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父の愛

メッセージ

2009年5月3日富里教会
           「父の愛
             (ルカによる福音書15:11〜24)
                          
1.人生のどん底で我に返る
新聞を見ましたら、ここ何年も、年間の自殺者が3万人を越えているという統計が出ておりました。中でも中高年の自殺者が多いということです。先行きの見えない不況の中で、生活、事業に行き詰まって、自らの命を絶ってしまう人のことを思うと、大変心が痛みます。その分、人間の心もすさんできて、お金さえあればという考え方が支配的になってきつつあるような気がします。多くの人が職場を失い、帰って休む家すら失ってしまう現実があります。今朝は状況は少し違いますが、自分で身を持ち崩してしまい、帰る家さえ失った一人の若者の例え話を取り上げさせていただきました。

この放蕩息子のたとえ話は、一人の父親と二人の兄弟の話です。弟は、父が生きているうちに自分がもらう財産を要求して、遠い国に旅立って行きました。
やがて弟は、放蕩三昧のあげく、食うにも困り、豚のえさであるいなご豆でも食べたいと思いました。豚以下の生活にまで落ちぶれてしまったのです。たいがいそこまで落ちぶれれば誰でも、生きる気力を無くしてしまいます。しかし、彼はその死の淵で、突然、「我に返り」(17節)ました。父のところに戻れば、食べ物がある、生きられると言うことに気づくのです。他の聖書では「本心に立ちかえった」(口語訳)、「やっと目が覚めた」(リビングバイブル)、「その時、彼はやっと自分の悪かったことに気づき、心の中でこう考えました」(現代訳)となっています。

つまり彼ははじめて、自分の帰るべきところ、本来いるべき所に気づいたのです。「自分はどこから来てどこに行こうとしているのだろうか」「一体今まで何をしてきたのだろうか」ということを考えました。今までは目に見えるもの、快楽、贅沢、お金などが全てでした。しかしそういう生活は、空しいものであることにようやく気がついたのです。彼が「我に返った」証拠として、三つのことが上げられております。それは「わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう」(17節b〜18節a)という言葉です。すなわち、第一は「死にそうだ」ということです。第二は「ここをたつ」ということです。第三は「父のところに行って言おう」ということです。

?「死にそうだ」=私たちはまず第一に、神なしの人生の行き着く先が、死以外の何ものでもないと言うことに気づく必要があります。でも、そのことに気がついた時から、初めて生きるということに、意味を見出すようになるのではないでしょうか。己の死に直面する時こそ、目に見えない永遠なるものを求める時かも知れません。
岸本英雄さんという医師がおりました。この方は医師でありながら、余命半年と言う医師の告知を受けられました。しかし、自分にはまだやり残した仕事があると決意し、残された半年間、自分の研究に没頭しました。そして、悔いのない豊かな、かけがえのない充実した一日一日を送られたそうです。そして、告知されてから10年間、生かされたとのことです。人は、期待されている、やり残した仕事があると生きる目的をもって歩む時、たとえ死に直面していても生き生きとした人生を歩むことができます。いや、むしろ死を目の前にしているからこそ、真剣に生きることができるのではないでしょうか。

?「ここをたち」=日本語の聖書では、たいてい「立って」となっていますが、英語ではいろんな訳がありました。「I WILL SET OUT」(NIV)、「I WILL
ARISE」(KJ)、「I WILL GET UP」(AMPL.)、「I WILL GO HOME」
(LB)とあります。GET UP は「立ち上がる」という意味ですが、SET OUTは「出発する」、ARISEは「復活して起き上がる」、そして「GO HOME」は「家に帰る、生まれ故郷の家族のもとに帰る」という意味です。いろんな豊かな意味をもった言葉です。まとめて申しますと、「今までの古い自分中心の生活に決別して、新しい復活の命に生きる決心をした」ということになるのではないでしょうか。どんな生活であっても、慣れ親しんだ生活から離れるのは、決断と実行が要求されます。

?「父のところに行って言おう」=でも行く先が定まらなければ、現状と決別することはできません。全ての人間には誰にでも帰るべき家があります。それは、天のお父様である神様のいる家です。帰るべき家があり、そこではあのやさしいお父さんが待っているのです。魂の故郷である神のもとに帰ることです。そして、「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください。」(18〜19節)と告白することです。全ての人はこの万物の父である神様のもとから迷いでています。でも、お父様は、全ての人が、父のもとに帰って来ることを待っておられます。

2.待っている父
弟は、神なしの人生がどんなに空しいものであるか、お金や快楽の生活が、いったんはじけたら泡(バブル)のようなものであることに気がつきました。そして自分の人生の行き着く先が、死と滅び以外の何ものでもないことを知った時、彼は立ち上がったのです。古い生活に別れを告げて、帰るべき故郷を目指して歩き出しました。
「そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。」       (ルカ15:20〜24)

聖書をみますと、お父さんが先に息子を見つけました。そして、お父さんのほうから家から飛び出してきて、息子を抱き、接吻をしたのです。弟が、謝ろうと考えてきた言葉が口から出ないほどに、お父さんは息子を力強く抱きしめました。「もう良い、もう良い、何も言うな。分かっている。お前が帰って来ることは前から知っていたよ、わたしは長い間、その日が今か今かと窓からお前の帰るのを待っていたんだよ。」天のお父様は、このようにして私たちが、父なる神のもとに帰って来ることを一日千秋の思いで待っておられます。例外はありません。お一人お一人を、指折り数えながら、帰って来るのを待っておられるのです。

あるラジオ番組で、司会者のかたが、ゲストである東大の宗教学の山田教授に次のような質問をしておりました。「日本では毎年、3万人以上の自殺者があると統計上では言われていますが、自殺する人と自殺しない人とではどこが違うのでしょうか?」その時の山田先生の答えはこうでした。「人生に何かを期待して生きている人は、それが崩れた時に死を選んでしまう。そうではなく、自分が誰かに期待されている、自分を待っている家族がいる、やるべき仕事があるんだという視点に立つ時、人は死に直面していても生きてゆくことができます。」と。非常に意味深い言葉です。

このように、私たちの天のお父様も私たちの帰りを待っておられます。神様は絶対に帰って来るのを、拒まれるお方ではありません。日本人の父親でしたら、敷居をまたがせないと言うことがあるかもしれません。門前払いするか、財産を返せと言う親もいるかもしれません。でも、私たちの真の父である神様は、決してそういうことはおっしゃいません。今か今かと首を長くして、私たちの帰りを、待っていて下さるのです。

「親」という漢字は、「木の上に立って見る」と書くそうです。父なる神様は木の上に立って、毎日、毎日、私たちの帰りを待っておられます。いや、神様は自分の愛する独り子イエス・キリストを十字架に架けるほど、私たちを愛しておられます。わが子の十字架の死を通して私たちの罪を赦して下さっているのです。何も恐れる必要も、心配する必要もありません。立ち上がって、神様のところに一歩踏み出すことです。教会の屋根には、神様の愛と赦しのサインである十字架が、いつも高く掲げられています。それは、道を失った人間が、いつでも帰って来れるように、「私が待っている」という神様の愛と赦しのサインなのです。

3. もう一人の放蕩息子
最後にもう一人の息子の話が出ております。それはこの弟の兄です。兄は、弟と違って、悪いことをせず、父親に仕えて家を守ってきました。兄は父に向って「自分は何年も仕えて来たのに、何もしてくれない。なのに放蕩のあなたの息子が帰って来たら、大宴会を開いてお祝いしている。納得が行かない!」(15:29〜30)と怒り心頭です。兄は父親にまた自分の人生に何かを期待していたのです。それが崩れる時、自殺してしまいたいほどに父親に、自分の怒りをぶつけました。我慢し言いつけどおりに良い子として育った子に限って、人生が思うとおりに行かない時に、親への反発が復讐のように激しく燃え上がってしまうことがあります。兄の目はこの時、お父さんに向かわずに、あの弟に向っていました。弟が気になり、弟の方が自分よりも愛されていると妬みをもったのです。

お父さんは不満を言い、非難してくる兄に対して、忍耐強くなだめています。この「なだめる」という言葉は、「パラカレオー」というギリシャ語で、「慰め主」という意味にも使われます。「ごめんなさいお父さん、僕が悪かった。お父さんの愛が理解できなかった、一緒に家に入って弟をお祝いしよう」と言って、兄が家に入って来るのを父は待っておられるのです。弟に対しては「イエス・キリストの十字架に示された大きな愛」をもって待ってくださり、兄に対しては「聖霊様の慰めと励まし」をもって、忍耐強く家に帰って来るのを待っておられます。この「待っておられる父の愛」は、全ての人に向けて降り注がれております。私たちも、「我に返って」、立ち上がり、自分の罪を告白してお父様である神様の待っておられる家に向って、歩き出そうではありませんか。
                                       岡田 久

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