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炉の中の神 (ダニエル3:13~29)

メッセージ

2016年11月13日富里キリスト教会

「炉の中の神」
(ダニエル書3:13~29)

1.偶像礼拝の命令

さて今朝もダニエル書から、神様のメッセージを聞き取って行きたいと思います。バビロンのネブカドネツアル王は、ある時、バビロン州のドラの平野に60アンマ(27メートル)もある金の像を造りました。そして諸州の高官たちを招集して除幕式を行いました。おそらくこの像は、表面を金箔で覆ったものと思われますが、王が礼拝している神の像ではなかったかと言われています。その除幕式の際に、いろんな楽器の音が聞こえたならば、参列した高官たちは、この金の像に向かってひれ伏して拝むようにと命ぜられました。もし拝まないならば、その者は直ちに燃えさかる炉に投げ込まれるものとすると言う御触れも出しました。

ところがそこに、あのエルサレムから捕囚となって来ていて、王の側近として取り立てられて仕えていた三人のユダヤ人がいました。それは、シャドラクと呼ばれていたハナンヤ、メシャクと呼ばれていたミシャエル、そしてアベド・ネゴと呼ばれていたアザルヤの三人でした。そこには、どういうわけかダニエルは居ませんでした。この三人のイスラエルの若者は、金で造った偶像などには礼拝するはずがありません。

それを聞いた王は、三人を引き出して、再度その事実を確かめました。そして今からでも、心を入れ替えてこの像を拝むのであれば赦そうとさえ言いました。ついこの間、自分の夢を解いてもらって、イスラエルの神の偉大さを見せつけられたにもかかわらず、王は、未だに自分の手で自分の神を造る、つまり偶像礼拝という明らかな罪を犯していました。それでも、自分が養成して育てたユダヤ人の部下には一目を置いていましたので、今からでも遅くはない、もし拝む気持ちがあるならば赦そうと考えていました。(3:14~15)

2.たとえそうでなくとも

この王の命令に対して、三人の信仰者ははっきりと断りました。「この定めにつきまして、お答えする必要はございません。わたしたちのお仕えする神は、その燃え盛る炉や王様の手からわたしたちを救うことができますし、必ず救ってくださいます。そうでなくとも、ご承知ください。わたしたちは王様の神々に仕えることも、お建てになった金の像を拝むことも、決していたしません。」
(3:16~18)と。

これは彼らの信仰告白です。たとえ王の命令と言えども、偶像を拝むことはしませんときっぱりと断っています。しかも王様直々の尋問に対しまして、答える必要もないと言っています。拝まないならば、燃える炉の中に投げ込んで火刑にすると脅しても、その脅しにさえ答える必要もないと断言しています。つまり人は、たとえ王であろうが大臣であろうが、何を信じているのかを訊問される必然性はないと言うことです。信仰は本人の自由であり、国家権力であろうが王であろうが、自分の信仰についてとやかく言われる必要のないものだと断言しています。まさに信教の自由です。

たとえ命令違反の罪に問われて、火の中に投げ込まれましても、自分たちの神は、そこから自分たちを救ってくださるお方だと宣言しています。必ず救って下さるお方だと断言しています。この確信は、たとえ自分たちが願っているようにならなくても、救いを最終的には成し遂げて下さるお方だという強い確信に基づいています。人からとやかく言われるものではないと言うことです。

また、たとえ自分たちの願っているような結果にならなくても、それでも自分たちは自分たちの神を信じていますので、決して偶像を拝むと言うことはしないと言っています。18節に「たとえそうでなくても」と言う言葉が入っています。自分の願いどおりにならなくても、それでも私は自分の神のみを信じます、偶像は拝みませんと言う決断です。ですから真の信仰から来る確信というものは、自分が救われたら信じようとか、自分が助かったら助けてくれた神を信じようと言うのではないのです。自分の願いどおりにならなくても、それでも私はわたしの神を信じますと言うのが、信仰の本質であり核心ではないでしょうか。

それはどこから来るのでしょうか。それは神の約束の御言葉を信じるという、御言葉に対する確信から来るのではないかと思います。たとえ現実に願ったことがかなえられなくても、それでも私は主の言葉に希望をおいて信じて行きますと言うことです。神様を、自分の願望や自分の条件や自分の尺度で限定するのではありません。それは裏を返せば偶像礼拝と同じことではないでしょうか。自分の願望や願いが、いつの間にか偶像になってしまう危険性があります。

大切なことは、願いがかなうことも大事ですが、たとえどんな結果になろうが、どんな状態になろうが、主が共にいて下さると言うことを信じることです。願いがかなうことよりも、神様のみそば近くにいると言うことが、一番の幸せなことではないかと思うのです。詩篇にこういう御言葉があります。「わたしは、神に近くにあることを幸いとし、主なる神に避けどころを置く。」(口語訳)「しかし私にとっては、神の近くにいることが幸せなのです。」(新改訳)(詩編73:28)と言う御言葉です。願いがかなうことよりも、神のそば近く、神の近くにいることが自分にとっては、最高の幸せだというのです。ここに「たとえそうでなくても」の信仰があります。たとえそうならなくても、わたしは主と共にいることを信じ、そのことを幸いなこととして喜び、主に感謝を捧げますと歌っています。まさに「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。」(ヘブライ11:1)

3.炉の中まで来られる神

そのような御言葉に対する堅い信仰を持った三人のイスラエルの若者は、王の怒りを買って燃え盛る火の中へと投げ込まれました。「王の命令は厳しく、炉は激しく燃え上がっていたので、噴き出る炎はシャドラク、メシャク、アベド・ネゴを引いて行った男たちをさえ焼き殺した。シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの三人は縛られたまま燃え盛る炉の中に落ち込んで行った。まもなく王は驚きの色を見せ、急に立ち上がり、側近たちに尋ねた。『あの三人は、縛ったまま炉に投げ込んだはずではなかったか。』彼らは答えた。『王様、その通りでございます。』王は言った。『だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神のような姿をしている。』」(3:22~25)

金の像を拝むことを拒否した三人に対して、王の怒りは頂点に達し、いつもの火力よりも、七倍も熱くしました。三人を縛って炉のそばまで曳いて行った人をさえ、焼き尽くしてしまいました。そばに近づくだけで、焼かれてしまう火力です。そして三人もまた、手足を縛られて炉の中に投げ込まれました。おそらく一瞬にして燃え尽きてしまい、骨さえも跡形もなく燃やし尽くしてしまうのではないかと思われました。

ところが炉の中をよく見てみますと、手足を縛ったまま投げ入れたはずの三人が、炉の赤々と燃えている炎の中を歩いているではありませんか。しかも自由に歩き回っているというのです。更に、王の目にはもう一人の人が一緒にいるのが見えました。何と四人の人が一緒に、炎の中を自由に歩き回っているというのです。しかも、その四人目の人は王の目からは、神の子のような姿をしているように見えました。

この四人目の人物は誰かと言うことでいろいろと議論がされていますが、ある人は天使ではないかと、またある人はダニエルが来たのではないかと、またある人はイエス・キリストではないかとみる方もいます。わたしも、神の子ですから、やはりここは素直に、キリストが彼らと一緒にいて下さったと取った方がいいのではないかと思います。

人生いろんなことがあります。すべて順風満帆と言うわけではありません。時には失敗したり、つまずいたり、しくじったりすることもあります。時には地獄を見るような時もあるのではないでしょうか。自分ではどうすることもできない、手足を縛られて地獄の炎の中に突き落とされるような経験をすることもあるかもしれません。この三人の若者のようにです。

でもイエス・キリストはその火炎地獄の炎の中までも来て下さったのです。わたしたちが落ちて行って死を覚悟せざるを得ないような、地獄の底までも主は共に下って来てくださるお方なのです。それがこの釜の中の、神の姿ではないでしょうか。四人が歩いているのが見えたと王は言いました。彼らを縛っていた縄は完全に焼かれて、彼らは自由にされ釜の中を歩いているのです。

これはイエス・キリストは、この地獄の炎の中までも来て下さって、わたしたちを縛っている罪の縄目を解いて下さったと言うことです。彼ら三人の信仰者は、髪の毛さえも焼かれないで、平気であの日の中を悠々と歩いているのです。つまりイエス・キリストは、わたしたちの人生のどん底までも、降りて来て下さって、そこでわたしたちを守り支えて下さるお方だと言うことです。地獄の炎は、主が共にいますゆえ、縛っていた縄目を解き、自分たちを引いて来た男たちを焼き尽くしました。彼らは何の害も受けなかったのです。主は落とされた私たちのすぐそばまで来て下さるお方です。そして、その場でわたしたちを守り支えて下さるお方です。

イザヤ書43:1~3にこういう御言葉があります。「恐れるな、わたしはあなたを贖う。あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も、わたしはあなたと共にいる。大河の中を通っても、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。わたしは主、あなたの神。イスラエルの聖なる神、あなたの救い主。」と。ダニエルの著者は、おそらくこの詩編の御言葉を思い描きながら描いたのではないでしょうか。

3.髪の毛さえ守られる主

しかも、後で炉の中から生還した彼らを調べた人の報告を聞くと、来ていた服もそのままで、火のにおいすらしませんでした。27節にこうあります。「総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。」(3:27)とあります。髪の毛も焦げてはいませんでした。体の他の部分も、どこにも火傷をした形跡は見られませんでした。害を受けたのは彼らを縛っていた縄でした。彼らを束縛していた、縄だけが一瞬のうちに燃え尽きたのです。彼らを引いてきた役人たちの方が、火で焼かれてしまいました。殉教者に対しては、燃え盛る炎は何の害も与えませんでした。

燃えさかる炎は、彼ら三人の信仰者に対しては無力でした。彼らの髪の毛一本さえ損なわれなかったとあります。イエス様もこう言っています。「恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている。それどころか、あなたがたの髪の毛まで一本残らず数えられている。」(ルカ12:7)と。彼らの髪の毛一本も焦げていなかったのです。

このように神様は、わたしたちの身体も衣服も髪の毛さえも一本も損なわれることを許しません。害を受けたのは、手足を縛っていた縄だけでした。後はそっくりそのままにして生還させたのです。これがわたしたちの信じている神様です。神様はわたしたちのそばまで来て下さるだけでなく、わたしたちの髪の毛一本さえ、焦げることを許しませんでした。わたしたちの体が損なわれることも、絶対に許されませんでした。「火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。」(3:27)とあります。

これがわたしたちが信じ、お仕えしている神様です。今日もこうしてみ前に出て、礼拝をしているわれらの主なのです。信仰と言うことは自分の状態いかんによって決まるのではなく、神様の側で決断して下さったことなのです。ですから、たとえ自分が火に焼かれようが、水攻めを受けようが、すべてを主に委ねて、燃えさかる炎の中に投げ込まれるままになすと言うことではないでしょうか。主に委ねることです。救いの根拠は神様の側にあるのです。なぜ、どうしてと疑う必要はありません。

イエス・キリストは、自ら肉体を取ってこの世に来て下さり、十字架に架けられ、わたしたちが負うべき罪の罰を身代わりになって受けて下さいました。そしてわたしたちの代わりに、わたしたちが行くべき黄泉の世界まで下って行かれたのです。黄泉の世界はまさに火炎地獄です。熱くて、熱くて死にそうなところです。そこまで主は来て下さったのです。それがあの四人目の人物だったのではないでしょうか。まるで神の子のようだったと、王が言っているように、神の子は、地獄の炎の中まで来て下さって、わたしたちと共に歩んでくださるお方なのです。そして一切の害からわたしたちを守ってくださいます。そしてわたしたちを、完全にして甦らせて下さるお方です。それが「たとえそうでなくても」と言う信仰ではないでしょうか。この信仰を持って祈って行きましょう。                          

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