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献金の恵みと感謝 (Ⅱコリント8:1~7、9:6~15)

メッセージ
2018年6月17日富里キリスト教会
「献金の恵みと感謝」
(Ⅱコリント8:1~7、9:6~15)
1.貧しさと喜びの教会

はた目から見たらもうつぶれかかっているような教会、迫害を受けて信者も疲れ果て、教会堂の建物もボロボロになっているような教会。しかし、それでもそこの教会には信仰の喜びと命が満ちあふれているのでした。その教会は、残念ながらコリント教会ではありませんでした。同じギリシャの教会ですが、北の方のマケドニア地方にある教会でした。そこにはフィリピとテサロニケの教会がありました。パウロは次のように、そこの教会のことを書いております。

「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。わたしは証しますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりにわたし達に願い出たのでした。また、わたし達の期待以上に彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を捧げたので、わたしたちはテトスに、この慈善の業をあなたがたの間で始めたからには、やり遂げるようにと勧めたのでした。あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(8:1~7)

実はパウロはマケドニア州のフィリピの教会を引き合いに出しながら、今は貧しくなっている母教会のエルサレム教会への募金運動を始めました。しかし、コリント教会も最初は賛同してくれたのですが、途中から消極的になってきました。当時ユダヤ人の教会であった最初のエルサレム教会は、度重なる迫害のためにだいぶ疲弊していました。海外へは、元気なクリスチャンを派遣するのですが、肝心の12使徒が築いたエルサレム教会は、飢饉や迫害によって教会が貧しくなっていました。そこで、パウロは、海外のキリスト教会からの献金を集めて、母教会であるエルサレム教会まで届けようとしていたのです。

ところがコリント教会は、あんなに教勢が伸びて大教会になっていたにもかかわらず、いざ献金となると渋って十分に集まらなかったのです。それでパウロは、ギリシャの北部のマケドニア地方の貧しい教会の献金の取り組みを紹介して、何とかコリント教会もこの募金運動に積極的に参加してもらおうとしました。
このマケドニア地方の教会と言いますのは、主にフィリピの教会とテサロニケの教会ですが、極端な貧しさと喜びが混在していた奇妙な教会でした。普通、貧しい教会と言いますと、暗くて沈んでいて活気がなく、お先真っ暗という雰囲気のように思いますが、貧しいことは確かに貧しい教会でした。でもどういうわけか、信仰の喜びがいっぱいなのです。そして自分たちが貧しいのにもかかわらず、エルサレム教会への募金活動に自分たちも参加させてほしいと願い出たのです。

いやあなたがたは貧しい教会ですから、無理しなくてもいいですと言っても、逆に献金させてくださいと言ってきたのです。しかも実際に期待した以上に多くの献金を献げたのでした。それはなぜかと言いますと、そこの5節に書かれてあります。「彼らはまず主に、次いで、神の御心にそってわたしたちにも自分自身を捧げたのでした。」とあります。つまりマケドニアの貧しい信徒たちにとって、献金とは、まず主に献げるものだったのです。エルサレムの貧しい仲間に捧げるものではなく、何よりも献金は、どんな献金でもまず主に対して献げるものだということをしっかりと理解していたのです。第一に主に献げる、そして第二にパウロを通してエルサレム教会に献げるのです。献身の表明でした。

つまり献金の真の意味は、神様にそして伝道のために自分自身を献げること、これが真の献金の意味だと言っています。今日の礼拝のこの宣教の後の献金もそうです。まずお金を献げるのではありません。自分自身を聖別して神に献げるのです。これが献金の真の意味です。よく応答讃美歌と言いますが、献金も同じように神の宣教の御言葉に対する応答の献身、これが献金の時なのです。お金を献げるだけではないのです。会衆自身の献身の時、これが献金の時間です。神の恵みと祝福に答えること、自分を献げること、これが献金の時間なのです。「神の御心にそって自分自身を献げた」とパウロは言っています。

Paul had started the donation movement to the church in Jerusalem that was weakened for heavy persecutions and famine. Since the overseas churches owed much to this Jerusalem church, they should support the mother church. But the Corinthian church which is bigger
one among the overseas church became passive for donation movement. Then Paul encouraged the Corinthian church inquiring the Macedonian church. Macedonian church showed overflowing joy and rich generosity to the poor Jerusalem church. Paul said that they gave themselves first to the Lord and then they gave themselves to us. For the Macedonian church the donation is the dedication to the Lord at first and then they gave themselves to the poor church and Paul. The God does not see the money and the things but He sees our faith in God and our dedication to the Lord. Without such a faith and dedication our donation will be the rest or useless money.

皆さん、知っているでしょうか。預言者エリヤが、ザレパテの寡婦のところへ行った時のお話を。このやもめは貧しさのあまり、一人息子と最後の食事をしようと一握りの小麦と油でパンを焼いて、その後心中しようとしていました。そこにエリヤがやってきて、その最後の小麦粉でわたしにまず菓子パンを作って食べさせてください、それから自分たちの分を作って食べなさいと言いました。するとこの寡婦は、まず、最初に預言者のためにパンを作って与えました。それから自分たちが食べました。そうしましたところ、その後の生活は、かめの粉もビンの油も尽きることなく食べることができたのです。(列王記上17章)

つまり献金と言いますのは、献金の額や与えた物ではないのです。このザレパテの寡婦は、その食物であるパンではなく、彼女の信仰、彼女の命ともいうべきものを献げたのです。つまり自分たちの最後の食事、自分たちの命をつなぐ大事な物を献げました。彼女が献げたのは、小麦粉と油ではなく、彼女の命、彼女の生活、彼女自身を献げたのです。そこを神様は見ていたのです。

またレプトン銅貨二枚(200円)を献げた女性は、自分の生活費全部を入れたというお話が載っています。その時、他にもお金持ちがたくさん献金していましたが、イエス様は弟子たちに「この女性は他の誰よりもたくさん献金した。」と言われました。(マルコ12:41~44)神様はお金や金額を見るのではなく、わたしたちの献身の度合いをご覧になっておられるのです。「すべては主からいただいたものです。すべてはあなたから出ます。わたしはそれを受け取って差し出したにすぎません。でもあなたはまた私に、必要なものはいくらでも与えて下さいます。」というダビデの祈りの通りです。(歴代誌上29:14)

2.心に決めた通りに喜んで捧げる

「つまり、こういうことです。惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めたとおりにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:6~7)

献金には不思議な経済法則があります。「惜しんでわずかしか蒔かない人は、刈り入れもわずかです。でも惜しまずに豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かです。」とパウロは言っています。そこには一つの不思議な経済法則があるようです。それはたくさん種を蒔けばたくさん収穫があります。種を渋って少ししか蒔かなければ、収穫は少ないという法則です。畑をやっている人は、この法則は解かると思います。またある方はこうも言いました。お風呂に入って、温かいお湯を自分の懐に持ってこようとする人は、かき集めればかき集めるほど、脇からどんどんと熱いお湯が抜けてゆきます。もし熱いお湯を欲しかったら、懐のお湯を外にかき出してやれば、自然と脇から熱いお湯が入ってきますと。パウロも言っています。「受けるよりは与える方が幸いである。」

Paul said that whoever sows sparingly will also reap sparingly, and whoever sows generously will also reap generously. Each man should give what he has decided in his heart to give, not reluctantly or under compulsion, for God loves a cheerful giver. So this is the best way we should give, first of all we should give what we have decided in our heart, never give reluctantly or under compulsion. We want to give cheerfully. I was taught the best way we give, during a bath, when we want to have a hot water we may draw the hot water, but the more we draw a hot water the more a hot water run away from us. If we truly want to have a hot water, we should give the water out of me, then a hot water come into us. This is a spiritual economical law.

先ほどは、貧しいマケドニア教会の献金の心構えを話しましたが、今度はじゃあ具体的にどのくらい献金すればいいのだろうかということに対して7節に述べられております。「各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです。」(9:7)それは渋らないで、惜しいと思わずに、他人から強制されていやいやながらではなく、「自分の心に決めた額を献げなさい」ということです。

取税人だったザアカイは、イエス様に救われてこう言いました。「自分の全財産の半分は貧しい人々に施します。また不正に取り立てていた人には、4倍にして償います。」と答えました。神様と相談して、自分で心に決めた通りにしました。その時、主は「今日、この家に救いが訪れた。」と言いました。(ルカ19:8~9)自分の心で決めた通りの額を、喜んで献げたのです。自分の財産は、主からのものであったということを告白して自分を献げたのです。

一方、あの金持ちの青年は、どうしたでしょうか。(マタイ19:23~30)イエス様は青年に、「もしあなたが永遠の命を手にしたいのであれば、家に帰って自分の財産を売り払ってから私に従ってきなさい。」と言われました。すると彼は、顔を曇らして悲しんで主の前を立ち去って行きました。なぜか、たくさんの財産を持っていたからであるとあります。つまりこの青年にとっては、信仰と自分の財産は別物だったのです。信仰は道徳みたいなもので、自分の財産は親からのプレゼントで、神様からいただいた恵みのプレゼントだとは考えませんでした。ですから、彼は自分の財産の数パーセントでさえ、手放すことができなかったのです。自分の罪を認め、悔い改めて自分自身を献げることが、永遠の命を得ることの第一歩だとは考えもしませんでした。

パウロはこう言っています。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛など、すべての点で豊かなのですから、この慈善の業においても豊かな者となりなさい。」(8:7)わたしたちは、ともすると信仰や奉仕や学びの熱心さはありますが、献金のこととなると急に口をつぐんでしまうことはないでしょうか。献金と信仰とは別物だと考えてしまう落とし穴があります。信仰や聖書の知識や教会の愛の業と献金の働きは、切り離すことができないのです。コリント教会は信仰、知識、奉仕の点では恵まれて積極的でしたが、献金の点では消極的でした。パウロは献金の奉仕でも積極的かつ熱心になりなさいと忠告しています。

3.恵みと感謝の充満

すべては神様からの恵みのプレゼントです。「種まく人に種を与え、パンを糧としてお与えになるお方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます。あなたがたはすべてのことに富むものとされて惜しまず施すようになり、その施しは、わたしたちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです。この奉仕が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上もなくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです。言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します。」(9:10~15)

最後にこの献金の働きは、まず第一に、経済的に困っている人の不足分を補います。第二に、受けた人が神への感謝をさらに大きくし、そしてこの協力活動が盛んになります。第三に、神への賛美が起こってきます。そして、コリント教会に対して慕う気持ちが起こってきて、コリント教会への祈りが起こってきます。そして第四にこの募金活動は、最後には神様からの恵みの贈り物であることが分かり感謝の念が再び起こってきます。

Christian giving is a grace. Because our giving movement has a expanding of God’s love.
1. Giving supports the people who is short in his life.
2. A receiver will give thanks to God more and this movement will be more active.
3. Praising to God will arise and longing for Corinthian church and prayer to the church will arise.
4. Everybody realize this donation movement comes from God and give thanks to God again.
Like this the donation movement that will help the weakened church
become a good spiral in the mission field. It will develop from help to thanks and praising and prayer and thanks again. So this is a gift of grace.
このようにして貧しい教会を助けるという募金運動は、単に支援するというだけではなく、福音宣教の上でも、援助、感謝、讃美、祈り、さらに感謝へと次々にプラスのスパイラルに発展してゆきます。献金活動は、愛のスパイラルになって拡大発展し、愛と喜びが満ち溢れてゆく力を持っています。お金集めは大変だというのではなく、この活動はむしろ神様からの恵みのプレゼントではないだろうかと、パウロは言葉に詰まっています。余裕があるから捧げるのではなく、貧しくても喜んで捧げる。そこに神様の祝福の分かれ目があるような気がします。惜しむことなく種を蒔く教会、そうすれば必ず多くを刈り入れることができるのです。金額の問題ではなく、神様からの恵みへの感謝の表れとして献身の思いをもって、心に決めた通りに喜んで献げてゆきましょう。

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