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泣き叫ぶモーセ (出エジプト記1:15~2:10)

メッセージ

2011年8月21日富里キリスト教会
「泣き叫ぶモーセ」
(出エジプト記1:15~2:10)
1.神を畏れ、神に従った女たち

エジプトの国に移住したヤコブ・イスラエルの家族は、最初はたった70人でしたが、今やエジプト全土に広がるほどの大人数になりました。イスラエルが移住してきてからエジプトを脱出するまで、430年間住んでいましたが、最後にエジプトを脱出した人数は、成人男子だけで60万といわれています。(12:37~42)これに女性や子供も合わせると、実際はこの4,5倍以上になるのではないかと思います。

ところが、430年の間にはヨセフを知らない王が立ちました。そしてまた、外国人が国内に増えてきますと、王や支配者たちは不安を感じ始めます。敵国と内通していないか、反乱を起こさないかという疑心暗鬼が起こって来ます。
この出エジプト記の冒頭部分は、神の民イスラエルに対して権力者がその支配力を行使し、神の民を亡きものにしようとするサタン的な働きが強調されている場面です。その時に、王の権力に対して公然と立ち上がって戦ったのが、女性たちでした。二人の助産婦シフラとプア、モーセの母、姉のミリアム、ファラオの王女、乳母と登場人物がすべて女性です。

やがて、イスラエルの勢いが強くなってゆくのを見かねた王は、二人の助産婦に、男の子ならばその場で殺してしまうようにと命じました。ところが、この二人の助産婦は「神を畏れる人」(1:17)だったので、イスラエルの赤子を手にかけることをしませんでした。男の子であっても生かしておきました。そして王様が、どうして殺さないのかと問い詰めると、彼女たちはこう答えました。「ヘブライの女はお産の時には、すぐに産んでしまうので、私たち助産婦が行く前にもう産んでしまっているのです。」と。実際、ヘブライ人の女性は丈夫で、すぐ出産してしまうことが多かったらしいです。

とりわけ、この信心深い二人の助産婦は、シフラ(=美しい)とプア(=輝き)はその名前も聖書に残されている通り、エジプト人でありながらすでに神を畏れる信仰を持っておりました。この二人の女性は、今日でいうならば、エジプト全土の新生児の出生を統括するような立場にある者でした。その女性たちが、王の命令に背いたのです。もしそのことがばれると、彼女たちはただではすみません。死刑になったかもしれません。でも彼女たちは、自分の務めも立場も、そして命さえ落とすようなことがあっても、神を畏れるが故に神に従う道を選んだのです。実に、男性よりも勇気のある行動をとりました。神様はこの神を畏れ敬う二人の助産婦に、豊かな祝福を与えてくださいました。(1:20~21)

3.パピルスの籠

どうして、王は男の子だけを殺そうとしたのかと申しますと、ヘブライ人に男子がいなくなれば、ヘブライの女性は必然的にエジプト人の男性と結婚します。そのことによって、イスラエルの宗教、ヤハウェの神、アブラハム、イサク、ヤコブの神をエジプトの神に変えてしまうことができるからです。王の狙いは、民族もろともイスラエルの神を、雑婚によって消滅、抹殺したかったのです。
王は助産婦を使った方法が失敗すると、今度は、別な手を使いました。それは、生まれた後からでも、男の子は一人残らずナイル川に放り込んで殺せと言う恐ろしい命令でした。

さて、1:22から聖書を読んでみましょう。「ファラオは全国民に命じた。『生まれた男の子は、一人残らずナイル川に放り込め。女の子は皆、生かしておけ。』レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。彼女は身ごもり、男の子を生んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠しておいた。しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦の茂みの間に置いた。」
                    (出エジプト記1:22~2:3)

このアスファルトとピッチは、あの大洪水の時に、ノアが箱舟を造った時に、防水に使ったものです。水が箱舟の中にしみ込んでくるのを防ぎます。つまり、このアスファルトやピッチは、水の底に沈んでしまう私たちを死から守るものなのです。赤ん坊の命を、エジプトの兵士たちが血眼になって探していました。その死から守るもの、それがこのパピルスの籠だったのです。

しかし、たとえ水が入らなくても、どこへ流されてゆくか解りません。お母さんの気持ちはどんなだったでしょうか。またここに、もう一つの聖書の場面がかさなって来ます。それは、アブラハムが、自分の愛する一人子イサクをモリヤの山に行って、神様にいけにえとして献げる場面です。自分の一番愛する者、自分の大切な命でもあるわが子を、手放さなければならない親の何とも言えない、悲しくも辛い気持ちが伝わってきます。思い悩んだ挙句の決断だったと思います。ちょうど、慶晃くんくらいの赤ちゃんを籠に入れて、川の中に流すような気持ちです。たとえ神を畏れ敬い、神のみ手にすべてをゆだねる信仰とは言っても、そこには張り裂けるばかりの親の感情があったと思います。

でも、私たちが、自分の最も大事なものを手放さざるを得ない時、また祈りながら悩みながら手放す時、そこに、神の救いの御手が介入して働いてくださることも事実です。大事なわが子、目に入れても痛くないわが子、この自分にとって最も大切な命ともいえるものを捨てる時、そこから神の御計画、神の御意志が働きだすのです。この一人の名もないイスラエルの母親は、神を信頼し、神の答えを信じて待ち望みつつ、愛するわが子を水の上に浮かべました。

4.モーセ(=水から引き上げる)と名付けた

すると、すぐに神の答えがありました。その川岸に、ファラオの王女が水浴びをしようと降りてきました。4節からをもう一度読んでみましょう。「その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、そこへ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たちは川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕え女をやって取って来させた。開けてみると赤ん坊がおりしかも男の子で、泣いていた。王女がふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人の子です。」と言った。

そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出た。『この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。』『そうしておくれ』と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れてきた。王女が、『この子を連れて行って、わたしに代わって父を飲ませておやり。手当はわたしが出しますから。』と言ったので、母親はその子を引き取って父を飲ませ、その子が大きくなると、王女のもとへ連れて行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名付けて言った。『水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですから。』」                 (出エジプト記2:4~10)

ファラオの王女が、パピルスの籠を見つけて、その中の泣いている赤ちゃんを見てふびんに思ったとあります。しかも、王女はすぐに、この子はヘブライ人の子だと知りました。もしそうであるならば、王の命令通り、その子をそのまま放って川に流すことも考えられたでしょう。でも、神様は、その王女の女性の心に働きかけられて、憐憫の思いを抱かせました。するとじっと弟の様子を見ていた姉が、王女の前に出て行って乳母を紹介しましょうかと言いました。もしかしたら、王女はその時、その乳母がこの子の本当の母親ではないかと直感したかも知れません。それでも、神の御手が働き、その子をもとの母親の手に戻しました。しかも手当もくださるというのです。奇跡です。まさか我が子を手放したばかりの母親が、再びわが子を自分の手に抱くようなろうとは、しかもお金をいただいて安全に育てることができるとは、いったい誰がこの事態を予想しえたでしょうか。

この王女の心に、乳飲み子の泣き叫ぶ声によって、憐みの心を起こさせたのは、やはり神様ではないかと思います。母親の願い、姉の心配もありました。でも、赤ちゃんも必死に、神様に向かって泣き声をあげて助けを求めていたのではないでしょうか。聖書には「泣いていた」とあります。この子の泣き声は祈りの声です。私たちの祈りも、この赤ちゃんのような声ではないかと思います。ただただ、神様に向かって、助けを求めて、必死に声をあげて泣き叫ぶしかないのです。でも、それでいいんです。それがこの出エジプト記の大きなテーマになっています。

つまり、「神が戦われる。あなた方は黙ってみていなさい。」(14:14)というのが一つのテーマです。神様は、そのような赤子の声でもちゃんと耳を傾けて聞いていてくださいます。そして、御手を差し伸べて水の中から引き上げてくださるのです。奴隷の子から王子にしてくださるのです。神はやがて、幼子モーセをナイルの水から引き上げたように、あの紅海でも、イスラエルの民を水の中から引き上げて救って下さいます。これが、出エジプト記のテーマの一つとなっている「神が戦われる」という言葉です。すなわち「イスラエル」(=神が支配する。神が戦われる。)という名前の本当の意味です。

王女は、この男の子に「モーセ」という名を付けました。それは「水の中から引き上げる」(=マーシャー)という言葉から来ています。「マーシャー」とは、ナイルの川の中から幼子を引き上げるということだけではなく、やがて、モーセを先頭にして紅海を渡ってゆくイスラエルの民のことも預言した言葉です。すなわち、あの紅海の水の中をモーセを先頭にしてイスラエルの民が、くぐって引き上げられるという救いの出来事へとつながってゆくのです。

このモーセという名前の意味は、やがてイスラエルの民を水の中から引き上げて約束の地を目指すものとなってゆきます。そしてさらにイエス・キリストの十字架の死と復活という神の救いの内容そのものをも指し示しています。さらにまた、キリストの救いにあずかる私たちの浸礼のバプテスマをも指し示す名前だったのです。それが、マーシャー、水から引き上げるという言葉から取った「モーセ」という名前に意味だったのです。

神を畏れる二人の助産婦に始まった物語が、やがて神を畏れ、神を信じ、神の御心に従った女性たちの信仰の勝利の出来事へと受け継がれて行きます。そしてイスラエルのエジプト脱出という大いなる民族の救いへとつながってゆきます。私たちも、何もできず、力のない者ですが、あの幼子モーセのように神様に必死に助けを求めて、祈りの声をあげてゆきたいと願っています。
主が戦われるのです。
主が救ってくださいます。
主が勝利してくださいます。
(岡田 久)  

 

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