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生きることはキリスト死ぬことは益 (フィリピ1:12~26)

メッセージ

2016年2月28日富里キリスト教会

「生きることはキリスト死ぬことは益」
(フィリピ1:12~26)

1.生きることはキリスト、死ぬことは利益なり

今日の宣教題であります1:21の「生きることはキリスト、死ぬことは利益」という言葉は、パウロの伝道者としての中心をなすものではなかったでしょうか。人はみな生きることを願い、死ぬことを避けようとします。「生きることはキリスト」という言葉は受け入れることはできると思いますが、後半の「死ぬことは利益なのです」という言葉はなかなか承服しがたいところがあるのではないでしょうか。誰でも「死ぬことは避けたい、いやだ」というのが本音です。でもパウロは、死ぬこともまた利益だと言っています。ある人はこの箇所を「わたしにとって、生きることはキリストであり、死ぬことはもうけものだ。」と訳した方がおりました。確かに、益という言葉は、利益ですからプラス、儲けという意味です。ですから、パウロにとっては死ぬことは、生きていることよりももっと素晴らしいことだと言っているのです。

1:21~25までを読んでみましょう。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、わたしには分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが、他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがたと共にいることになるでしょう。」(1:21~25)

どうしてパウロはこんなにまでも、いわば死ぬことさえ利益、もうけものだと言っているのでしょうか。あのヨブでさえ、財産を失い、子供をなくし、病気に冒され、人生のどん底の中で神に向かって叫びました。「なぜ、どうして、あの人はどうなんですか?」という人を攻める気持ち、自分は悪くはないと言い張る気持ちです。これが死ななければならないのです。「自分が死ななければ生かされないではないか。」(Ⅰコリント15:36)とパウロも言っています。

これが崩されるまで神様は手を休めない。そしてとうとう神様からの御声が聞こえて、ヨブは自分というものに初めて死ぬことができたのです。この自分、私が、問題なのです。これが砕かれ崩されない限り、神様は手を休めずに私たちをサタンを使ってさえ攻め続けるのです。死ぬことがもうけものだと言えるようになるまでです。

A)すでに死んだ者

パウロはガラテヤ書2:19でこう言っています。「わたしは、キリスト共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を捧げられた神の子に対する信仰によるものです。」(ガラテヤ2:19~20)と。イエス・キリストと出会い、この方を信じた時からパウロは、既に自分は死んだ者だと言っています。バプテスマはキリストの死にあずかるバプテスマです。

水に沈められることによって、古い自分という自我、罪に死にました。しかし、形としては一回浸礼のバプテスマを受けるのですが、実際はこの自我という自分中心の古い罪の性質は、常に頭をもたげて来ます。ですから、バプテスマは一回限りですが、意識の上では、毎日毎日、自分という罪に死に続けなければなりません。クリスチャンは罪を犯さないというのではなく、誤って犯しても悔い改めるならば赦されるということです。イエス・キリストの十字架の血潮が、わたしたちの罪をいつでもどこにいても瞬時に洗い聖めて下さるのです。したがいまして、クリスチャンの私たちは、罪を犯しても、毎日毎日、熱心に悔い改めることができる者とされているということです。日々に死ぬことです。(Ⅰコリント15:31)しかも熱心に一生懸命自分に死に続けることです。これが悔い改めであり、新しい信仰生活の始まりです。

ですからクリスチャンは、日々にキリスト共に十字架につけられて、絶えず死んでいるものとされているのです。わたしたちは既に死んだ者であり、日々に死につつあるものなのです。ですからどうして一度死んだ者が、再び死を怖れることができるでしょうか。信仰を持って主の来臨を待っているものは、「希望をもって新たな力を得、鷲のように翼を張って舞い上がる。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」(イザヤ40:31)との御言葉の通りです。外側は滅びても、内なる人は日毎に新しくされて行くのです。(Ⅱコリント4:16)ますます輝いて来るのです。ですからこう言いましょう。毎日若返って行きます。何でもやりましょう。もう天国も近いですから人生悔いのないように、今できることなら何でもしますと、外側の肉体ではなく、内なる人を成長させましょう。

B)キリストわが内に生きる

ですから、クリスチャンになるということは正しい生き方をするようになるためとか、何か善い行いをするとか、社会に役立つ人間になるとかとうことが目的ではありません。あるいはまた、キリスト教的な人生観、信条とか思想をもって生きるということでもありません。そのような生き方や考え方は、副産物です。まず大事なこと、そして第一のことはイエス・キリストがわたしの心の中で主となるということです。DoingよりもBeingが先なのです。つまり自分が何かをやり遂げるということではなく、このイエス・キリストというお方が自分の心の中で、そして生活の中で、人生の中で大きくなってくるということです。金太郎飴のようにすべてがキリスト、どこを切ってもキリストが出て来る人間になって行くということです。

単純に申しましてキリスト教は、イエス・キリストであると言ってもいいのではないかと思います。わたしという自分は既に死んだ者です。生きているのはわたしではなく、キリストなのです。イエス・キリストのように考え、キリストのように生き、キリストのようになることです。そのことに全力を尽くすことです。クリスチャンにとって、イエス・キリストは、今は聖書の御言葉を通してしか解りませんが、死ねばこのお方とお会いできるわけですから。そして再臨の時には、顔と顔を合わせてハッキリと相見えることができるのです。ですから、パウロは死ぬことはもうけものだと言ったのです。早くこのお方と顔と顔を合わせて、お会いしたいと願ったのです。

2.肉にとどまる理由

しかしパウロは、死んで天国へとはせ参じるよりは、あなたがたフィリピの教会のために、この地上に留まって福音を宣べ伝え、あなたがたの信仰を深めることが大事だと言っています。24節からこう述べています。「だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です。こう確信していますから、あなたがたの信仰を深めて喜びをもたらすように、いつもあなたがた一同と共にいることになるでしょう。そうなれば、わたしが再びあなたがたのもとに姿を見せる時、キリスト・イエスに結ばれているというあなたがたの誇りは、わたしのゆえに増し加わることになります。」(1:24~26)

要するにパウロにとっては、生きていても死んでもキリストが宣べ伝えられ、崇められることでした。彼はこの手紙を牢屋から書いています。そしてたとえ、自分が逮捕されて殉教ということになっても、福音が前進することが大事だったのです。逮捕されても、殉教しても、また解放されてもキリストが宣べ伝えられ、福音がすべての人に届けられることでした。そして自分が導いた信徒が、信仰を持って祈りに専念し、御言葉と聖霊によって福音にしっかりと立って、良い判断ができる信徒になることでした。彼らの祈りによって、もし自分がこの牢屋から解放されたら、彼らの信仰によって喜ぶことができるんです。

そしてフィリピの信徒たちの愛の熱い祈りによって、この牢獄から解放されて再び彼らと会うことができることを願い、喜んでいました。「あなたがたの祈りと、イエス・キリストの霊の助けとによって、このことがわたしの救いになると知っていたからです。」(1:19)と言っています。パウロは決して自分の命が惜しいと言っているのではなく、フィリピの教会の祈りとパウロの宣教によって、教会が励まされ、信徒一人一人の信仰が強められて、キリストを信じる確信が与えられ、喜びに満ちあふれることを願っていました。そして自分のためにも教会員たちが、一生懸命祈ってくれることによって、パウロが開放されたなら、それほど嬉しいことはないと言っているのです。伝道者が信徒の祈りによって救われるのです。これほどの喜ばしいこと誉れとなることはないでしょう。

そして何よりも「知る力と見抜く力とを見につけて、あなたがたの愛がますます豊かになり、本当に重要なことが見分けられるようになる」(1:9~10)ことです。これが皆さん方の信仰が深まることです。そして最初に良い業を始められた方が、キリストの再臨の時までに、必ず私たちをそのように造りかえ、神の栄光を現すものとして下さると確信しているのです。最初この地に種を蒔かれた中條先生もきっと、この最初の業が最後には神様が完成して下さると信じておられると思います。

このように最初に信仰を説いた人は、わたしたちの信仰が成長して実を結び、完成へと到達することを願っているのです。パウロ先生もそうです。そしてわたしもパウロ先生と共に、また中條先生と一緒になって、同じことをお勧めしたいです。「わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」と              

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