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白馬の騎手と預言の霊 (ヨハネ黙示録19:5~16)

メッセージ

2016年5月15日富里キリスト教会

「白馬の騎手と預言の霊」
(ヨハネの黙示録19:5~16)

1.正しい行いの麻の衣を着る

「『ハレルヤ、全能者であり、わたしたちの神である主が王となられた。わたしたちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。子羊の婚礼の日が来て、花嫁は用意を整えた。花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。それから天使はわたしに、『書き記せ。子羊の婚宴に招かれている者たちは幸いだ。』と言い、また、『これは神の真実の言葉である』とも言った。わたしは天使を拝もうとしてその足もとにひれ伏した。すると、天使はわたしにこう言った。『止めよ。わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。』」(19:6~10)

人々を惑わしてきた大いなる都バビロンが滅ぼされ、この後最後の審判がなされて新しい都エルサレムが実現します。その時に天からキリストが花婿として降って来られ、地上では花嫁なる教会が婚礼の準備が整えられて結婚式が行われようとしています。これが子羊なるキリストの婚宴の時です。最高の喜びの時です。この時の花嫁の衣装が、8節に記されています。「花嫁は、輝く清い麻の衣を着せられた。この衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」とあります。

皆さん方が最後に美しい花嫁として、花婿であるキリストとお会いする時に着る花嫁衣装は、「麻の衣」です。日本では麻の着物よりは、むしろ羊毛や絹の方が高価な衣装ではないかと思いますが、当時は麻が高価な衣料だったようです。砂漠地帯ですから、植物繊維はあまりなかったのではないでしょうか。その後を見てみますと、その麻の衣の説明が出ています。「この麻の衣とは、聖なる者たちの正しい行いである。」とあります。

つまりわたしたちが天国で身にまとう衣装は、麻の衣ですが、それはわたしたちの生前の良い行いで編んだ着物なのです。ですから、自分が今生きているこの世界で、家族や友人関係の中での正しい行いがわたしたちが着るべき天国での晴れ着なのです。では一体正しい行いとはどんなことでしょうか。10節の天使の言葉を見てみてください。「やめよ、わたしは、あなたやイエスの証しを守っているあなたの兄弟たちと共に、仕える者である。神を礼拝せよ。イエスの証しは預言の霊なのだ。」。ちょっと良く解らない言葉が出ています。つまり、正しい行いとは一つは「天使を礼拝するのではなく、神を礼拝すること」です。そして二つ目は「イエス・キリストを証すること」です。

つまり天国のキリストとの結婚式の時に、わたしたちが着るべき花嫁衣装と言いますのは、「生前生きている時に神様を礼拝して来た」という衣装と、「キリストを証して来た」というこの二つの衣装なのです。ですから、もしクリスチャンだと言っても、生きている時にイエス。キリストを礼拝せずに、有名な神学者や牧師を礼拝している信徒は麻の衣を着ることはできません。いかがでしょうか。わたしたちは天国での花嫁衣装を着る準備ができているでしょうか。

最後の言葉に、「イエスの証しは預言の霊なのだ。」というちょっと意味の分からない言葉があります。現代訳聖書ではこの箇所を「イエス様のために証しをすることは、預言の霊を持っている人にできることです。」と訳しています。つまりわたしたちが、キリストを証したり福音を宣べ伝えることのできるのは、預言の霊を受けなければできないということです。確かにそうです。聖霊を受けなければ、誰も伝道できません。聖霊に満たされなければ、いつも恐ればっかりです。「あの人伝道してもだめ、関係がまずくなる、ちょっと無理でしょう。」といつもダメダメ、救われないの一点張りです。聖霊に満たされていません。あるいは聖霊を知らないかも知れません。残念ながら、こういう人は天国で着る花嫁衣裳がありません。今からでも遅くはありません。天国で着るための麻の衣を用意しましょう。礼拝と証しの生活です。

3.白馬の騎手

最後に白馬にまたがった一人の騎手がここで登場します。
「そして、わたしは天が開かれているのを見た。すると、見よ、白い馬が現われた。それに乗っている方は、『誠実』及び『真実』と呼ばれて、正義をもって裁き、また戦われる。その目は燃えさかる炎のようで、頭には多くの王冠があった。この方には、自分の他は誰も知らない名が記されていた。また、血に染まった衣を身にまとっており、その名は『神の言葉』と呼ばれた。そして、天の軍勢が白い馬に乗り、白く清い麻の布をまとってこの方に従っていた。この方の口からは、鋭い剣が出ている。諸国の民をそれで打ち倒すのである。また、水から鉄の杖で彼らを治める。この方はぶどう酒の絞り桶を踏むが、これには全能者である神の激しい怒りが込められている。この方の衣ともものあたりには、『王の王、主の主』という名が記されていた。」(19:11~16)

ここに白馬にまたがった一人の騎手が登場します。これはイエス・キリスのことを指しています。しかし、ここでは私たちがイメージしておりますあの十字架上のキリストではなく、白馬にまたがってさっそうと登場するキリストです。しかも天の軍勢を従えて、自分の剣の牙と鉄の杖を持って、諸国の民を打ち倒すのです。神の怒りを持って、王の王であり主の主であられるお方が、この世の悪魔と偽預言者に戦いを挑み、彼らを地獄の火の池に投げ込んで勝利を納めます。

この白馬と言いますのは、悪と徹底的に戦い最後は必ず勝利するという者というイメージです。よく会社などを買収する時に、「白馬の騎士」という言葉が使われます。ある会社が、相手の会社を自分の物にしようとして敵対的な株式の買収工作をします。すると、対象となった会社は、敵対している会社に買収されるよりは、もっと自社と友好関係のある会社に買収されることを希望します。その時に登場するのが、白馬の騎士(White Knight)と呼ばれる友好関係にある会社です。まさにさっそうと白馬にまたがって、今まさに買収され欠けている仲間の会社を救い出す英雄のような働きです。

但し、黙示録の場合の白馬の騎士は、資本を持って介入してくるのではなく、「血に染まった衣をまとい、神の言葉として立ち向かって下さる方です。」(19:13)また「誠実」「真実」とも呼ばれていました。目は燃える炎のようで、口からは剣が出ています。頭にはたくさんの王冠をかぶっています。そしてその血染めの衣ともものあたりには、「王の王、主の主」という名が記されていました。

イエス・キリストは、まさに私たちを救い出して下さる神そのものです。そして主は「誠実」かつ「真実」なお方です。燃える目というのは、神の熱心さ、またすべてのものを見抜かれるお方だということです。多くの冠はすべての王の王であるということ、鋭い口から出ている剣は、神の御言葉をもってすべてのものを裁かれるお方だということです。ここでのキリストの姿は、権威と権力と力を持って、どこまでも最後の審判を下される裁き主だということです。

としますと、このお方が来ている衣の血というのは、主によって裁かれて殺された人々の返り血がついているということでしょうか。現代訳聖書ではこの箇所を「その方は、十字架上で流された血に染まった服を着ていて、その名前は、神を啓示する方という意味で『神の御言葉』と呼ばれた。」(19:13)と訳しています。ですからこの血染めの衣は、十字架の血潮と見た方がいいですね。
つまりキリストは「十字架の言葉」によって全ての人々を裁かれるお方だということです。十字架の言葉、すなわち、わたしのために十字架にかかられたイエス・キリスト、このお方の贖いの死によってわたしの罪が赦されたというメッセージです。これが、人々を裁く言葉になるのです。まさにヨハネ3:16~18の御言葉の通りです。「御子を信じる者は裁かれない。信じない者はすでに裁かれている。神の独り子の名を信じないからである。」とある通りです。

パウロも言っています。「十字架の言葉は、滅んでゆく者にとっては愚かな者ですが、わたしたち救われる者には神の力です。」(Ⅰコリント1:18)この血染めの衣を着て白馬にまたがったキリストは、勝利者であり最後の審判者である方です。ですからこの神の御言葉を大事にしましょう。この血染めの御言葉こそ、わたしたちを救う力があります。この血染めのキリストの御言葉をしっかりと心と頭に刻み付けましょう。そしてこの御言葉が、生きて力強く働くのが、聖霊様なのです。「証しは預言の霊なのだ」(19:10)と言っています。わたしたちがキリストを証するのは、わたしではなく預言の霊なのです。この証の御言葉をしっかりと心に頭にポケットに入れて、絶えず思い出し、いつでも聖霊の働きかける柔らかい心をもって主を証して行きましょう。

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