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求めよ、さらば与えられん (マタイ7:7~12)

メッセージ
2017年1月15日富里キリスト教会

「求めよ、さらば与えられん」
(マタイ7:7~12)

1.求めなさい(信仰者の態度)

「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。誰でも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ7:7~8)

ある人は、この「求めよ、探せ、門を叩け」という動作は、段々と強い求め方を言い表していると言っています。つまり、求めても与えられなかったならば、次に探さなければならないと言うことです。それでも見つからなかったら、門をたたくようにして必死に求めることを言っているのではないかというのです。
何度も何度も執拗に、あきらめないで問い続け、求め続けることです。この「求めなさい」という言葉は、文法的には、現在命令法で語られていますので、「求め続けなさい」「探し続けなさい」「門をたたき続けなさい」という現在進行形です。継続して、何度も何度も、生涯かけて執拗に求めることを命じています。

わたし達は自分が信仰を持つことによって、もうすでに天国に入ったと思います。後はもう求める必要はないと思っていることはないでしょうか。確かに、誰でもイエス・キリストを信じる者は、その瞬間に天国に名が記されます。でもそれは信仰生活のスタートなのです。もう自分は天国行きの切符を手にしたから安心というのではなく、これからも更に熱心に求道の生活を続けると言うことです。いかがでしょうか、皆さんは今でも求め続けているでしょうか。

ローマ書に「実に、信仰は聴くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)とありますとおり、信仰はキリストの言葉を聞くことから始まり、聞き続けることによって保たたれ、聞き続けることによって完成するのです。ですから、バプテスマを受けただけで、後は何も求めもしない、探しもしない、たたきもしなかったら、その人は信じたことになるでしょうか。聞かないと言うことはもうそこで信仰がストップしていることになります。ですから、真に聞き続けるためには、求め続けるのです。もし与えられなかったら探すのです。それでも見つからなかったら門をたたくのです。これが真のクリスチャンの生き方です。ですから、もし、それを止めたら、せっかくの宝物は無駄になってしまいます。与えなければよかったと神様は思っているでしょう。本人が必要としないのですから・・。そのことの警告が、直前の7:6に書かれています。「神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついて来るだろう。」(7:6)と。

「神聖なものを犬に与えるな、真珠を豚に与えるな、もったいないから。」と言っています。皆さんは豚ですか。犬ですか。そうではありません。人間ですよ。神様に愛されている神の子です。そうならば、「求めなさい。」そして、それでもだめなら「探しなさい。」、そしてそれでもだめなら、あきらめないで「門をたたきなさい。」とイエス様は教えています。そうすれば必ず見出すし、開けてもらえるのです。

門のとってはどっちについていますか。自分の方にはついていません。家の内側に、向こう側についています。人間は自分では開けることができないのです。門の向こう側から、神様に開いてもらわなければ開けられないのです。これを啓示と言います。聖書は啓示の書であり、キリスト教は啓示宗教です。では、どうしたらいいですか。自分で開けることができませんから、門をたたくしかないのです。神様に「どうか扉を開いて下さい。そうすればあなたが見えます。真理が分かります。本当のことが分かります。」と言って、一生懸命門をたたく、つまり祈るのです。それによってしか、門は開けられません。聖書には、「求めるものには良い物を下さる。」と言っています。求めましょう、あきらめず、気落ちしないで。

2.良いものを与える父

以上がわたしたちクリスチャンの態度ですが、それでは、神様はわたしたちに何を求めなさいと言っているのでしょうか。何を与えようとされているのでしょうか。「あなたがたの誰が、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求めるものに良いものを下さるにちがいない。」(7:9~11)

ではいったい何を求めたらいいのかと言いますと、ここでは「パンを欲しがる子供に石を与えるだろうか」「魚を欲しがる子供に蛇を与えるだろうか」と言っています。つまり子供が欲しがるのは、パンだと言うことです。その時、親は決して食べることができないような、絵に書いたパンや石のように固くてかじれないパンは与えないというのです。わが子には、ふさわしい最高の贈り物をしてくださるというのです。

「パン」とは何でしょうか。これは神の御言葉です。命のパンです。必ず主はわが子に必要な命のパンを与えてくださるのです。石は決して与えないというのです。世の親でさえそうなのだから、天の霊的な父はなおさら良いものを与えないはずはないというのです。パンは父なる神の御言葉を意味しています。そして「魚」とは何でしょうか。これは「イエス・キリスト」のことです。「イエス・キリスト・神の子・救い主」という言葉の一個、一個の単語の頭文字を取りますと、ギリシャ語で「イクスウス」となります。(イ=イエス、ク=キリスト、ス=神、ウ=子、ス=救い主)つまり魚を求めると言うことは、救い主イエス・キリストを求めると言うことです。

神様は、父なる神の命の御言葉であるパンを与えて下さる。そして魚であるイエス・キリスト様も与えて下さいます。絶対に、石や蛇と言った別のものは与えないというのです。更に父なる神様は、わたし達にもっと良い贈り物である聖霊様を与えて下さるとはっきりと記しております。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。誰でも、求めるものは受け、探す者は見つけ、門をたたく者は開かれる。あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求めるものに聖霊を下さる。」(ルカ11:9~13)

つまり神様はわたしたちに最高の贈り物、聖霊様を下さるというのです。このお方は真理の御霊です。この最高の贈り物である聖霊様によってわたし達は、自分が救いにあずかっていること、神の子とされていることの確信を得ることができます。そして聖霊様を通して神の愛が心の中に注がれて、兄弟姉妹を愛して行くことができます。聖霊様を通していろんな御霊の実をいただくことができます。人間が変わって来ます。伝道する力が与えられます。聖書の真理を発見することができます。この聖霊様の働きは、数え上げればきりがありません。ですから、イエス様は、まずこの聖霊様を求めなさいと命じているのです。いや生涯、求め続けなさいと言っているのです。そうすれば、パン(父なる神の御言葉)も魚(イエス・キリスト様)も同時に与えられるのです。なぜなら三位一体の神だからです。

3.人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。

最後にこの山上の垂訓の要約ともいうべき、大切な教えを見てみたいと思います。「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。」(7:12)この教えに注目していただきたいと思います。何かよく解ったようで、よくよく読んでみると一体、どんなことを言っているのか解らなくなる時があります。

(週報にも書きましたが)「(わたしが)人にしてもらいたいと(わたしが)思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」となっています。クリスチャンはよく愛を持って人に親切にします。皆さんもそうでしょうし、私もそうです。でも気をつけて読んでみて下さい。「人がしてもらいたいこと」ではなく「(わたしが)人にしてもらいたいと思うこと」なのです。もしクリスチャンが「人がして欲しいことは何でもそのようにしなさい。」と間違って解釈したらどうなるでしょうか。

もしそうではなく、「人がしてもらいたいこと」となったらどうなるでしょうか。これはその人の奴隷ですね、まさに操り人形です。これが「人『が』してもらいたいことは何でも、人にしなさい」と言うことです。これは「人に自分がしてもらいたいこと」という教えを誤解しています。間違って解釈しているのです。イエス様は、「人『に』してもらいたいことは何でも」と言いました。「自分がして欲しいことをする」と言うことです。相手の言いなりにならないと言うことです。つまり、相手の願いは聞きますが、そこに「私自身の考えと感情」が入るのです。

じゃあ牧師の場合には「人にしてもらいたい」と思っていることは何だろうかと考えてみました。そうですね。いつも礼拝が終わったら、「やあ、今日の説教はよく解りました、すばらしかったです。」と言ってもらいたいなあと思うことがあります。(人間的な思いではありますが・・。)もしそうならば、まず牧師の方から先に、信徒一人一人に褒める言葉かけが必要だと言うことです。人に自分がしてもらいたいことを何でも、人にしなさいですから。

自分がほめてもらいたかったら、相手をほめる。自分が認めてもらいたかったら、相手をまず最初に認める。自分が必要だと思って欲しかったら、まず最初に相手が必要だと言うことです。これこそ、聖書が言っているイエス様の愛の実践であり、聖書の中で最も大事な倫理だと言うことです。この最高の霊の賜物を求めましょう。聖霊様を求めましょう。信仰生活は、初めから最後まで最高の良い物を追い求めることです。天のお父様は、必ず良いものを与えて下さるとおっしゃっています。
最後に一つの詩を読んで終わりたいと思います。「病者の祈り」(作者不明)というタイトルがついています。

「わたしは神に求めた、成功をつかむために強さを。
わたしは弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。
 わたしは求めた、偉大なことができるように健康を。
    わたしは病気を与えられた、より良きことをするために。
 わたしは求めた、幸福になるために富を。
 わたしは貧困を与えられた、知恵を得るために。
 わたしは求めた、世の賞賛を得るために力を。
わたしは無力を与えられた、神が必要であることを知るために。
 わたしは求めた、人生を楽しむためにすべてのものを。
 わたしは命を与えられた、すべてのものに楽しむために。
求めたものは一つも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。
神に背くわたしであるのに、言い表せない祈りが与えられた。
わたしは誰よりも最も豊かに祝福されている。」

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