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疲れたあなたをイエスは招く (マタイ11:28~30)

メッセージ
2021/10/17
富里キリスト教会伝道礼拝説教
「疲れたあなたをイエスは招く」
(マタイ11:28〜30)

①キリストの元で休みましょう
今日、私たちに与えられたこのみことばは、最も美しく、慰めに溢れ、最も親しまれた恵みに満ちた招きの言葉であると言われています。今日のこのみことばが大好きだというクリスチャンは本当に多くいます。私もその一人です。そして、この言葉はクリスチャンでなくとも心に残る言葉であるように思います。ですから、今日のこのみことばは、よく教会の掲示板に掲げられ、この招きに応えてクリスチャンとなった者も多いのです。それほど、今日のみことばは神の御思いを端的に表しているのです。それは、「私の元に来なさい。そこにこそ本当の安らぎがあるよ。」という神様から私たちに向けられたラブコールなのです。そう考えると今日の伝道礼拝という場においては、とてもふさわしいみことばと言えるかもしれません。どうか、このイエス様の招きに応えるよう、聖霊さまが一人一人の心を促してくださりますように。

マタイ18:28
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」

だれにとってもホッとするような言葉ですが、日本人にとっては特に迫ってくるものがあるのではないでしょか。なぜならこんなこと言ってくれる人は、中々いないからです。この日本の現代社会はとにかく時間の流れが早いです。1分1秒も無駄にするな。効率、コスパ重視。心を亡くすと書いて忙しいと読みますが、今のこの日本の繁栄、豊かさはそういった心の犠牲によって成り立っているようにも思います。
確かに日本は凄い国です。かつてバックパッカーとして海外のあらゆる国に行きましたが、その中で気づいたことは海外の文化の素晴らしさと共に日本のクオリティの高さでした。メイドインジャパンはまさに信頼の置けるブランドであることを知りました。清潔で、治安も安定し、保険制度は充実し、電車は1分も遅れない。私たちの当たり前は実は、当たり前ではありません。物に溢れ、本当に豊かな国です。こんな国、日本くらいだと思います。
しかし、その日本の素晴らしさを覚えつつも帰国して気づいたのは、その日本で生きている人たちの表情の暗さでした。物はなくとも時間の感覚はゆったりとし、どこか明るさと笑顔が見えた私が見た海外の人たちとは対照的な表情でした。どこか生き急いでいる。いや、そうしないと生きていけない息苦しさが私たちのこの日本の社会にはあるのだということに気づかされました。こうしなくてはならない、ああしなくてはならない。疲れた、しんどい、でも休みたいと言ったら迷惑がかかる。そして、周囲からも休むなというプレッシャーがかかる。頑張れという言葉に無性に苦しみを覚えるときがある。
疲れた、休みたい。こう言った言葉を飲み込みながら、この現代日本に生きる人たちにとって、また真面目さゆえにこの責任、荷物を下ろせない、ドロップアウトしたと思われたくない、そのように思う人たちにとって今日のこのみことばはとても魅力的な言葉に聞こえるのではないでしょか。
今日のこの言葉は約2000年前、遥か遠くイスラエルの地でイエス・キリストがユダヤ人に向けて語られた言葉ですが、当時のユダヤ人もとっても疲れていました。当時のユダヤ人には守らなくてはならない戒めの規定が事細かくあり、それを守らないと失格、汚れたものとして忌み嫌われ、コミュニティの中で生きていくことができなくなっていました。これを破ってしまったら社会的抹殺だ、そんなプレッシャーの中で生きていた彼らは本当に疲れ切っていたことと思います。
聖書の中には十戒という有名な律法がありますが、その中で安息日を守りなさいというものがあり、それはその日はなにもせず、仕事を休みなさいというものでした。休めと言われながらもどこか休むことができない私たちの心を案じて、神様は戒めにしてまで休むようにと言われました。聖書は休むということに対して肯定的に捉えています。しかし、ユダヤ人はこの神の私たちに対する配慮を、仕事をしてはいけないという鉄の規律にしてしまいました。してはならない規定をこと細く決め、何歩以上は歩いてはいけないということまでルール化してしまいました。むしろその日は、心を休めるどころか緊張の1日としてしまったのです。そんな中でイエスさまは私の元で休みなさいと彼らに語りかけたのです。
この安息日の安息の意味は、そもそも休むという意味よりは、止める、ストップするという意味合いがあります。それは、生き急ぎ、心を亡くし、こう生きねばならぬと緊張している私たちに向けた神の招きです。この荷物を下ろせない責任があるのだ。仕事や家庭において皆がそのような思いを抱いています。でも、そこに苦しさも皆、覚えているのです。
そんな私たちに、一旦全てを止めて、休んでごらん。私の元に来てその荷物を降ろしてごらんと神様は招いておられるのです。忙しないこの現代社会で、余裕をなくし、心を亡くしてしまった私たちが、神の元、イエスの元に来たとき、本当の意味で心は安らかなものとされるのです。だからこそ安息日というのです。

②キリストのくびきを負いましょう
神であるイエス・キリストの元に来たとき、私たちの疲れ切った魂は癒され、満たされます。主の元にあるとき、私たちには何一つ欠けたものがないのだと聖書は語っています。何よりイエス様の側にいることは、私たちにとっても安心感を与えてくれます。心が平安になるのです。なぜならイエス様は誰よりも柔和で謙遜なお方だからです。仕方ないな、休みたきゃ休めよ、ダメなやつだな、しっかりしろよとブツブツ言ってくる少し嫌味な上司のようではなく、その疲れを覚えてしまう弱さも、その中で一生懸命頑張っている思いも全てをご存知で、そんなに一人で背負わなくてもいいよと語られる。そのような柔和さに満ちたお方なのです。
でも、一つ覚えておいて欲しいことがあります。それはイエス様は、そのあなたの重荷を放り出せとは言わないということです。イエスの元で立ち止まり、魂の安息の中、亡くした心を取り戻し、再びその荷を背負って歩めと言われるのです。なんか突き放されたような気がするでしょうか。休んでもまた現実が待っているのか・・・。結局、今までと同じじゃないか。そう思われる方もいるかもしれません。しかし、決してそうではありません。
一人で行ってらっしゃいと突き放すのではなく、そのとき、私のくびきを負いなさいとイエス様は言われるのです。くびきとは昔からある農耕器具であり、頑丈な横木で作られた道具で家畜の首に固定させ車や鋤をひかせるものです。また、このくびきとは隠れた比喩として苦しみを象徴したものと言われています。
そして、そのくびきに関して、イエス様はさらに「私のくびきは負いやすく、軽い」と言われました。
イエス様のくびきは特別ハイスペックなのでしょうか。重い木ではなく軽いアルミででもできているのでしょうか。そういうことではありません。あなたがその荷物に疲れを覚えつつも、その荷物はあなたにとって大切な、手放せないものであることも知っているイエス様は、そんなものは放り出せというのではなく、私がその荷物を一緒に背負うよと言われているのです。
くびきというものは実は、二頭の家畜に固定して進むものです。今までは一人で必死に、頑張って背負っていた荷物をくびきの荷台に乗せ、これからはイエス様が一緒に背負って歩いてくれるということなのです。イエス・キリストというお方は神がこの地に人となって降りてこられた方です。つまり、神が人の元にまでわざわざ来て、家畜のように一緒に汗を流して歩いてくれると言われているのです。神がこのようになされるとは、まことに謙遜そのものです。
聖書の中で、多くの者が苦難、大ピンチにあう、そのような場面がありますが、そのような時には必ず神様から「恐れるな。私が共にいる。」こういった言葉が何度も何度も語られます。その神様が見える形で現れたお方がイエス様です。このイエス・キリストが生まれるということは、生まれる何百年も前から預言されていて、その方はインマヌエルと呼ばれるだろうと語られていました。インマヌエルとはヘブライ語で「神が我らと共におられる」という意味です。
私は一人じゃない。いつも一緒にイエス・キリストが私のこの荷物を背負って歩いてくれているのだ。疲れたら、一度立ち止まりそのイエスの元で息をつき、休めば良い。そう思うと、こうしなければならないという、義務感でいっぱいだったその重い荷物が不思議と軽くなってくるのです。同じものを背負っていたとしても気持ちが全然変わってくるのです。この方にもう、任せてみよう。そう思えたとき自分が、自分が、といった気負いや、休むことへの引け目や強迫観念などから本当の意味で解放されていくのです。

③本当の安らぎ
そうなったときに、与えられるのが本当の安らぎです。私たちが神と共にあるとき、まことの魂の安息がそこにはあります。私たちクリスチャンが日曜日集まって、神を礼拝しているということは、なにも別に戒律を守るために義務的に行なっているわけではありません。日常の忙しなさで、心を亡くしてしまったこの私が、神のみ前に来て、いったん手を止め、立ち止まり、神のメッセージであるみことばによって心が養われるという本当の魂の安息がそこにあることを知っているからです。
そして、そのとき主は私と共におられるのだ。決して孤独ではないのだと、心が平安に満たされ、主と共にくびきを背負ってこの人生を歩んでいこうという活力が与えられる中で月曜日を迎えるのです。その中での一週間、いや一生というものは、イエス様と一緒に荷物を背負いながらも、どこか全て背負ってもらっているような感覚を覚えます。
この荷物を背負った時の苦しみというものは実は私たちの心の中に根付く罪というものから来ています。イエス・キリストは私たちをその苦しみから解放するために十字架にかかられました。人類の全ての負いを引き受けてくださったのです。重い荷物が軽くなっているのは当然なのです。実は、主イエスが全ての力で私の分も一緒に押してくれているのです。イエス様に手伝ってもらっていたどころか、実は私が荷物を背負って押すイエス様のただ隣にいただけだったのだ。そういったことに気づかされます。
「あしあと」というクリスチャンにとっては有名な詩があります。人生で一番辛く悲しい時、そこには一つの足跡しかなかった。そのことに詩人は心を乱し、神様になぜあなたは私を捨てたのですかと問いただしてしまいます。その詩人に対しての神様の言葉はこういったものでした。

「わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとがひとつだったとき、わたしはあなたを背負って歩いていた。」
神様は、私と一緒に荷物を押してくれるどころか、私を荷物ごと背負って歩いてくださっていたのです。神と共に生きるということは、こういう幸せの中、生きていくということです。
この忙しない現代社会で疲れていない人など一人もいません。重荷を背負っていない人も一人もいません。全ての人を神は招いておられます。どうでしょう。この招きに応えてみませんか。イエスの元に来て、本当の安らぎの中で生きていきませんか。あなたと共に生きたいと願われるキリストのくびきを背負って生きていきませんか。このお方こそ、私の人生を変える救い主だと受け入れ、信じてみませんか。今日も明日もいつまでも主は手を広げ、あなたを待っておられます。

マタイ11:28−30
「疲れた者、重荷を負うものは、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

武井誠司

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