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永遠の愛の御言葉を聞かせて下さい (詩編143:7~12)

メッセージ

2014年4月6日富里キリスト教会

「永遠の愛の御言葉を聞かせて下さい」
(詩篇143:7~12)

1.2014年度の教会標語

そして、今年度から第二ステージに入りまして、今度は詩篇の143:8~
10までの御言葉を念頭に置いて、共に歩んで行きたいと願っております。一年目に当たる今年(2014年度)は、8節の御言葉を選ばせていただきました。この共同訳聖書では、「朝にはどうか、聞かせて下さい。あなたの慈しみについて」となっております。この御言葉を、この共同訳聖書で読みますとそんなにインパクトがないのですが、英語の聖書(NIV)を読んでみましたら、びっくりしたのを覚えております。こうありました。「Let the every morning bring me word of your unfailing love.」直訳しますと、「日々の朝が、私にあなたの尽きることのない愛の御言葉をもたらすようにして下さい。」となるのではないかと思います。

わたしはこの英語のNIV訳(new international version)を読んで、この詩編143篇を全部英語で暗記して口ずさんでいたのを覚えております。それは、「わたしに聞かせて下さい」というのではなく、「朝がわたしに御言葉を持ってくるようにして下さい」となっているからです。「朝が持ってくるように」と言う言葉に感動しましたので、この143:8を自分なりに訳しまして、「聞かせて下さい愛の言葉を、朝毎に」と題してみました。

2.暗闇の中で挫ける心

実はこの詩編は、「悔い改めの詩篇」とも呼ばれておりまして、受難節(復活の40日前)などキリストの十字架の苦しみを覚える時に朗読されることが多いと言われています。143篇の1~6節までの前半が、自分に迫って来ている苦難と試練の中で、嘆きつつ今、自分が置かれている現状がどんなものであるかを、神に向かって訴えております。そして後半の今日の個所の7節から12節までが、神への祈りの言葉、訴えの言葉となっています。

この詩の作者とされているダビデは、ご存じのとおり、イスラエルの偉大な王でした。すばらしい信仰の生涯を送った人物です。そして、わたしたちもできれば、そのような栄光に満ちた輝かしい信仰の生涯を全うしたいと願うものです。しかし、聖書を読んでみると、ダビデほど人間臭く、多くの悲しみと苦しみを背負って信仰の試練と挫折を抱えながら、イスラエルの王としての生涯を全うした人物は他にいないような気もします。彼は、多くの失敗を重ね、罪を犯しつつも、その自分の犯した罪を悔い改めつつ、悔い改めの涙とうめきを持って信仰を守って来ました。そのようにして、一人の罪人であって失敗と挫折を重ねつつも、ひたすら神により頼んで生きて来た一人の信仰者の姿をこの詩編は歌っています。

2節に「あなたの僕を裁きにかけないでください。御前に正しいと認められる者は、命あるものの中にはいません。」と言っています。これは自分の罪と弱さを知っている者の声です。神様は、たとえ信仰者でありましても、このような暗闇と苦難と失敗の中に突き落とされることがあります。それは、私たちが絶えず自分の罪を認め、悔い改めて主の前に立ち帰ることを願っているからではないでしょうか。苦しみや試練や困難のない信仰生活なんてありません。信ずる者は皆例外なく、この暗い道を、光を見出すことができない道を通らされることがあります。

真っ暗闇の中にいて、ただひたすら朝の光を待ち望むことしかできない時があります。いくら祈っても、祈っても、光が見えない、神が答えてくださらない時もあります。しかも、周りには自分の失敗と挫折をたくらむ者が身を潜めているのです。祈れども神の答えが見つからずに、死の恐怖が周囲を覆っているような時もあります。体も心も、病にかかって弱り果てる時もあります。思い出すのは、昔自分が元気だったころ、華やかにバリバリと仕事をしていた時のこと、輝いていた時のことを走馬灯のように思い出す時があります。「ああ、あのころが懐かしい、あの頃に戻りたい。」と、過去の思い出にすがる日々を送る時もあるのではないでしょうか。

そのようにして絶望の淵に落とされて、にっちもさっちもいかなくなった時の心境をこの詩編は述べています。「敵はわたしの魂に追い迫り、わたしの命を踏みにじり、とこしえの死者と共に、闇に閉ざされた国に住まわせようとします。わたしの霊はなえ果て、心は胸の中で挫けます。わたしはいにしえの日々を思い起し、あなたのなさったことをひとつひとつ思い返し、御手の業を思いめぐらします。」(143:3~5)

3.朝にはどうか聞かせてください

そういう状況の中で、ダビデは「朝にはどうか聞かせてください。あなたの慈しみについて」と祈っています。先ほどのNIV訳では「朝をしてもたらして下さい」と祈っています。この言葉の中に、どんなにかダビデが、明るい朝の光を待ち焦がれていたのかが分かります。「主よ、早く答えてください。わたしの霊は絶え入りそうです。御顔をわたしに隠さないでください。わたしはさながら墓穴に下る者です。」(7節)と、主に向かって必死に訴えかけています。そのように、朝が一刻も早く訪れて、わたしの心の中にあなたの光を差し込ませて下さい。しかも、あなたの慈しみに富んだ愛の御言葉をもって、早く聞かせて下さい、早く答えてくださいと祈っています。

まるで、来たるべき朝が、明るい未来への希望を持って現れてくれることを必死に待ち焦がれているような祈りです。ですから、ただ単に、夜が明けて朝になったら希望を持てるようにして下さいと言うだけではなく、必ずやって来る朝そのものが、自分の心の中に光と希望をもたらしてくれるようにと祈っているのです。創世記の天地創造の時にも神様は、「夕があり、そして朝となった。」とあるように、たとえ先に夜が来ても、その後には必ず朝が来ることを信じているのです。

主イエスも、真っ暗闇のゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られました。弟子たちは寝込んでしまい、あげくの果てには主を見捨てて逃げ行ってしまったにもかかわらず、主は一人黙々と十字架の道を歩まれ、「父よ彼らを赦したまえ、彼らは何をしているのか分からずにいるからです。」とすべての人のためにとりなしの祈り献げて下さいました。父なる神様にすべてを委ね、必ず復活の朝が来ることを信じていたからではないでしょうか。十字架の夜を通して、復活の朝の光を望み見ていたのです。

ダビデはこのお方の予型として、このような祈りをささげたのです。たとえ、愛する息子アブサロムに反逆され、命を狙われようとも、涙を流してわが子のために執り成しました。それはあたかも主イエスが、裏切ったユダのためにもまた他の逃げて行った弟子たちのためにも、どこまでも罪人の足を洗い、最後の最後まで愛し通されたように、この詩編を書いたダビデもまた、復活の朝の光を待ち望んでいたのです。たとえ今は闇が支配していても、必ず復活の朝が来ることを信じていました。

4.七つの祈り

ダビデは、この詩編143:7~10の中で七つの訴えをしています。7節に「答えてください」と「御顔を隠さないでください」8節には「聞かせて下さい」と「教えてください」、9節には「助け出して下さい」、10節には「教えてください」と「導いて下さい」の七つです。ここに、自分の意志ではなく、神の御心を求めて、主に完全に従って行こうとする人の祈りが述べられているような気がします。

この七つの祈りは、すべて、自分の側からの行為ではなく、ただひたすら神に向かって、訴えて、神様からの答え、神様の御言葉、神様の救い、神様の示す道、神様の導きに従って歩むことをひたすら願っています。神無しには自分は何もできないことを訴えています。神への徹底的な従順を告白した祈りです。

ここに私たちの信仰生活のあり方が、教えられているような気がします。何度も申しますが、信仰生活は山あり谷ありです。暗い時もあり、明るい時もあります。いや、谷底ばっかり、夜ばっかりだという方もあるかもしれません。でも、神様はそのような苦難の時を通して、私たちが主の御言葉に徹底的に従うかどうかを試されているような気がします。

夜の闇を通して、どんなにか朝の光のありがたさを知ります。夜が明ける時を待ち望みます。そして、その暗闇の中で、目に見えない神様の御言葉を求め、それにより頼んで歩むようにと訓練して下さいます。この神様の朽ちることのない永遠の愛の御言葉こそ、確かな約束であり、従うべきものであり信頼すべきものであることを教えてくださいます。この神への絶対的な信頼である信仰を養うために、主は時には試練と失敗と挫折を味わわせ、全く従順へと養い育ててくださるのではないでしょうか。

わたしたちは既に、復活日の前40日間の受難節に入っております。思いがけない困難や苦しみに遭遇するかもしれません。でも、今こそ、ダビデが主に向かって、その苦しみと悩みの中で祈りの声をあげたように、復活の朝の光を待ち望みながら共に祈って行きましょう。もう一度、今日の聖書箇所を皆さんと一緒に読んで、この受難の時を信仰の祈りを持って過ごして行きたいと思います。                           (岡田 久)

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