それが油の用意でした。賢いおとめは、ともし火と一緒に予備の油を用意していました。花婿が来る時間はおおよそ、見当がついていたことでしょう。しかし、それでも万一のことを考えて、いつ来てもいいように万全の準備をしていたのです。油を備える、文字通り油断していませんでした。こう見ると確かに賢いといいますか非常に思慮が深い人のように見えますね。近くにこういう人がいると頼もしいものです。
しかし、それと共にここには彼女たちの花婿を迎える思いというものも見えてきます。しっかりと準備していたということ。これはきっと、本当に婚宴の時を待ち望んで、心から楽しみにしていたということではないでしょうか。「ああ、待ち遠しい。早くこないかしら。準備もばっちりにしておきましょう。」そういったワクワクした思いで油を用意していたのではないかと思うのです。
他方で、愚かなおとめは、ともし火は持っていたが予備の油は用意していませんでした。どうせすぐ来るだろうとタカをくくっていたのです。相手のスケジュールではなく自分の計画の範囲内で物事を判断していました。「ま、いいか。めんどくさいし。」そのように油断していたことでしょう。確かに愚かであります。私もめんどくさがりのところがあるので、本当に耳に痛い話です。しかし、これもまた、ただ愚かというだけでもないように思います。婚礼自体を楽しみにしていない。その場にいながらもまるで興味を示さない、冷めたおとめの姿が見えてきます。
しかし、この愚かなおとめの予想は大いに外れ、花婿は遅れてきます。慌てるが後の祭り。油を買いに行っている間に愚かなおとめたちは締め出され、他方、万全の備えをしていた賢いおとめは婚宴の中に入っていきます。
明暗を分ける鍵は油の備えでした。私たちにとっての油とは聖霊のことでしょう。聖霊の油注ぎというように、時に聖霊は油と表現されています。そして、その聖霊は御子イエスに留まり続けることによって与えられます。
御子イエスに留まるということは、イエスのことば、みことばを蓄え、主イエスに祈り求めていくということでしょう。信仰のともし火は油がなければ消えてしまいます。注ぎ続けなければならないのです。聖霊の油を蓄えなければなりません。この油は急には貯まりません。一朝一夕にはいかないのです。常に、毎日求めなければならないのです。なぜなら、聖霊は分けることができないからです。慌てて分けてくれといっても、もらえるものではないのです。あなた自身が、みずから求めて蓄えなければならないのです。
形式的にクリスチャンを取り繕うことはできます。だれもがともし火はもっています。しかし、そこにどれだけの思いがあるのだろうか。無味乾燥な信仰になっていないか。主を心から求め、喜びと平安の中で生きているだろうか。そういった問いが誰よりも自分自身に突き刺さってきます。
しかし、聖霊は恵みです。与えられるものです。私たちの心からの求めに主は必ず応えてくださるお方です。祈りとみことばをとおして必ず与えられると信じ、大胆に主に求めていきたいと思います。
油は使うとなくなることは、当たり前です。いつも油断をせず、「私は大丈夫」ではなく、毎日主を求め続けることがとても大切です。その積み重ねの結果として表れるのが豊かな信仰生活です。同じことをしていても中身が全く違うということがあるのです。
さきほどから、厳しいことを言っています。正直あまり言いたくはありません。自分にも耳が痛いです。でも、今日の箇所ではイエス様はかなり強い警告をされています。これを自分自身の都合や考えで、薄めることは説教者としてはあってはならないと思っています。来たる終末のときに「私はお前たちを知らない」このように、皆さんが言われて欲しくありません。そして、私自身も言われたくありません。共にこのみことばに向き合いましょう。

④目を覚ましていなさい
しかし、それでも私たちはイエス様の最後の結論に心を留めたいと願います。「だから、目を覚ましていなさい。」知らないと言われないためにも備えておきなさい。これがイエス様の終末に関する一貫したメッセージです。備えていないと知らないぞと脅すのではなく、そうなって欲しくはない。だから目を覚ましていなさい。私はあなたと一緒に婚宴の中にいたいのだ。このみおもいを受けとって、私たちは目を覚ましていようではありませんか。目を覚ますということは油断するなということ。なにもそんなに難しいことしろというのではありません。
当時の灯し火というものは、松明のようなものではありません。灯火皿という粘土で作られ素焼きの平皿のものが使われていました。小型で少量の灯油しか入らないため、それゆえ長時間の照明のためには別に油を入れた容器を備えておかなければなりませんでした。これは不可欠の家庭用品であり、単に暗い室内の照明だけでなく簡単に得ることのできない火種の確保のためにも灯油を絶やさずに灯火続けるのが習慣となっていました。つまり、当時において油を備えておくことは当たり前、特別なことでなく普通のことだったのです。愚かなおとめは日常的にすべきことを怠ってしまったのです。
私たちの生活もそうですね。砂糖、醤油を切らすことはあっても中々油を切らすことはないのではないでしょうか。油を切らすのはよっぽどの油断でしょう。うっかり者の私ですら油を切らすことはそうそうありません。
備えをしろ、目を覚ませ。これは特別なことをしろと言っているのではありません。終末が来ると、逆に浮き足立つことではありません。日常的にすべきことを怠らず、毎日繰り返していくということです。毎日祈り、みことばを聞き、教会に行く。悔い改め、恵みを受け、賛美をする。形ではなく心から主を求め続ける。そして神を愛し隣人を愛す。これが信仰生活です。
これを毎日繰り返すことによって聖霊の油は溢れんばかりに注がれ、信仰のともし火は生き生きと光り輝くのです。
当時のイスラエルでは、簡単に得ることのできない火種を絶やさないために油を蓄えることが習慣となっていたと先ほど言いました。彼らにとってともし火は何よりも大切なまさに、生命線でした。したがって灯火が消えることはその家が滅びたことを意味し、常に燃えて輝き続けるともしびは健康で活気のある生活を意味していました。
私たちにとって、信仰という灯し火は彼らのように絶対消してはならない最も大切なものとなっているでしょうか。私たちの信仰は神によって守られていますので決して消えることはありませんが、それほど大切なともし火なのです。私たちにとって信仰という灯火は、当時の彼らのようになくてはならない、最も大切な生命線となっているでしょうか。その灯し火を生き生きと輝かすのに必要なのが油たる聖霊です。その油は終末の備えでありながらも、今を生きる私たちの信仰を守り、生き生きとするものでもあります。今を生きる上で最も必要なことは、聖霊なる油を自分自身の魂に満たしていくことなのです。
毎日、聖霊の油注ぎを、聖霊の満たしを求めていきましょう。目を覚まして備えていきましょう。今の目の前の人生に不可欠な信仰の火を灯し、きたる終末の未来でいただく永遠の命のために聖霊の油を蓄えていきましょう。何か修行して手に入れるわけではありません。全ては恵みです。神様に子供のように素直にくださいと、ねだるように主に求めればよいのです。
そして、主が再び来られるその日を、油断するでもなく、恐れて過剰に反応するでもなく、この賢いおとめのように、日常すべきことをしっかりと行いつつ、誰よりも花婿の到来を楽しみに、わくわくと待ち望んでいたいものです。なぜなら、私たちは扉の外ではなく、婚宴の中に招かれている者なのですから。

武井誠司

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