ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

父の諭し、妻は祝福の源

メッセージ

2009年6月21日 富里教会父の日礼拝
    「父の諭し、妻は祝福の源
             (箴言5:15〜23)
                         
1. はじめに

主の御名を賛美いたします。
今日は父の日礼拝を覚えて、壮年の方々に讃美歌520番の「人生の海の嵐に」を歌っていただきました。どういう訳か、この歌が壮年のテーマソングになってしまいました。おそらく、長い間、人生の嵐にもてあそばれ、身も心もボロボロになった人が、その魂の安らぎの港である神のみもとに飛び込んで、救われた時の心境を歌っているのではないかと思います。思い返せば、自分の人生にいろんな危機があった、仕事の問題、会社での人間関係、家族の問題、幾度となく沈んでしまいそうな時があったにもかかわらず、その度に、神様の不思議な御手によって守られて来た、そういう思いを歌にしているのではないでしょうか。

確かに世間ではいろんな嵐が襲ってくるでしょう。社会の波という嵐もあるでしょう。でも、壮年にとって、社会の嵐よりも家の中の嵐、とりわけ夫婦の間の嵐というのも、すさまじいものがあるのではないでしょうか。夫婦の間の問題に悩まされ続けてきたが、やっと年を経て人生の港に二人でたどりつくことができた。そのことを歌った讃美歌でもあるような気がします。今日は、父の日礼拝ですので、壮年の方々を意識してお話してみたいと思います。

2.人生の5つの嵐

男の人生には、「お金」、「女性」、「プライド」、「支配=コントロール」、「自分の父親」という五つの嵐があると本に書かれていました。1番目の嵐は、「お金」です。自分は一生懸命働いてきたので、これこれの収入がある、家族を養って来たという自負心があります。しかし、急に収入がなくなったりすると、うろたえてしまい、神を第一とする父親の信仰を失ってしまったりします。経済問題で精神的にも落ち込んでしまうことがあります。

第2番目の嵐は、「性的な誘惑」の嵐です。男性はちょっとした性的な刺激で、性の妄想に陥ってしまい、心の中に闇を作ってしまうことがあるといわれています。ストレスがたまると、そこに逃げ込んでしまったりします。あるクリスチャンの集会で、信仰の先輩が「私はまだこの年になっても、性の誘惑に弱い。」と言いました。そうしましたら、もっと年配のクリスチャンが「私はもっとです。」と言いました。そうしましたら、その会が急になごやかになったと言うことを聞いたことがあります。男性である限り、この嵐に出会ってしまい、おぼれかかることもあるでしょう。

3番目にあげられるのが、「プライド」の問題です。男性は教会ではすばらしい働きをします。まさに縁の下の力持ちですが、ともすると外見的な奉仕に終ってしまう危険性があります。神様との深い霊的な内面的な交わりになると、女性の方が優れているような気がします。ある年配の役員の方が、すばらしい働きをされていました。非常に謙遜に皆さんに仕えておりました。私が、「何故あなたはお年も召して、社会的な地位もあるのに、そこまで低くなれるのですか?」と尋ねました。そうしましたら、こういう答えが返って来ました。「私がバプテスマを受けた時に初孫が生まれました。ですから、孫の顔を見るたびに自分の霊的年齢がわかるのです。この間、孫がやっと幼稚園に入りましたので、私の信仰も、幼稚園に入学したくらいの幼い信仰だと思っています。そう思って奉仕をすると、とても気持ちが楽で、楽しいのです。」とのことでした。このへりくだりこそが、この方をプライドという男の嵐から解放しているのですね。

第4番目の嵐が、「人をコントロールしたい」という誘惑だそうです。最近、熟年離婚と言う言葉がありますが、その理由の一つに、なんでもかんでもコントロールしようとする夫に耐えられなかった、と言うのがあげられるそうです。私もよく家内に言われます。「あなたはいつも私を支配しようとする!」。自分では正しいことを言っているのにそれが、支配しているように受け止められるのですね。ある結婚セミナーで、「夫婦にとって一番大切なのは、愛と信頼と自由のうちどれですか?」という質問がありました。皆さんはどれだと思いますか?答えは「自由」だそうです。妻を自分のための存在とはせずに、一人の自由な人格として認め、受け入れるところに、本当の意味で愛と信頼が生まれてくるのだそうです。

そして第5番目の嵐は、父親の支配という鎖だそうです。子供の時、父親にいろんな考えを押し付けられ、心と人生を支配されてきた息子は、生きる気力も希望もなくなってしまいます。父親からの抑圧、暴力、虐待で心の傷を受け、いまだに苦しんでいる男性が意外と多いといわれています。父なる神様が自分の父親と重なり合って、どうしても神様を受け入れることができないと言う方がおられました。

こういういろんな人生の嵐の中で、もまれ苦しみ、息も絶え絶えになっているような私たちです。本当にすさまじい人生の罪の嵐、それにもてあそばれ翻弄され、もうめちゃくちゃになり、海の底に沈みかけているような状態かも知れません。でも、先ほどの賛美歌に「逃げ込め港に」とあります。どんなに人生の嵐が吹き荒れても、海の中に沈みそうになっても、不思議な神様の御手が働いて、こうして今は静かな港に安らぐことができますことを感謝します。イエス・キリストこそ私たちの魂の安らげる唯一の港です。人生の安らぎの港です。そして、聖書の御言葉は私たちを静かな港に導くための羅針盤です。

3.自分の心を守れ

今朝の御言葉である箴言4:20〜27を読んでみましょう。
「わが子よ、わたしの言葉に耳を傾けよ。わたしの言うことに耳を向けよ。見失うことなく、心に納めて守れ。それらに到達する者にとって、それは命となり、全身を健康にする。何を守るよりも、自分の心を守れ、そこに命の源がある。曲がった言葉をあなたの口から退け、ひねくれた言葉を唇から遠ざけよ。目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう。右にも左にも偏ってはならない。悪から足を避けよ。」

人生にはいろんな誘惑や試練、試みといった嵐が襲って来るお話をしましたが、その時、まず自分の心を守りなさいと、聖書は教えています。そしてまっすぐに前を向いて、自分の目指す港の灯りを見つめ、そこに逃れることです。この救いの港を目指して、心の舵をまっすぐにとりなさい、と永遠にして真の父なる神様が言っています。

4:23に「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」とあります。新改訳聖書では「力の限り、見張って、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれからわく。」となっています。この箴言のテーマは、神の知恵と分別を絶対に手放してはならないという教えです。(4:5〜8)そのためにも、神の御言葉に耳を傾け、神様が言い聞かせることに耳を向けることです。そして何よりも私たちの心にその神のみ言葉、神様の戒めをしっかりと納めなさいと言っています。心の中に納めて、それを手放してはいけません。これが心を守ることです。

そして私たちの耳、心、口と唇、目、足といった部分を全部、正しく用いなさいと勧めています。全器官を動員して、この神の知恵、神の分別をしっかりと心に抱きしめ、次には自分の口と唇が悪い言葉を吐いて罪を犯さないようにしなければなりません。口を監視しなければなりません。そして、目はまっすぐに前を向くことです。自分にいつも相対していて下さる神様を見つめて、目を離さないことです。そして、そこに向って前進することです。私たちのこの足が、悪に傾かないように、罪と滅びの道へと迷い混んで行かないようにすることです。まっすぐに進むことです。

木の葉のような私たちも、こうして人生の嵐を乗り越えて行くことができるのではないでしょうか。それでも、私たちは弱い存在です。時には嵐に飲み込まれてしまうことがあります。一人では、この嵐に立ち向かうことができない時もあります。そこで、神様は、この夫の心を見守る者として、夫の真の助け手として、一人の女、エバを与えて下さいました。

3. 夫の助け手としての妻

ご存知のとおり、エバは男のあばら骨から造られました。それはとりもなおさず、夫の心を見張るため、見守るためにあばら骨から造られたのです。少し、妻のほうに視点を変えてお話ししてみたいと思いますが、創世記2:18〜25によりますと、エバはアダムの助け手として造られました。でも、この「ふさわしい助け手」というヘブライ語の本来の意味は、「彼と向き合う者」という意味だそうです。これは文字通り、「向き合うことによって、夫を助ける」ということだそうです。

女が、一本のあばら骨からできたと言うところに、妻の三つの働きの秘密が隠されています。一つは、あばら骨、肋骨は何よりも、人間が呼吸するのを助けます。つまり、夫が神様の霊である息をきちんと呼吸しているかどうかを助ける働きです。夫が正しく神様に心を向けているか、常に霊の呼吸をしているか、いわゆるデボーションや祈りを通しての生活をしているかどうか、主日礼拝を第一としているか、そのことを見守る働きです。

二つ目は、外からの攻撃に対して、夫の心を守る働きです。肋骨は人間の心臓を守ります。サタンの誘惑の火矢は、夫の心をめがけて攻撃してきます。自分が盾になってその攻撃の火矢から夫の心を守ってあげる、そういう働きをするために神様は、あばら骨から女を造ったと言われています。そして、三つ目は、目立たないと言うことです。中には、腕まくりをして、夫の仕事を代わりにやったり、しり込みする夫を叱咤激励するという肝っ玉の奥さんもいるでしょう。でも、まず大切なことは、妻が目立たないと言うことです。あばら骨が1本あってもなくても外からはわかりません。奥さんが目立たないようにすることです。それでも、皆さんは良く見ているもので、あそこの家はあの奥さんで持っていると言われたりします。

いずれにしましても、妻はあばら骨として、控えめに目立たず、夫に対する愛と信頼を持って、夫のかたわらに立ち続けること。そして、夫が神様に望まれるような夫になってゆくように、その心をじっと見守り神様にとりなし続けること、これが助け手としての妻の働きです。このように、妻は確かに夫の助け手ですけれども、夫にとりましては、かけがえのないものであり、この妻の働きと助け無しには、命の水を飲むことはできません。

私も時には、あまり準備のできていない説教をする時もあります。それでも教会員の皆さんは「今日の説教は恵まれました」と言ってくれます。ホッと胸をなでおろして、二階に上って行きますと、「あなた、今日の説教は準備不足でしたね」 とズバリと言ってくれます。信徒の皆さんはたとえそうは思っていても、口には出しませんが、家内は良く言ってくれますといいますか、そこまでよく言うよと思う時があります。でも実際は、家内の指摘の方が正しかったりする時がほとんどですね。この神様の御言葉を聞くことと、妻の話に耳を傾けることとは同じであるような気がするのです。妻を通して、このあばら骨からできた女の助けを通して、そこから神様は祝福を与えようとされているのではないでしょうか。

4.妻の声は祝福の源

最後に、次の5:15〜18を見てみましょう。
「あなた自身の井戸から水を汲み、あなた自身の泉から湧く水を飲め。その源は溢れ出て、広場に幾筋もの流れができるであろう。その水をあなただけの者にせよ。あなたのもとにいるよその者に渡すな。あなたの水の源は祝福されよ。若いときからの妻に喜びを抱け。」

この井戸と申しますのは自分の妻のことです。若い時に結婚した妻を大事にしなさい。決してよその女、妻以外の女と関係をもってはならない。5章の前半(3〜14節)は、よその女の罠にかかってしまった男のみじめな結末が書かれています。夫は妻の助け無しには、自分の心を守ることはできません。そしてその助け手である妻が、実は、自分の祝福の源でもあると書いています。「あなたの水の源は祝福されよ」だから自分の妻を、絶対に他人の手に渡してはならない、自分だけのものにせよと諭しています。妻の中に自分の祝福の井戸があるのです。おそらく、このわが子諭した父親も、かつては女性のことで失敗し、苦い水を飲んだ経験があったのではないでしょうか。そういうことを繰り返さないように、わが子を諭しているのです。

しかもこの祝福の源である井戸は、夫の喉をうるおし、町の広場にも湧き出て、溢れ出て流れるとあります。では、どうしたら自分の祝福の源であるこの井戸(妻)から、その祝福の水を汲み出したらいいでしょうか。それは、妻の話を聞き、妻の声に耳を傾けることではないかと思います。妻の声に耳を傾けることによって、初めて夫婦が一体となるのではないかと思います。

ある方がこう言っていました。「夫婦が一つにされるのは、夫婦が同じように感じ、同じように考えてゆくことだと思っていました。でも、実際はそうではなく、夫婦が真に一つとなるためには、相手の話をじっくり聞くことだと気がつきました。連れ合いが自分とはちがったふうに感じ、違ったふうに考えてゆくことだと言うことを認めて、それを知ることだということが、夫婦一体の秘訣だと言うことが解りました」と。つまり妻の声に耳を傾けることによって、そこには自分と全く違う人格があり、違う考えがあり、その違いを認め受け入れることによって、逆に自分の世界が広がって行くのだということです。妻の声を聞くということによって、神様の声にもジッと耳を傾けることができるようになったし、他人の声にも耳を傾け、相手を理解し適切な助言を言えるようになってきたというのです。自分自身の世界が広がって来たと言うのです。

「何を守るよりも、自分の心を守れ」(4:23)。神様の言葉を聴き、妻の言葉を聴いてゆく時に、自分の心が守られ、神様の祝福をいただき、人生のどんな嵐にあっても、神の平安の中に憩うことができるのではないかと思います。
                                    (岡田 久)  

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional