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病いと痛みを負われる主 (イザヤ52:13~53:5)

メッセージ

2016年3月6日富里キリスト教会

「病いと痛みを負われる主」
(イザヤ52:13~53:5)

1.高く上げられる主

実はこの53章の前の52章は、バビロンに捕囚となっているイスラエルの民の解放を告げ知らせている箇所です。それはイスラエルの民の神がエルサレムのシオンの丘に帰って来られ王となられた。したがって今や、イスラエルのバビロンからの解放と救いが現実のものとなった。捕らわれているものはみんな罪の支配バビロンから離れて、王の住むエルサレムに帰ってこようと預言しています。

52:7に「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王になられたと、シオンに向かって呼ばわる者は。」とあります。これは救いの福音を宣べ伝える伝道者のことを預言したものですが、その根拠は、神が王になられたということです。(クリスマスの讃美歌662番)だから今こそイスラエルの民は大手を振って、神の都エルサレムに帰って来ることができるのだということです。なぜかといえば、神が民の王となって王座に着かれたからなのです。もはや誰も神の民を責める者はなくなり、今まで犯してきた民の数々の罪が贖われたからです。どんなにか人々の喜びと感謝が満ち溢れたことでしょう。

しかし、その王の姿、王となられた神の姿を見た時、人々の声はつまり息を飲んでしまったのです。それが52:13~15の言葉です。「見よ、わたしの僕は栄える。はるかに高く上げられ、あがめられる。かつて多くの人をおののかせたあなたの姿のように、彼の姿は損なわれ、人とは見えず、もはや人の子の面影はない。それほどに、彼は多くの民を驚かせる。彼を見て、王たちも口を閉ざす。誰も物語らなかったことを見、一度も聞かされなかったことを悟ったからだ。」(イザヤ書52:13~15)

イスラエルの人々は、彼らの王がエルサレムのあのシオンの丘の王座に着座されたという知らせを聞いて喜び勇みました。みんな王冠をかぶって王の服をまとって、威厳をもった王の姿を予想していました。高く上げられた王の姿について13節では、三つのことを述べています。それは「栄える=栄光の王」、そして「高く上げられた王」、そして人々に「あがめられ讃美され礼拝される王」だったからです。しかし、その王となられた神御自身の姿を見た瞬間に、人々は息を止め驚きました。

その高い王座に上がった王の姿は、どうだったでしょうか。53:2b~に「見るべき面影はなく、輝かしい風格もなく、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:2b~3)その王の顔と姿恰好を見た人々は、驚いて口を閉ざしてしまいました。なぜか、王の姿とは思えないように損なわれていたからです。人とは思えないほどにやつれ果て見る影もありませんでした。

これがわたしたちのあの待望していた王なのかと、疑うほどに、その顔も姿も損なわれて見るも無残な姿だったのです。じゃあ、なぜその人が挙げられたのかと言いますと、それは王座に上げられたのではなく、あの十字架の上に上げられたからです。わたしたちの王は、罪人のように、病いの人のように、全く王の威厳も風格もない惨めな罪人として、十字架という王座に着かされたのでした。みんな息を飲みました。こんなはずはない、我々イスラエルを救う王様は、こんな惨めな格好をした王様ではないと叫んだのです。また、ある人はこれが我々が待ち望んでいた救い主なる王なのかと、口を閉ざしてしまいました。声が出ないほどに驚いたのです。

2.痛みと病を担われる方

「わたしたちのきいたことを、誰が信じ得ようか。主は御腕の力を誰に示されたことがあろうか。乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように、この人は主の前に育った。見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好ましい容姿もない。彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている。彼は私たちに顔を隠し、私たちは彼を軽蔑し、無視していた。」(53:1~3)

ここにキリストの誕生と生い立ち、そしてその生涯と最後の十字架の場面が預言されています。王として来たるべき神は、その生まれた時から、渇いた砂漠のような世界に生を与えられ、王子として扱われることもなく、ごくごく普通の家の子供としてしかも貧しい大工の家の子供として育てられました。それでも彼は神の前に、真っ直ぐに若木のように育ったのです。

そして最後には、人々から軽蔑され、見捨てられてたった一人で十字架の死刑台の上にかからねばなりませんでした。神の子でありながら、父なる神からさえ見捨てられたのです。誰も助ける者もなく、たった一人でその人生の最期を迎えねばなりませんでした。神から遣わされた王としての風格も威厳もなく、貧しく孤独のうちに死を迎えたのです。

義しい者が何故こんなにも、苦しみを味わわなければならないのか。これがヨブ記のテーマでした。ヨブは自分のこの苦しみを知ってくださる方がいる、自分の罪を贖って下さる方が必ず来られるということを待ち望んでいたのです。(ヨブ19:25)その答えが、このイザヤ書53章の「主の僕の苦難と死」だったのではないでしょうか。つまり、神御自身が痛みを負って下さる、神御自身が病を知っておられるということです。来たるべき主の僕であるキリストの痛み、キリストの病いではなかったでしょうか。神御自身が、御自分は罪がないにもかかわらず、罪人の罪の結果である痛みと病いを、御自分も体験され、御自分の上に下されたのです。

私たちは皆、誰でも心の痛み、心の病をもっています。でも主の僕であるキリストは、私たちの心の痛みを知っておられるのです。主はわたしたちの心の痛みを、たとえどんな痛みであれ、すべて御存じなのです。病気も知っておられます。体の病気、性格的な病気、精神的な病気もすべて御存じなのです。しかも、その痛みも病もご自分で経験しておられるのです。それがあの十字架の苦しみでした。

もうすぐ5回目の3・11を迎えます。多くの人々が、愛する家族を一瞬にして失い、財産も土地もふるさとも失ってしまいました。「なぜ、どうして?」と言う答えのない叫びが今でも続いています。そしてそれに対する答えがないまま、人々は絶望と悲しみの中で息絶えて行っています。被災された方の死もありますが、希望のない将来、答えのない叫び声のゆえに、絶望して自ら命を落としてしまう方が後を絶ちません。あのヨブの問いかけは3:11の被災者の叫びでもあり、日本人のいや全世界の人々の叫びではないでしょうか。こんなに悲しいこと、辛いことがあって良いものか、その答えはどこにあるのかと、全世界の人々が神に問うているような気がします。

でも主は、すべての人々の心の痛みと悲しみと病いを十分にご存じです。そして主御自身も、被災者の方々の悲しみと痛みをその身に負うて下さいました。神御自身がその痛みを自分の身に受け、病を患い、悲しみ共に悲しんでくださったのです。被災者の方々には、どんな言葉も届かないかもしれませんが、神御自身が同じように痛みと悲しみと病をその身に負われて苦しんでくださったのです。そこに一つの希望と慰めがあるような気がします。

3.なぜ神が痛むのか、なぜ神が病むのか

「彼が担ったのは私たちの病、彼が負ったのは私たちの痛みであったのに、私たちは思っていた、神の手にかかり、打たれたから彼は苦しんでいるのだ、と。彼が刺し貫かれたのは、私たちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、私たちの咎のためであった。彼の受けた苦しみによって、わたし達に平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。」(53:5~6)この4~5節までをもう一度、彼をキリストに置き換えて読んでみましょう。(もう一度読む)

誰もなぜ、この罪のない人が十字架に架からねばならないのかということについて考える人はいませんでした。ましてや罪のない神の独り子が、十字架に架かるなどとは誰も思いもつかなかったのです。しかし、ここでイザヤは、彼が打ち砕かれたのはわたしたちの咎のためであり、彼が受けた傷によって、わたしたちの罪が赦され、彼が病になることによってわたしたちに健康が与えられたのですと預言しました。

即ち誰か、正しい人が、罪人の罪を身代わりに背負い、そしてその責めと懲らしめを身代わりに受けなければ、人の罪や過ちは罰せられことはありません。つまり主の僕であり、罪のない神の子羊であるキリストがわたしたちの罪、咎のために身代わりになってその罰である痛みと苦しみを受け、罪の代償を支払ってくださらなければならないのです。誰かが血を流すことなしには、罪の赦しはあり得ないのです。誰かが痛みを負い、病を負ってくださらなければいやされません。それが義しい人の苦しみだったのです。

そのことができるのは、神御自身以外にはありません。それがあの罪のない神の子羊イエス・キリストの十字架の苦しみによる、わたしたちの罪の贖いの業だったのです。この神の子羊である神の僕の受けた傷と痛みによって、わたしたちの傷がいやされ、痛みもいやされ、病もいやされるのです。なぜなら、キリストはわたしたちの罪の苦しみの身代わりとなって下さったからです。わたしの代わりに罪の痛みも苦しみも病も全て、ご自身の身に負うて下さったのです。

この方神の僕イエス・キリスト以外に、罪からの救いはありません。心の痛みも体の痛みも病いも、このお方なしには何の解決もないのです。なぜなら、主はわたしたちの罪や痛みや病を身代わりになって受けて下さっただけではなく、そのお方を信じる者には罪からの解放と赦し、そして平安と希望を与えて下さったからです。キリストはわたしたちの罪のために打ち砕かれ、わたしたちの咎のために身代わりとなって傷つけられました。神の愛の故です。

そしてわたしたちに平安と慰めを与えて下さったのです。イエス・キリストの身代わりによる痛みと苦しみの象徴である十字架無しに、わたしたちの病いを癒し、心に平安を与え、心の痛みを取り除いてくださるお方は他にいません。このイエス・キリストの十字架のもとに自分の重荷を下ろす時に、初めて心の平安が取り戻せるのではないでしょうか。そればかりではなく、神様の使命をも与えて希望と喜びに満ちた人生、苦しみや痛みも喜んで担って行く力も与えて下さるのではないでしょうか。 

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