ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

永遠の命に至る水 (ヨハネ4:16~30)

メッセージ
2020年1月12日富里キリスト教会
「永遠の命に至る水」
(ヨハネ4:16~30)
1.真実の心を持った女

今朝の場所は、サマリヤのシカルの町、そしてそこにあったヤコブの井戸のほとりでの出来事です。もともとはイスラエルの先祖ヤコブが、ヨセフの子供エフライムとマナセに与えた祝福の土地でした。しかし、今ではアッシリアに滅ぼされた後、異邦人との結婚により、宗教的にも民族的にもその純血を失っていた人々でした。純粋のユダヤ人からは、イスラエルの神を捨て、異教の神と混じってしまった民族として蔑視されていました。それがサマリヤ人です。しかし、主イエスはあえてそのような土地に足を踏み入れて、救いを求めている純粋な魂を探して求めたのでした。

そしてそこに一人のサマリヤの女が水をくみに来ました。主イエスは霊的な目で、彼女こそ救いを求めて飢え渇いている魂の持ち主だと見抜かれて、「水を飲ませてください」と話しかけました。ユダヤ人から、しかも男性から女性に声をかけることさえ禁じられていた時代にイエス様の方から近づかれたのです。伝道のまず第一歩は、このようにへりくだって相手に助けを求めつつ、お願いすることです。

そしてやり取りをしている間に、イエス様はこう言いました。「この井戸の水を飲む者は誰でもまた渇く。しかし、わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)と。するとその女性は「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」(15)と。女性は実に大胆です。何でも手に入るものはすぐに飛びつきます。あまり体裁とかプライドはありません。それだけ彼女の心が渇いていたのではないでしょうか。誰かこの自分の空しい心を満たして欲しい。人生で生きていてよかった、もう満足したと言えるような人に会いたいと願っていたのではないでしょうか。

すると主イエスは即座にこう言われました。「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい。」と。すると女は、「わたしには夫はいません。」と言いました。すると主は「『夫はいません』とは、まさにその通りだ。あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と言われました。(4:16~18)どうしてイエス様はいきなり彼女に、夫を連れて来なさいと言ったのでしょうか。少し失礼ではないでしょうか。しかも、この男性との関係については、彼女の一番の言いたくないこと、人に知られて欲しくないことでした。

もしわたしがイエス様から、「あなたの夫をここに連れて来なさい。」といわれたら、「水を飲むことと、わたしの夫を連れて来ることとは何の関係があるのですか?」と反論していたかもしれません。「なんでそんなことを私に聞くのですか。初めての人に夫のことでとやかく言われる筋合いではない。」と断ったかもしれません。その生ける水を欲しいのはわたしであって、夫が欲しいと言っているのではありませんと。あるいは、体裁を繕って、「今わたしの夫は出張に出て行って、家に居ませんので連れてくることはできません。」と嘘をつくこともあるかもしれません。皆さんはどうこたえるでしょうか。

彼女は、実にあっさりとしかもはっきりと、「わたしには夫はいません。」と答えました。その時すでに、イエス様は彼女の過去のことも現在のこともすべてを知っていたのです。ですから、彼女がはっきりと夫がいないと答えた時に、「まさにその通りだ。」と言われました。そしてさらに「あなたは、ありのままを言ったわけだ。」と言ってくださいました。英語ではYou are right. What you have just said is quite true となっています。日本語に訳すと、「あなたは正しい」となります。また「あなたの言ったことは真実だ」ともなります。

つまりイエス様が、命の水を与えるために彼女に求めたものは何かと言いますと、真実の心、本当のことを言うことです。たとえそれが悪いことでありましても、恥ずかしいことでありましても、イエス様の前に包み隠さずに申し述べることです。そしてこれが前回のニコデモとこの女とを分けた点でした。彼女は永遠の命の水を欲しいと思って、自分の本音、誰にも知られたくない闇の部分、過去のとげの部分をイエス様に率直に申し述べました。

誰でも5人もの男性と関係があって、それが全部破綻してしまったこと、そして今もまた別な男性と同棲生活をしているということは知っていました。町の口やかましい女性たちのうわさの的です。しかし、彼女の正しいことは、それを主の前に隠さなかったということです。すべてを告白しました。なかなか女性が自分の過去の男性のことを口に出す、言葉にするということはできないことです。忘れてしまいたいことです。できれば一生かくして、だまったまま墓場まで持って行きたいことです。

しかし、もし本当に渇くことのない永遠の命を欲しいならば、そのことを隠したままではもらうことが出来ません。自分の心に蓋をしたまま、手を伸ばしてほしいと言っても主はそれを許しません。必ず誰に対しても「あなたの夫を出しなさい。」「あなたの過去の闇の部分、罪の部分をわたしの前に明らかに死なさい。」と迫ります。長血の女性の場合もそうです。彼女が自分の病気がいやされたことを、公衆の面前で告白するために群衆を離れて、一歩主の前に出るまで主イエスは一歩も動かず待っていました。

前回ニコデモにも言いました。「モーセが荒れ野で青銅の蛇を掲げて、それを仰ぎ見たものだけが傷がいやされて生きのびたように、自分の罪のためにイエスが身代わりに十字架で死んでくださったことを認める者は、誰でも永遠の命を受ける。なぜなら神はひとり子を与えるほどにこの世を愛されたからです。」(3:14~15)と。しかし、ニコデモはまだ自分の罪を告白するまでには至りませんでした。ニコデモはその晩、イエスのもとを離れて行ってしまいました。彼が真に罪を悔い改めて主の前に出るまで、実にこの後3年の月日が必要でした。
最後にニコデモも、主の十字架の遺体を引き取ることによって、主告白をしました。(ヨハネ19:39)ですから問題はここです。わたしたちが自分の本当のことを過去のことも今のこともすべて真実を主の前に告白するかです。罪の告白です。

2.イエスの愛の肯定

もし私たちが真実のこと、自分の隠しておきたいこと、人に知られたくないことをあるがままで主の前に告白したならば、どうするでしょうか。わたしたちが真実を話すならば、たとえそれが主の前に叱られそうなこと、非難されそうなこと、罰を受けそうなことでありましても、主は決してそういう人を責めたり、懲らしめたり、罰を与える方ではありません。そのことをそのままで、肯定して下さるお方なのです。イエス様は、「まさにその通りだ」「あなたはありのままを言ったわけだ。」と言われました。

彼女のしている行為を非難したり懲らしめたりするのではなく、それを認めて下さるお方なのです。「まさにその通りだ。」英語ではyou are right あなたは正しいという言葉です。何が正しいか、彼女が今も同棲を続けていることが正しいのではありません。彼女が真実を言ったことが正しいのです。あなたが今話したことが、嘘偽りではなく本当のことだと言って、そのことを肯定して下さったのです。

イエス様は、わたしたちを裁くお方でしょうか。そうではありません。主はわたしたちの罪を贖うためにこの世に来てくださいました。先週の大切なみ言葉です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:16~17)

神様が御子をこの世に遣わされたのは、世を裁くためではなく夜が救われるためでした。すべての人が御子イエスキリストの十字架の贖いを信じて救われ、神の子とされ、永遠の命を得るためなんです。ですから、誰でも自分の罪を告白するならば、それを裁くのではなく赦してくださるお方なのです。問題はその罪を隠していることです。自分を正しいとすること、義とすることです。事実を主の前に告白しないで隠し続けることが、すでに裁きになっているというのです。そういう人は悪を行う者であり、光であるお方の方には来ようとしません。しかし、真理を行う者は、光のもとに来るのです。光の元に来る人は、自分の姿が光に照らされてすべてが見えます。見られます。隠しおおせることが出来ません。

神様は世を裁くためではなく、御子によって世が救われるために来ました。救われる人は自分の真実の姿を主の前に明らかにすることが必要です。イエスの光は、わたしたちの罪を暴いてそれを追求しようとするのではなく、その光によって罪を赦そうとしてくださる光なんです。自分で一生懸命光を出そうとする必要はありません。わたしたちは闇であり、肉なのです。そういうわたしたち、罪に汚れ滅びるしかなく、空しい存在でしかない私たちをあるがままで光にさらせばいいのです。それが救いです。主の愛の光は、わたしたちを照らして下さり、闇を光に変えて下さるのです。罪を恵みに変えて下さるのです。

先週の週報に「完全な愛は恐れを取り除く」という題で書かせていただきました。
「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを閉め出します。なぜなら恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛して下さったからです。」(Ⅰヨハネ4:18~19)
完全な愛には恐れがありません。そこには懲らしめがないからです。神様の愛は、
御子イエスキリスト様の十字架の死において完全に現れました。そしてすべての人にその完全な愛が示されました。そこには恐れがありません。恥もありません。あるがままの自分、罪人の自分、6回も結婚に失敗した自分、失敗人生です。でも私たちがそこで自分のあるがままの自分の罪とか、隠し事とか、失敗、挫折、恥を包み隠さず主に申し上げるならば、主はそれを認めて下さるのです。決して、その男と別れなさいとか、ふしだらな人生から離れなさいとか、高飛車に叱るお方ではありません。

そうではなくそれを認め、肯定して下さるお方なのです。それが神様のイエス様に示された完全な愛です。100%の真実の愛です。神がまず最初に、わたしたちを愛して下さったのです。わたしたちの罪を赦すために十字架に架かって下さった、それほどにわたしたちを愛しているのです。ですからわたしたちも、この神様の完全な愛のゆえに、自分の本当の心を告白したいものです。主はあなたを心から愛している。あなたの罪を赦すために来たのだよ。十字架の主は、「その通りだね、あなたの言うことは間違っていない」と肯定して下さるのです。このサマリヤの女は、恐れることなく正直に自分のことを打ち明けました。それが「わたしには夫はいません。」という言葉だったのではないでしょうか。

3.神は霊である

イエス様はそういう礼拝者を求めているのです。自分の心を隠したまま、自分の心を閉ざしたままで、何か永遠の命だけは頂こうとする人には残念ながら永遠の命は注がれません。神様は、あそこの神殿におられる、あそこのお宮におられるというような方ではないのです。どこにでもおられます。そしてわたしたちの心の中を見ておられます。24節に「神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」といいました。

この霊である神様に対して、わたしたちは自分の心を隠すことが出来るでしょうか。自分の心を偽ったままで礼拝できるでしょうか。神様は霊なるお方ですから、わたしたちも心から包み隠さず主の前に心を注いで礼拝をしたいものです。もし心を隠したままの人は、形は礼拝したようにしていますが、真実の礼拝、真の礼拝には参加していないことになります。神様は、真実な心で、すなわち正直な素直な心で、自分の心の内側を、心の隠しておきたい襞の中までをハッキリと打ち明けて、正しい良心をもって主の前に出ることを望んでおられます。

そういう人に、命の水は惜しげもなく注がれ与えられます。主は、真実の心で主の前にすべてのことを打ち明けた女に対して最後に、「それは(キリストは)、あなたと話しているこのわたしである。」とはっきりと表明されました。そして今やっと、彼女の目から固いうろこが取れて、イエス・キリストを認めることが出来たのです。

今ようやく彼女の渇いた心に永遠に至る命の水が、豊かに注ぎこまれました。そして彼女の心は、真の神であるキリストと出会ったという喜びに満たされて、その口から命の水が沸き上がって来るのを感じました。28節読んでみましょう。「女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。『さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」こう言って、シカルの町の人々にキリストが来たことを、自分の心の中の罪が赦されたことを証しました。

「メシアかもしれません」と言っています。まだはっきりとした確信がありませんでした。でも彼女が町に飛び出して行って、今まで顔を合わせたくもないと思っていた人々に、片っ端からイエス様のことを告げ知らせたということは、彼女はすでに永遠の命に至る水を飲んでいるというはっきりとした証拠です。命を受けた者は、それが腹の内側から湧いてきて、誰かれかまわずに証をしたくなります。7:38でイエス様はこう言いました。「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。」と。

永遠の命に至る水を飲んだかどうか、それはその人のその後の生活を見れば分かります。なぜなら命の水は、黙っていないからです。いったんそれを受けると今度はその水が腹から次々と湧き水のようにあふれ出てくるからです。そしてそれを押さえておくことが出来ません。そしてまた命の水に飢え渇いている別な魂を求めてゆくのです。そういう渇いた心の人を探し出します。

彼女は水がめをそこに置いたまま飛び出して行きました。もう彼女の心は空っぽではなくなったのです。水がめの生活とはおさらばです。空の心で、ああしてほしい、こうして欲しい、まだ満たされない、わたしの人生は何だろうと考えてばかりいた空しい生き方ではなく、与える生活に変わったのです。自分がどこから来てどこに向かっているのかが分かったのです。人生の目標が定まった生活です。生活のすべてが、この命であるお方のためにと変わっていったのです。証の生活に変わったのです。

よく「先生わたしはまだ伝道するところまで行きません。証ができません。どうしたら伝道できるようになりますか?」と尋ねるお方がおられます。それは簡単なことです。この永遠に至る命の水を飲むことです。飲んでいなければ湧き上がってくるはずはありません。じゃあ、どうしてまだ飲んでいないのでしょうか。それは自分の内側の苦い根、心の中の罪を主に告白していないからではないでしょうか。自分自身をまだ見つめていない、自分自身とまだ向き合っていないのではないでしょうか。

神様は霊であり、神様は愛です。しかも完全な愛で一点の曇りもありません。裁く愛では成りません。完全な赦す愛です。ですから何も恐れずに、自分の心の内をすべてあるがままで主に告白しましょう。そうすれば永遠に至る命の水を飲むことが出来ます。そうすれば黙っていても、口から命の水が沸き上がってきて、人々の心をいやすことでしょう。(岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional