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灰の中から (ヨブ2:1~13)

メッセージ
2017年10月1日富里キリスト教会

「灰の中から」
(ヨブ記2:1~13)

1.神とサタンの戦い

A) サタンの第1の攻撃

読んでみましょう。「ウズの地にヨブという人がいた。無垢な正しい人で、神を恐れ、悪を避けて生きていた。7人の息子と3人の娘を持ち、羊7千匹、ラクダ3千頭、牛5百くびき、雌ろば5百頭の財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった。」(ヨブ1:1~3)とあります。ウズの地と言いますのは、イスラエルの東部のアラビア砂漠に近い地方ではないかと言われています。イスラエルから遠く東の方に離れた砂漠地方のようです。ヨブは、そこでたくさんの家畜を所有していた東国一番の大富豪でした。

彼には息子が7人、娘が3人いて、信仰深く、息子たちのために罪の贖いのいけにえをささげて祈っていました。家族の救いのためにも祈っていたのです。ところが、ある日、家畜が強盗に奪われてしまいました。今で言うイスラム国のような武装集団によって、襲撃されたのでしょうか。また天からの神の火が降ってきたとありますから、隕石の落下によって被害を受けたのでしょうか。一瞬にして彼は、全財産を失いました。更に、竜巻のような大風によって家がつぶされ、10人の息子と娘が家の下敷きになって死んでしまったのです。(1:14~19)まさに青天の霹靂です。彼は、一瞬にして自分の財産と子供たちを失ってしまったのです。聖書の中でこのヨブほど不幸な人生を味わった人間はいません。

ところが聖書は、この一人の信仰深い人の突然の災難の背後には、神とサタンのやり取りがあったと言うことを記しています。サタンはヨブが信仰を持って神を敬っているのは、神が守って祝福を与えていて下さるからだと言ってヨブを不幸にするよう、神を唆します。「ヨブが、利益もないのに神を敬うでしょうか。あなたは彼とその一族、全財産を守っておられるではありませんか。彼の手の業をすべて祝福なさいます。お蔭で、彼の家畜はその地にあふれるほどです。ひとつこの辺で、御手を伸ばして彼の全財産に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」(ヨブ1:9~11)

サタンはこのようにして、神様を唆してヨブに災難を与える許可を得ました。
ですからわたしたちクリスチャンの人生でのいろんな試練や患難は、神とサタンのやり取りがあると言うことも覚えておく必要があります。神はヨブを信頼して、彼の信仰は大丈夫だ、どんなことが起こっても揺るぐことはないと信じていました。でもサタンは「あなたが生活を祝福し守っているからですよ、それが外れたら彼はすぐにあなたを呪いますよ。」と言ったのです。

神様は、信じる者を一人一人信頼しておられるのです。神はわたし達が信仰を捨てたり、神を呪ったりはしないと信じているような気がします。でもサタンは実に狡猾です。その神の自信を逆手にとって、ヨブへの攻撃を認めさせました。サタンは神をさえ疑わせ、動揺させ、唆すのです。2:3bに神はこう言っています。「お前は理由もなく、わたしを唆して彼を破滅させようとしたが、彼はどこまでも無垢だ。」と。

その結果、ヨブは一瞬にして全財産を失いました。それでも21節で、「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」(1:21)と言って、神を非難せず、罪を犯しませんでした。この第1回目の患難の時は、神が信頼していた通りに、ヨブはみ言葉をもってサタンの攻撃を退けました。これはサムエルの母ハンナの祈りの中にも同じような言葉があります。「主は命を断ち、また命を与え、黄泉に下し、また引き上げて下さる。」(サムエル記上2:6~7)ヨブもハンナと同じような信仰を持って、この試練と戦ったのです。

B) サタンの第2の攻撃

それでもサタンは引き下がりませんでした。第2の攻撃を仕掛けて来ました。そして更に、こう言いました。「皮には皮を、と申します。まして命のためには全財産を差し出すものです。手を伸ばして彼の骨と肉に触れてごらんなさい。面と向かってあなたを呪うに違いありません。」(2:4~5)と。皮と言いますのは、自分の体の外側のことです。命には直接関係ない場所ですから、人間はそれに耐えることができるのではないですか。これがもし自分の骨と肉という自分の体と命にかかわることでしたら、きっと神を呪うにちがいないと言いました。ここでも残念ながら神様は、サタンの策略に誘われて、「じゃあ、命以外の体の部分を撃っても良い」と言いました。

そこで、サタンは早速にヨブに手を下し、ヨブを皮膚病にかからせました。何という病気か解りませんが、頭の上から足の裏まで腫物で覆われる病気です。しかも「陶器で体をかきむしる」とありますから、痒さも相当のものだったのではないでしょうか。彼は灰の中に座って、一日中体をかきむしっていたのです。ある人に言わせますと、これはらい病の一種ではないかと言われています。またある注解書では、これはエジプトから来た象皮病ではないかとも書いてありました。

皮膚が黒くなって剥げ落ち、不眠と高熱が続いて、骨が燃えるように感じられ体がかゆくなり、顔つきも変わって来ると言われています。しかも人に感染するのを恐れて、街中に住むことを許されず、町はずれの焼却場に追いやられました。そこで、自分の不幸を嘆き悲しみながら、身体に焼却場の灰を振りかけて過ごさねばなりませんでした。そして、そこで遊んでいる子供にすら馬鹿にされ、野良犬さえその姿を見て寄って来ませんでした。

そして、一番ヨブの良き理解者であり協力者であったはずの妻でさえ、彼の憐れな姿を見て絶句してしまいました。ヨブの妻は、財産や家族を失ったところまでは何とか苦難を乗り越えてきましたが、このヨブの変わり果てた腫物だらけの姿を見て、我慢の限界に達したのでしょうか。恐ろしい言葉が、彼女の口を突いて出てしまいました。「どこまで無垢でいるのですか。神を呪って死ぬ方がましでしょう。」(2:9)と。

妻の気持ちもわかるような気がします。いくら信仰があるからと言って、ここまで人生を壊されたら、誰でも文句の一つは出ます。出ない方がおかしいと言ってもいいのではないでしょうか。皆さんでしたらどうされるでしょうか。実際、神を信じている人の中で、このような人生の突然の不条理と艱難に出会って、信仰も心もおれてしまう人も少なくないのではないでしょうか。

でもヨブは、その時でも言葉を持って神に対して罪を犯すことはありませんでした。彼は、怒り狂う妻を宥めてこう言いました。「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と。これはパウロの信仰にも相通じるような気がします。「あなた方には、キリストを信じることだけではなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」(フィリピ1:29)「そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。それだけではなく艱難をも喜んでいる。」(ローマ5:2~3)と。

信仰は、幸福なことばかりではなく、時として不幸なことや患難も迫って来ることがあります。しかし、それをもキリストの故に喜んで受けることができるのですとパウロは言っています。これは少し語弊があるかもしれませんが、わたし達の生活の中であるいは人生の中で出会ういろんな悲しみや不幸や患難には、すべて意味があると言うことではないでしょうか。つまり、意味のない苦しみはないと言うことです。理由のない艱難はないと言うことです。

サタンは、「あんなクリスチャンなんか、ちょっとした事故や倒産や家族の死があったら、すぐに転んでいまいますよ、いつでも簡単に信仰を捨ててしまいますよ。」と神に戦いを挑んでいるような気がしてなりません。神に挑戦状をたたきつけているのです。そのサタンの唆しには神様も乗せられてしまいました。「大丈夫だ。わたしの子供はどんな試練があっても決して信頼を無くしはしない。わたしを裏切ることも背を向けることもない。どこまでも忠実な僕であり続ける。」と神は断言します。この神とサタンの戦いの場が、わたしたちの日々の生活ではないでしょうか。サタンは何とかして、この世の安全と支えを取り外すことによって、わたし達の信仰を揺さぶり、神から離そうとやっきになっています。それがサタンの戦略です。

イエス様でさえそうでした。いきなり荒れ野でサタンの攻撃に会いました。「石をパンに変えてみろ」とか、「飛び降りてみよ」とか、「俺に黙って従えばこの世界の栄華を与える」とか、いろんな誘惑をしました。しかし、神の子イエスは御言葉をもって、サタンの誘惑を撃退しました。「人はパンで生きるのではなく、神の口から出る御言葉で生きるのだ。」と言ってその攻撃を退けられました。

そして忠実な神の僕、ヨブもまた、御言葉をもってサタンの攻撃を退けました。「わたし達は、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」(2:10)と言って、神に対して唇を持って罪を犯すことはありませんでした。ヨブはどんなに落ちぶれても、人々から嫌われても、神から見捨てられたような状況に陥っても、罪を犯すことはありませんでした。ヨブの勝利です。彼の忠実な信仰が証明されました。

ここでヨブ記は終わってしまってもいいはずでした。ところが実は、ここまでがヨブ記の序論です。これからが本論が始まって行くのです。ヨブは言葉を持って、唇をもって神に対して罪を犯すことはありませんでした。正しい答えをしました。さすが義人ヨブだと、誰もが認めたに違いありません。でも、実はこの正しい答えをしたその時から、彼の苦しみが始まったのです。

「答えは正解で合っている、自分は正しい答えをした。信仰を捨てることはなかった。でもこの状況を神様、あなたはどうご覧になっているのですか。どうして信仰を持った人間がこんなにまで苦しみに会わなければならいのでしょうか。一体神を信じるとはどういうことですか?あなたは本当におられるのですか。なぜこの世にこのような不条理が存在するのですか?」と神に向かってのヨブの命懸けの問いが、ここから始まって行くのです。次の3章からがヨブ記の本文です。

2.灰の中からの叫び

つまり、ヨブは、自分の身に起きた突然の不幸によって、町はずれのゴミや動物の死体を焼く焼却場に行って、その灰の中で悩み苦しんでいました。当時の人々は、苦しみや悲しみを表すために、灰をかぶったと言われています。更にその嘆きが激しく大きくなりますと、灰を食べるようまでになると言われています。詩篇の中に「すべてを喪失した者の祈り」というものがありますので、見てみましょう。

「わたしの生涯は煙となって消え去る。骨は炉のように焼ける。打ちひしがれた心は、草のように乾く。わたしはパンを食べることすら忘れた。骨は肉にすがりつき、荒れ野のみみずく、廃墟のふくろうのようになった。屋根の上にひとりでいる鳥のように、わたしは目覚めている。
敵は絶えることなくわたしを辱め、嘲る者はわたしによって誓う。わたしはパンに代えて灰を食べ、飲み物に涙を混ぜた。あなたは怒り、憤り、わたしを持ち上げて投げ出された。わたしの生涯は移ろう影、草のように枯れて行く。
・・・主は全てを喪失した者の祈りを顧み、その祈りを侮られません。」
                    (詩編102:4~12、18)

皆さんは灰から何を連想するでしょうか。人間の行き着く先です。死んで塵灰に帰ると言われている通りに、わたし達の死を意味しています。灰の中に座ると言うことは、その人がもはや無価値なもの、死にも値するものであると言うことを意味します。もはや死のみが自分にふさわしい、自分は自分の罪によって死んだと言うことを意味しています。ですから、灰をかぶると言うことは、私は死んでしまった、悲しみのどん底だということです。

わたしは、人生におけるこのような苦難や不幸というものは、わたし達が神に対して声をあげるための呼び水ではないか思います。神と向き合う人生、たとえ苦難の連続であっても、いやむしろ苦難が多ければ多いほど、苦難を通してこそ、わたし達は神に向かって叫ぶのではないでしょうか。「なぜですか?」「どうしてですか?」その人生をかけた真剣な神への叫び声、問いかけがわたしは信仰ではないかという気がします。そのことをヨブ記は教えているような気がしてなりません。

後で登場してまいりますヨブの第4の友人、エリフの言葉の中にこういう言葉があります。「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いて下さる。」(ヨブ36:15)またこうも言っています。「苦難を経なければ、どんなに叫んでも、力を尽くしても、それは役に立たない。」(ヨブ36:19)
人生には苦難が必要なのです。わたし達は苦難を通して、初めて神の御言葉の真実に気づくのではないでしょうか。「苦しみに会ったことは、わたしに良い事です。これによってわたしはあなたの掟を学ぶことができました。」(詩編119:71口語訳)「わたしを苦しめられたのは、あなたのまことのゆえです。」(詩編119:75)

苦しみには皆、意味があるのです。その背後には神様がおられるのです。そしてその苦しみの中から、わたし達が真剣に神に呼び求めることを神様は願っておられるのです。神御自身を求める祈りです。神御自身を真に知るための祈りです。そのことなしには、わたし達の信仰も祈りも本物になって行かないのではないでしょうか。自分の限界を知った者、自分の無力を知った者、自分の罪を知った者、そこに至るまで、時間がかかるかもしれませんが、そのプロセスが信仰生活です。そして苦しみを通して、灰をかぶって罪を心から悔い改めた者の祈りを主は待っておられるような気がします。   

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