ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

熱心ゆえのつまずき (ローマ9:30~10:4)

メッセージ
2021/10/31
富里キリスト教会礼拝説教
「熱心ゆえのつまずき」
(ローマ書9:30〜10:4)

①義を求めなかった異邦人、義を追い求めたイスラエル
神様は陶器師、人間はその陶器師によって造られた陶器。そして、私たちは本来、神に造られた陶器でありながらも、そのことを認めようともせず、あたかも自分が陶器師であるかのような思い違いをした出来損ないのような器でした。しかし、そのような器を神様は失敗作だと怒りにまかせて割るようなことはせず、むしろ高価で尊いと、あふれんばかりの憐れみを注ぎ、私たちを憐れみの器として選び出してくださった。
先週のお話はそういった内容でしたが、それは一体どういことかというと、異邦人である私たちが憐れみの器として救われ、信仰による義が与えられたということでした。しかし、他方ではじめに神の民として選ばれていたイスラエルは頑なとされ、異邦人がキリストゆえに救われたのに対し、イスラエルはキリストゆえにつまづいてしまったのです。
義を求めなかった異邦人が神の憐れみゆえにキリストへの信仰による義を得、義の律法を追い求めていたイスラエルが自らキリストにつまずき、律法に到達できなかった。これだけ聞くと、なんかのほほんとしていた異邦人がいつのまにか救われ、必死でまじめに律法を守っていたユダヤ人が日の目をみなかった。ウサギとカメ、アリとキリギリスの逆転現象に見えてしまうかもしれません。一生懸命働いていたアリが報われず、遊んでいたキリギリスがそのままいい思いを?そんなばかな?いったいなぜ?真面目を美徳とする日本人からすると全くもって納得できないことかもしれません。道徳の話で言えば、その反論も疑問もよくわかる話です。
しかし、聖書は倫理、道徳的な面もありますが、道徳そのものではありあません。これは霊的な話なのです。私たちは一体何を頼りとして、一体何を誇りとして生きていくのかという話なのです。異邦人。これらの者は律法の義を追い求めたりもせず、別に正しい人を目指したりもしていませんでした。何も自分自身の中で誇るものはなかったのです。しかし、それゆえに彼らは自分たちの罪を素直に認め神の憐れみであるキリストの十字架を受け入れ、ただただその恵みを喜びました。そして、自分を誇るのではなく、自分の罪を恥じ、その恥ずべき私を救い出してくださったキリストを誇るのです。福音を恥としないその彼らにこそ、キリストの義が与えられたのです。
他方、イスラエル。彼らは一生懸命律法を守り、自分の正しい行いを誇りました。しかし、律法を完全に守れる人を目指し、高みへといこうとすればするほど、自らを誇り、傲慢な者となっていきます。それは逆にどんどん義からは離れていってしまうことを意味します。皮肉にも自分から義を掴み取ろうとすると、かえって失ってしまうのです。自分は正しいという自負とともに、律法を守れない者に対する蔑み、差別が生まれてしまうからです。それゆえイスラエルは罪人と共にあり、赦し、憐れむイエスを認めず、憎み、とうとう十字架に張り付けてしまいました。自分の行いによる正しさを求めたゆえに彼らは、つまづきの石であるキリストにつまずいたのでした。

ローマ9:32
「なぜですか。イスラエルは信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、考えたからです。彼らはつまずきの石につまずいたのです。」

このイスラエルの最大の問題は、神の愛というものを大きく勘違いしていたところにあると思います。それは、神さまはいい行いをすると愛してくれるという勘違いです。人間的な愛のレベルで神様の愛を理解していたのです。人は、自分のことを愛してくれないと相手を中々愛せないものです。自分を褒め、受け入れ、肯定し、喜ばしてくれるからこそ愛せるわけで、何も与えてくれない存在への愛情を保つということは、欠けのある小さな人間の愛ではとても難しいものがあるでしょう。
私が愛さないと愛されない。こんなにやったのだから愛されるに違いない。行いによって愛をはかる価値観がそこにはありました。そんな彼らは、行いができた私は神様に愛されていると高ぶり、他方で、行いができていないあいつは神から愛されていないと、見くだし、裁く者となっていったのです。
しかし、神の愛は無条件です。人間の愛をはるかにこえたぶっちぎりの愛です。何もできないこの自分を、いやなにもできないどころか罪に汚れまくっていたこの私を、ただただ赦し、憐れみ、愛してくれた。この愛を知り、この愛を受け入れてはじめて、正しくない者が義とされる。これが福音です。しかし、必死で立派になって、神の愛を勝ち取ろうとしていたイスラエルからすると、そんなバカな話あるか!!このようになってしまうのです。真面目な努力家であればあるほど受け入れがたいことなのかもしれません。しかし、これが真理です。

②熱心は時に狂気
イスラエルは完全で無条件な神の愛、アガペの愛を理解することができませんでした。でも、決して彼らが悪人であるとか、怠惰な人間であるとはいえません。パリサイ人もある意味、立派な宗教者です。彼らは熱心に神に仕えていたとパウロも語ります。

ローマ10:2−3
「わたしは彼らが熱心に神に仕えていることを証しますが、この熱心さは、正しい認識に基づくものではありません。なぜなら、神の義を知らず、自分の義を求めようとして、神の義に従わなかったからです。」

一生懸命、真面目、熱心。これらは悪いことではありません。むしろ、良い意味合いとして私たちは捉えています。問題は、その熱心さが正しい認識によるものではなかったというところにあるのだとパウロは語ります。熱心はいいのだが、その対象がどこにあるのかが明暗をわけるのだということです。
イスラエルは神の義ではなく、自分の義で生きようとしました。神の義は信仰、自分の義は行いと言い換えることができるでしょう。信仰ではなく行いに熱心だったということです。どちらに熱心であるかによって生き方が実はまるで変わってしまいます。信仰によって生きようとした者は、「私は神様から愛されている。この信頼の中で神と隣人を愛して生きていこう。」となっていきます。しかし行いによって生きようとする者は「神さまに愛されるために、熱心に行っていかなればならない。」となってしまいます。実はこの後者のマインドに私たちはクリスチャンでありながらも、いつの間にか、なってしまうことがあります。
例えば教会の奉仕で一つ例をあげてみるとしましょう。私たちの教会には今はありませんが、聖歌隊があったとします。行いに生きる者は、そこで奉仕をする中で、一生懸命取り組みます。神様に愛されるために、よりよいものを。もっともっと。テンポもリズムも音程も完璧に。そのためには練習あるのみ。しかし、その熱意に精神的にも技術的にもついてこれない人に対して、「もっと真剣にやれよ!!」と苛立ってしまう。そしてできなければ出て行けと追い出してしまう。熱心がまさに裏目に出てしまうパターンです。
他方、神の義、信仰に生きる者もそこで奉仕をすることになれば、一生懸命取り組むことでしょう。こんな私を愛し、救い出してくださった神様を賛美することができるなんて、なんという喜びだろうか。この場にいることに感謝します。その思いは周りを巻き込んでいきます。そのようなものの姿から、温度差があった者も引き上げられていきます。
あくまで、たとえなのでこのようにわかりやすく結果として出るかと言えば、一概には言えませんが、同じことをやったとしても、熱意の量が同じだとしても、神の愛を勝ち取るために行うのか、神の愛への自然な応答としての表現なのかによってその結果は大きく変わってしまうことは明らかであると言えるでしょう。大切なのは何をなすのかではなく、どういう思いでするのか、なのです。
熱心であるということは悪いことではありませんが、時にその熱心ゆえに人を傷つけ、その自分の熱量を人と比べ、同じでなければ見下し、さばいてしまうことがあります。そして、それはエスカレートすれば暴力まで生まれる危険性がそこにはあります。イスラム教の人たちなどは基本的にとても穏やかな人たちばかりですが、原理主義者の人たちは熱心が過激となり、自分たち以外の考え方以外の者を排除する暴力性に満ちたものとなってしまいました。
当時のユダヤ教というものもそこまでとは言わなくとも、似たところがありました。パウロなどはまさにそのような暴力性の伴った熱心さの中で最初は生きていました。パウロは自分の過去を振り返った時、熱心という言葉を用いますが、そのニュアンスには良いイメージは感じられません。むしろ暴力性の伴ったネガティブな印象を受けます。

ガラテヤ1:13−14
「あなた方は私がかつてユダヤ教徒としてどのように振る舞っていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。」

他方でパウロは、教会の人に熱心であれとも勧めています。しかし、その熱心さが向かう方向はあくまでキリストです。自分が何かを行い認めてもらおうとする熱心ではなく、すでに自分を認めてくれたお方の愛をどこまでも知りたいという欲求、聖霊をこよなく求める熱心です。

Ⅰコリント14:1
「愛を求めなさい。霊的な賜物、特に預言をするための賜物を熱心に求めなさい。」

私たちが熱心にあるべきことはただただ、この救われるにふさわしくないこの私を無条件で憐れみ、救い出してくださった完全で計り知れない、とてつもなく大きなこの神の愛を受け取ることのみなのです。いつも十字架を仰いでいくのみなのです。

③キリストは律法の目標、完成、終わり
ローマ10:4
「キリストは律法の目標であります、信じる者すべてに義をもたらすために。」

私たちが神や人に愛されるため、認められるため、なにか見返りを求めるように自分の義を求めること、つまり律法である行いに熱心であった時、私たちは互いをさばき、傷つけあってしまう危険がそこにはあります。実際、イスラム原理主義者や、当時のユダヤ教徒を私たちは笑うことはできません。かつての教会も歴史の中でそのような過ちをおかしたことがありあますし、現代の教会においても常にその危険性は潜んでいます。じぶんの正しさを認めさせようと求めた時、そこには分断が生まれます。自分の考えや熱量が同じでないものを排除し、差別をしてしまいます。他者を寄せ付けないのです。そこではもう、真面目でしっかりした人しか生きていけなくなってしまいます。
しかし、神の義を求める、つまり私はキリストの義にあずかって生きていくことしかできないという信仰に立っていく時、私たちは何かをすることによる報酬を熱心に願うのではなく、すでに与えてくださったこの神の愛を、もっと深く知りたい、この神の愛に留まり続けたいと熱心に願う者となるのです。そのキリストの愛と平和の絆で結ばれた神の民の群れは、分断を平和へと、差別を平等へと、高慢を謙遜へと聖霊によって変えられていくことでしょう。
そして、正しくなかった者が、キリストの血潮によってきよめられ少しずつ愛の応答として、喜びの中で律法を行えるようになっていくのです。しかし、私たちは自分を決して誇りません。そのようにしてくださったキリストを誇るのみです。これが神に栄光を帰すということなのです。
キリストは律法の目標であるとパウロは語りました。この目標という言葉は完成、終わりという意味合いもあります。イエス・キリストが私たちのためにこの地に降られ、律法の目標を達成されました。キリストが十字架上でその義を貫かれたゆえにです。こうして私たちを救いへと導くための律法は完成されたのです。そして、それは私たちが律法を守らなければ呪われ、滅ぼされるという束縛された奴隷状態の終止符をも意味します。
それはひとえに私たちに義をもたらして救い出すための神の愛のみわざです。その神の愛とはなにかしないと与えられないようなものではありません。神様からの一方的で無条件の完全な愛です。神に愛されていない人間など一人もいないのです。例外はありません。しかし、残念ながら何かしないと神様から愛されないと思っている人たちがたくさんいます。それはクリスチャンも例外ではありません。
そうではない、と伝えるために主イエスキリストはこの地に来られました。私たちは自分たちの行いゆえにではなく、このキリストの真実、このキリストへの信仰ゆえに救われたのです。すでに私たちは神に愛されているのです。この愛を受け取るだけです。この福音に私たちはいつも忘れずに立っていきたいと熱心に願いますし、この福音をすべての者に届けていきたいと心から切に願います。

武井誠司

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional