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水の祭壇 (列王記上18:30~40)

メッセージ

2012年9月2日富里キリスト教会
「水の祭壇」
(列王記上18:30~40)

1.はじめに

イスラエルの国では3年間雨が降りませんでした。これは偶像礼拝をやめないイスラエルの王アハブに対する神様の怒りによるものでした。しかし、神の預言者エリヤは、神様の言葉に従ってサレプタに住む一人の寡婦の家に遣わされ、そこで不思議な仕方で養われる経験をしました。その後、王の前に姿を表したエリヤは、王の妃イゼベルに囲われているバアルの預言者450人との直接対決を申し出ました。それが今日のお話です。バアルの神とヤハウェの神、偶像礼拝と主の礼拝との生死をかけた預言者同士の対決です。

2.偶像礼拝の祭壇

バアルの礼拝の様子を見てみましょう。列王記上18:26と28~29までを読んでみます。「彼らは与えられた雄牛を取って準備し、朝から真昼までバアルの名を呼び、『バアルよ、我々に答えてください。』と祈った。しかし、声もなく答える者もなかった。彼らは築いた祭壇の周りを飛び回った。・・・彼らは大声を張り上げ、彼らのならわしに従って剣や槍で体を傷つけ、血を流すまでに至った。真昼を過ぎても、彼らは狂ったように叫び続け、献げものを献げる時刻になった。しかし、声もなく答える者もなく、何の兆候もなかった。」

何としてでも、我々の要求にこたえて欲しいという必死の思いが伝わって来ます。自らの体を傷つけ、血を流して祈る激しい、熱心な信仰です。でも、そこが偶像礼拝と言われるゆえんです。神様をなんとか自分たちの願いに屈服させよう、何がなんでも答えさせようという人間の側の強い意志です。どんどん願望を燃え上がらせてゆきますと、「信仰が足りないのではないだろうか。お布施が足りないのではないか。功徳や善行が足りないのではないだろうか。」とどこまでもエスカレートして行きます。自分を傷つけ、血を流すまでになりました。

別な言葉で言いますと、御利益信仰、打ち出の小槌、アラジンの魔法のランプのような信仰です。どこまでも人間の意志、願望、努力なのです。いくら血を流すほど激しく祈っても、それは自分の血なのです。真に人間の罪を清め神への道を開いてくださるのは、神の子であるキリストの血潮以外にないのです。熱心さが必ずしも正しい祈りとは言えません。的の外れの人間の祭壇であり祈りなのです。

3.エリヤのまことの祭壇

次にエリヤの祭壇を見てみましょう。30節から35節までを読んでみます。
「エリヤはすべての民に向かって、『わたしの近くに来なさい』と言った。すべての民が彼の近くに来ると、彼は壊された主の祭壇を修復した。エリヤは、主がかつて、『あなたの名をイスラエルである』と告げられたヤコブの子孫の部族の数に従って、十二の石を取り、その石を用いて主の御名のために祭壇を築き、祭壇の周りに種ニセアを入れることのできるほどの溝を掘った。次に薪を並べ、雄牛を切り裂き、それを薪の上に乗せ、『四つの瓶に水を満たして、いけにえを薪の上にその水を注げ』と命じた。彼が『もう一度』と言うと、彼らはもう一度そうした。彼が更に『三度目を』と言うと、彼らは三度同じようにした。水は祭壇の周りに流れ出し、溝にも満ちた。」(列王記上18:30~35)

バアルの預言者は450人でしたが、エリヤはたったの一人です。しかし、エリヤには主なる神がついておりました。そして彼は主がこうしなさいということを忠実に行ったのです。(18:36)30節からの中にエリヤが築いた真の祭壇が述べられていますが、次の五つの点に注目してみてみたいと思います。一つは「わたしの近くに来なさい」と言ったことです。二番目は「主の祭壇を修復した」こと、三番目は「十二の石で祭壇を築いた」こと、四番目は「祭壇の周りに溝を掘ったこと」です。五番目は「祭壇の上に水を注いだ」ということです。

A)「わたしの近くに来なさい」

これはいつまでも真の神とバアルの神との板挟みになって、どっちつかずの中途半端な生ぬるい信仰生活を送っていたイスラエルの民への警告です。18:21でエリヤはこう叱っています。「あなたたちは、いつまでどっちつかずに迷っているのか。もし主が神であるなら、主に従え。もしバアルが神であるなら、バアルに従え。」と。彼らは別に偶像礼拝に走っていたので花ありません。ヤハウェの神も礼拝していたし、バアルの神も付き合いで時々礼拝していたのです。

今の北のアハブ王が、妻イゼベルの持ち込んだバアルの神のために神殿を建て、その神をまつるための祭司をもシドンから招いて雇っていたのです。それはかつて、ソロモンが異教の妻が持ち込んださまざまの偶像に、自分もつかってしまっていったのと同じでした。偶像は実に上手に人々の心の中にこっそりと入りこんできます。自分の妻や自分の親や自分の子供を使って、本人の気がつかない内に、心の中に住み込んでしまうのです。

エリヤは態度をはっきりさせなさい。キリスト教の神が自分の神なら、そっちに来なさい。また、仏教が自分の神ならお寺に行きなさい。神社に自分の神がいるなら神社参拝に行きなさい。中途半端は良くない、どっちつかずの態度をやめて、自分の旗印を鮮明にしなさいと言っています。それが「私の近くに来なさい」と言う言葉です。

B)「壊された主の祭壇を修復した」

そのようにして、徐々に偶像礼拝の習慣が生活の中に入って来ますと、一番怖いのは、神の祭壇を築かなくなることです。つまり、祈りの時間を日々の生活の中で取れなくなって来るのです。祈りと御言葉の時間を取るという信仰生活の基本が、崩れるのは早いです。バプテスマを受けて、「拡大する人生」をやって静聴の時間が取れ始めても、何かでペースが狂ってしまうと、また元の生活に戻ってしまいます。祈りの祭壇が崩れてしまいます。

皆さん、今日から9月です。暑い夏も終わりました。もう一度祈りの祭壇を築き直しましょう。来週からとか、来月からと言わずに、思い立ったら吉日です。今日から早速はじめませんか。信仰生活というのは、いつも再出発です。もう一度、夏のだらけた生活をリセットして、新しいスタートしましょう。祈りの祭壇を築き直しましょう。

C)十二の石で祭壇を築く

エリヤは十二の石を積んで、主の御名のための祭壇を築きました。十二の石と言うのはイスラエルの十二部族のことです。この十二部族の上に神が臨在し、「神がこの民を治める」ということが、イスラエルという名の本来の意味です。エリヤは、南北に分裂し、十二部族がばらばらになってしまった国を神の御名によって再統一しようとしました。十二部族の共通項は、主なる神です。この真の神を信じる信仰によって、分裂した国を一つにしようと願ったのでした。

そのためにも、南北の王国が一つとなり、主なる神を信じる信仰共同体として一致団結することを願ったのです。十二の石ががっしりと組み合わされて、祭壇を築き、一つの心となって神の祭壇になって行くところに神が臨在し、神が共にいて偶像と戦ってくれるのです。私たちが集まる時、この礼拝で、あるいはスモールグループで、あるいは教会学校で、もし私たちの間に敵対心や赦せない心があるならば、そのような固いとがった心を捨て去って、お互いに赦し合い、和らいで一体となることです。これが、エリヤが築いた主の祭壇です。それぞれの硬い石の角が削られて、お互いにしっかりと組み合わされなければ主の祭壇を築くことはできません。

D)祭壇の周りに溝を掘った

次にエリヤは、祭壇の周囲に種を2セア(1セアは7、7リットルで、2セアは15、4リットルとなる。灯油缶くらいの量。)入れることができる溝を掘りました。これは聖なる祭壇とそうでない部分を区別する溝です。つまり、私たちの静聴の時間を、日常生活の中から区別して聖別しなさいということです。

どういうことかと言いますと、祈る時間があったり祈らなかったりするのではなく、一日の内にこの時間を祈りの時間帯として聖別する、つまり何が何でも確保するということです。一般の時間帯と区別しなさいということです。同じように祈りをする場所も、聖別して、この部屋は祈りの部屋、このイスは祈りのイスと言うふうに、祈る時間と祈る場所を定めなさいということです。テレビ番組や、インターネット、アルコールなどいろんな誘惑の手が伸びてきます。そういうものと神様と向き合う時間を区別し、境界線を引くという意味で、エリヤは祭壇の周りに溝を掘りました。私たち自身が、祈りの聖なる祭壇だということです。

D)水を注ぐ

これから、神様からの火をもってどちらの祭壇が本当の祭壇か、そしてどちらの神が真の神かを決めるために、天から火をもって決定するのに、よりによって祭壇に水を注ぐとはいったいどういうことでしょうか。ふつうに考えれば、火がつきにくくなります。それでもあえて、エリヤは主から命ぜられたとおりに水を注いだのでした。そして、この水が、バアルの祭壇と大きく異なる点だったのです。

実は水と言うのは、聖書では普通、御言葉を意味しています。(ヨハネ3:5、7:37~38)つまり、エリヤの祭壇には、主の御言葉が語られ、主の御言葉が聞かれ、それに聴き従う行為があったということです。初めにもお話しましたが、聖書を忘れて行ってしまって、一週間、御言葉を読まないで祈りだけをする日が続きました。祈りも大切ですが、何か物足りない、物足りないと思いながら過ごしました。どうしてかと思ったら、やはりそれはみ言葉の水が注がれない祈りの祭壇だったのです。

エリヤは、四つの瓶で三回も水を注ぎました。日照りの時期なのに、貴重な水を惜しげもなく、いけにえがびしょびしょになるほど水をかけたのです。それは、御言葉が十分に語られた礼拝だということです。御言葉が十分に読まれ、聴かれた静聴の時だったのです。もし、今日の礼拝で、御言葉の説教がなかったらどうでしょうか。賛美と祈りだけで礼拝ができるでしょうか。サタンはなるべく、御言葉を避けようとします。そして巧妙に御言葉を、私たちから離そうとします。

この日曜日の礼拝だけではなく、日々の自分の祈りの祭壇に皆さんはどれだけの水を注いでいるでしょうか。ある人は、週報の裏にある聖書日課を毎日読む人がいるかもしれません。ある人は、榎本先生の「一日一生」、ある人はスポルジョンの「朝毎に」、ある人は「デイリーブレッド」を読むかも知れません。なんでもけっこうです。御言葉の水を皆さんの祈りの祭壇にたっぷりと注いでください。それが真のデボーションです。それが主の祭壇です。そして、その御言葉の水が十分に注がれるところに、天から神の火である聖霊様が降るのです。

4.主の火が降って、すべてをなめ尽くした

すると、天から主の火が降って来て、祭壇の上のものをすべて、いけにえの雄牛から薪から石から塵から、溝にたまっていた水までも全部なめ尽くしたのです。これは神様が、エリヤの供え物を受け取ったということです。エリヤにご自身を示され、エリヤの祈りを聞き届けたということです。生ける真の神が、ご自身をこの民の前に啓示されたということです。人々は皆ひれ伏して「主こそ神です。主こそ神です。」と言って地面にひれ伏しました。

私たちが御言葉による祭壇を築き、心からの集会や礼拝を捧げますと、そこに聖霊が激しく注がれ、人々の心に悔い改めが起こります。隠されていた偶像や心の中の罪や闇が明らかにされます。そこで、私たちは徹底的に悔い改めの祈りを捧げて、聖霊の炎で完全に罪を焼き尽くしていただいて聖めにあずかるのです。エリヤは、間髪をいれず、バアルの預言者を捕えよと命じました。「一人も逃してはならない。」(18:40)と命じました。そして民が450人のバアルの預言者を捕えると、エリヤは全員をキション川に連行して行って、自らの手で殺しました。今でも、このエリヤとバアルの預言者が戦ったと言われているカルメル山には、剣をもって今まさにバアルの預言者を殺そうとしているエリヤの像が立っています。

「450人も殺してなんと残酷な。」と思わないでください。これは、明らかになった人間の罪と偶像を徹底的に滅ぼしてしまうべしと言う、主の御命令が含まれています。一人の罪も、一個の偶像も見逃してはいけないということです。罪の根を徹底的に断つことです。一つの罪や悪でも、これだけはもったいないから残しておこうとしないことです。それが後でまた罠になってしまいます。人間の罪と悪の源である偶像は、徹底的に完全に除き去ることを主が命じているのです。そして、その場で罪と悪からの勝利と解放を、主の御名によって宣言してあげることです。

私達も、中途半端な生活に別れを告げて、この夏に崩れかかった祈りの祭壇を再構築しましょう。そして祈りの祭壇を築き、周囲に溝を掘って聖別し、そこに御言葉の水を十分に、こぼれるほどに注ぎかけて、主の応えを待ちましょう。
今は偶像との霊の戦いの時です。        (岡田 久)

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