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生きている者の神 (マタイ22・23~33)

メッセージ

2010年6月13日富里教会召天者記念礼拝
「生きている者の神」
(マタイ22:23~33)

1. 復活の時、誰の妻か?

ある方が、私にこう尋ねられたのを覚えております。「岡田先生、私たちが復活する時は、何歳の時のからだで復活するんですか?」と。私も一瞬答えに窮しました。「そうですね、自分が一番輝いている時の年齢で復活するんじゃないでしょうか?」と、つい聖書にもないことを答えてしまったのを覚えております。
実際、復活した時のからだや復活したあと何をするんだろうかとか、ふと考えてしまうことがあります。復活ということは、クリスチャンでもなかなか信じられないことです。

イエス様がおられた当時も、ユダヤ教の主流派をなしておりましたサドカイ派という人々も、やはり復活を信じておりませんでした。また、天使とか聖霊も信じていませんでした。そして、復活などありえないと言うことを証明するために、あえて、イエス様に対して難問を突きつけたのでした。それが今日の聖書の箇所です。

当時、兄が亡くなった場合には、弟がその兄嫁と結婚をして家督を守るという習慣がありました。日本でも、長男が亡くなった場合には、その家の血筋や家督をつぐために弟が兄嫁をもらってその家を守るというケースもあながちないわけではないと聞いております。もし、兄が次々と亡くなって7人の兄弟と結婚した場合、天国に行ってから一体この嫁は誰の妻として迎えられるのかということです。天国では妻を巡って兄弟げんかが起こるのではないか、だから復活などないのであり、あるのは現世だけであるというのがサドカイ派の信仰でした。

2. 天使のように復活する

私も以前、クリスチャンはどんな風にして復活するのか、天国で何をして生活するのかと考え込んでしまったことがあります。聖書では栄光のからだ(フィリピ3:21)、霊のからだ(1コリント15:44)で甦るとありますが、いったいどんなからだで甦るのか、見てみたいと思った時がありました。天上での私たちの姿や状態を見させてくださいと祈ってみた時があります。そうしましたら、ある時、夢の中で天使のように光り輝くからだでイエス様をほめたたえながら賛美している姿が見えました。ああ、これが天上での栄光のからだなのかと思ったことがあります。でもこれ以上言うと、かえって真実性を疑われますので、あまり詳しくは言いませんが、復活の体というものがあります。

サドカイ派のこの妻はいったい誰の妻になるのかという、質問に対しまして主イエスはこう答えました。29節「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている。復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」と答えました。天使のようになるというのです。つまり、復活の時には地上での生活がそのまま延長されてゆくのではなく、全く新しい存在になるのであって、この世の家族関係や夫婦関係が延長するのではないということです。霊的な存在ですから、結婚とか子供を残すとか家を引継ぐと言う関係ではなくなるのです。

この復活の時にはどうなるのかという記事を見てみたいと思います。1テサロニケ4:16「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」これが、イエス様がこの世の終わりに臨んで再びこの地上に来られる時の出来事です。霊の復活のからだで空中に引き上げられて、イエス様と共に永遠に生きるわけです。

そして、ヨハネの黙示録21:3~4には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐいとってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない。」(黙示録21:3~4)この世では、いろんな悩みや悲しみがありますが、天使のようになった霊のからだの世界では、死もなく、夜もなく、嘆きや悲しみのない世界です。そして、イエス様を中心にして絶えず主を礼拝し賛美するのです。天使のような存在だとイエス様がおっしゃったわけですが、私ももうこれ以上言えません。ただ、イエス様は復活があるということを、復活も天使も霊も信じないサドカイ派の人々に教えようとされたのではないでしょうか。

3. 生きている者の神

ですから、復活についてこう述べています。22:31~32に「死者の復活については、神があなたたちに言われた言葉を読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」とあります。これはモーセが、ホレブの山で柴の炎の中から神に語りかけられた時に聞いた言葉です。「有ってある者」と答えられた神は、御自分が永遠に生きておられる方だということ、そして無から有を造りだすお方だということを示されました。

神はこのように永遠にいまして、無から有を造りだすお方ですから、このお方を信じている者は、すでに復活の命に預かっているのです。イエス・キリスト様が十字架の上で、罪と死に勝利して下さいました。もはや死も罪も我々を支配しないのです。エフェソ2:4~6にこうあります。「しかし、憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛して下さり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、(あなたがたの救われたのは恵みによるのです。)キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。」とあります。

つまり、イエス・キリストを信じている者は、すでに復活の命にも預かっているのであり、すでにこの地上にあって天に本籍をいただいているものなのです。ですから、死はもはやないのです。永遠の命に預かっているのです。ここに御写真を掲げられている兄弟姉妹は、決して死んでしまったのではありません。今は亡き個人の遺影を掲げているといったものではないのです。地上での生涯は終りましたが、まだ生きているのです。天上から私たちを見守って、サポーターとして声援を送っておられるのです。

数年前に「千の風になって」という歌が流行りました。死んだ人が、風のようになって天空を駆け巡るという美しい歌ですが、私たちは風になるのではありません。千の風になるとかというものではありません。そんな風のような実体がないものではなく、主の再臨の時には、ちゃんとからだをまといます。しかも、栄光に輝く私自身の霊のからだです。何歳の時のからだでもいいです。きっと神様が一番ふさわしい時のからだを準備して下さっていると信じます。

先ほど礼拝の中で賛美した曲の歌詞に、こういう言葉があります。
「麗しい天の国 約束の都には 命の川豊かに 人々を潤す
その御国を目指しつつ ハレルヤと声をあげ
導きを主に委ね 日々歩む嬉しさ。
天にある都には もはや死も悲しみも 憂いや涙さえも 主によって消え去る
高らかにハレルヤと 声合わせ歌いつつ
主を信じ 喜びに満ちあふれて進もう。」

私も皆さんも地上での生活はわずかでしょう。約束の御国を目指して、主を信じて、一日一日を精一杯生きて行きましょう。先に天に帰られた信仰の先輩の生涯を見習って、私たちもこの地上にある限り、主を信じて、上にあるものを見上げつつ、歩んで行きたいと願っております。
                                    (岡田 久)

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