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気を落とさずに絶えず祈る (マタイ26:36~46)

メッセージ
2017年4月2日富里キリスト教会

「気を落とさずに絶えず祈る」
(マタイ26:36~46)

1.悲しみもだえるイエス

「それから、イエスは弟子たちと一緒にゲッセマネという所に来て、『わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい。』と言われた。ペテロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。そして、彼らに言われた。『わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。』少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。『父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。』」
(マタイ26:36~39)

主イエスは、ゲッセマネに入って行かれて、弟子達の中から、ペテロとゼベダイの子すなわちヤコブとヨハネの三人を連れて、園の奥に入って行かれました。そのとき、突然主は「悲しみもだえ始められた」とあります。しかも「死ぬばかりに悲しい」と言われました。今まで気丈に弟子たちに福音を教えられ、多くの奇蹟を行いながら、ここに来て急に悲しみ悩み始められました。しかも三人の弟子の前で。一体何が起こったのでしょうか。

主イエスはこう祈られました。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」と。この神の怒りの杯を、自分が身代わりに受けなければならいと言うことです。本来ならば罪人のわたしたちである人間が受けなければならない、神の罰です。それを御自分が、受けなければならないと言うことの厳しさです。たとえそれが自分の使命だとしても、できればその苦しみの杯を飲まなくてもいい道を示して下さいと祈りました。この苦しみと孤独を経験しなくてもいいようにして下さいと願ったのです。

「御心のままに」という祈りは、この杯を受けますと言うことです。自分の思い、自分の願い、自分の願望ではなく、神様の御心のみがなりますようにという祈りです。自分を委ね、神に明け渡す道です。たとえその道が苦しみと悲しみの道であっても、必ず神様はプラスにして下さると信じて踏み出す道です。なにがあろうとも、苦しみ、攻め、重荷、犠牲があっても、神様が望むのでしたら、その道を取りますと言うことです。逃げるのだけはやめますと言うことではないでしょうか。この苦しみの杯を遠ざけてくださいと言う願いではなく、その苦しみの中に、その苦しみを通してさえも、主はその先に光と希望の道を備えて信じて、委ねる道ではないかと思います。

自分の願いと神の願いの間でとことん悩み抜いた末に、神様に自分の道を委ねる道を選びとったのです。そのときの祈りの様子がルカによる福音書の方に詳しく記されています。「すると、天使が天から現われて、イエスを力づけた。イエスは苦しみもだえ、いよいよ切に祈られた。汗が血の滴るように地面に落ちた。」(ルカ22:43~44)とあります。天使が下りて来てイエスを励ましました。祈る力と勇気を与えて下さいました。またその時、汗が地のようにぼたぼたと地面に落ちたと記されています。いかにこの時の祈りが激しいものであったかと言うことです。祈りはまさに罪との闘いです。自分を貫くか、自分を活かす道を選び取るか、自分を捨てるかの決断の戦いの場でした。

2.弟子達の弱さ

しかし、あんまり苦しい試練や困難や悩みが多すぎると、もう祈る気力も力もなくなるかもしれません。すると、目の前の課題や問題から目を背けさせようとする悪魔の力が働きます。祈っても駄目だよ、神なんかいないよ、答えられないよ、祈る分だけくたびれ損だよ、祈りは聞かれないよと、神を否定し祈ることの空しさを吹き込もうとします。イエス様もゲッセマネから逃げ出したくなる誘惑もあったのではないでしょうか。雲隠れ、蒸発したいと思う気持ちもあったのではないでしょうか。

その誘惑に会っていたのが弟子たちでした。ルカの22:45を見ますと、「彼らは悲しみの果てに眠り込んでいた。」とあります。弟子達も同じように悲しかったのです。先生が最後の食事を取られ、最後の言葉を語り、これから自分は十字架に架けられ死ぬことを予告しました。そしてその後、弟子達もつまずいて逃げて行くと言ったものですから、弟子達の心も動揺してどうしていました。そしてイエス様が、ここにいて一緒に祈って欲しいと言われたにもかかわらず、彼らは眠り込んでしまっていたのです。肉体的にも精神的にも疲れ果てていたのです。

「それから、弟子たちのところへ戻ってご覧になると、彼らは眠っていたので、ペテロに言われた。『あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱い。』」(マタイ26:40~41)彼らは、わずか一時も目を覚ましていられませんでした。と言うことは、おそらくすぐに寝込んでしまって、イエス様が祈っている間中彼らはぐっすりと寝ていたと言うことです。誘惑に負けてしまっていました。しかも三回もイエス様が戻って来て起こしたにもかかわらず、三回とも眠ってしまっていたのです。何ともふがいのない弟子たちでした。

「心は燃えていても肉体は弱い」と主がおっしゃっていますので、信仰はありました。ところが肉の力も強くて、心の方が負けてしまうのです。「心」という言葉は、ここでは「霊」(=spirit)という言葉です。まだ霊的に弱かったということです。大きな現実、厳しい現実から目を背けること、これが誘惑に陥ってしまうと言うことではないかと思います。アルコールもあるでしょう。買い物もあるでしょう。ブランド品を買い込むことや、ギャンブルにのめり込むとか、異性に夢中になるとかいろんな気を引くもの、気を紛らわすものがあります。

そのような誘惑に陥ってしまって、祈ることも、聖書を読むことも、礼拝に来ることも、教会の交わりに入ることもなくなってしまう人のことを言うかもしれません。ここでイエス様が、三回来てもそうだったと言うことはどういうことでしょうか。これは彼らは、完全に弱かった、誘惑に負けてしまっていたと言うことです。

しかし、わたしたちは眠っていても、主は決して眠っていません。わたしたちをどこまでも見ておられます。わたしたちのために常に目を覚まして執り成していて下さいます。「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。だから、あなたが立ち直ったら力づけてやりなさい。」(ルカ22:32)とペテロに言いました。信仰がなくならないように祈っていて下さるお方がおられるのです。詩篇に次のような御言葉があります。「どうか、主があなたを助けて、足がよろめかないようにし、まどろむことなく見守って下さるように。見よ、イスラエルを見守る方は、まどろむことなく、眠ることもない。主はあなたを見守る方。あなたを覆う蔭、あなたの右にいます方。昼、太陽はあなたを撃つことなく、夜、月もあなたを撃つことはない。」(詩編121:3~6)

3.立て、行こう

三度も起こしてもらいながらも、三回も眠ってしまった弟子たちに対して、主は決してしかりつけたり、見放したり、あきらめたりすることなく、絶えず声をかけて下さいました。わたしたちがどんなに罪に負けて、愚かで弱く、主の御心を悲しませようとも、主は決して見捨てることはなさいません。そんな弱いわたしたちを、励まし続けて下さっています。「それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。『あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。立て、行こう、見よ、わたしを裏切るものが近づいてきた。』」(マタイ26:45)と。

不信仰な姿を見られて、バツ悪そうにして、まだ眠りかけている弟子たちに対して、主は「立て、行こう」と言いました。一体どこに行こうと言ったのでしょうか。「立て」は分かりますね。これは今までも自堕落な生活ときっぱりとわかれて、目を覚まして立ち上がりなさいと言うことです。生きているのか死んでいるのか解らないような、中途半端な生ぬるい生き方と決別しなさいと言うことです。クリスチャンならクリスチャンらしく、真剣に生きなさいと言うことです。

こういう詩があります。「祈りは日常に打ち込まれた杭、祈らなければ時代に流される。祈らなければ人々に流される。祈らなければ肉の自分に流される。」
一日一回は最低聖書を1章は読む、朝と夜の二回は祈る時間をとりたいものです。しかもやったりやらなかったり、中途半端な生き方ではなく、毎日、時間と場所を決めて几帳面に神との静聴の時間を取ると言うことです。「立て」と言うことは、自堕落な中途半端な生活に別れを告げて立ち上がれと言うことです。新生讃美歌462にこういう歌詞の讃美歌があります。「重い罪キリストに みなゆだねて 新しき命を 受け入れよと、・・・ためらいの生活に 別れを告げ 望ある命を 選びとれと 主はもろ手を差し伸べ 待っておられる 心を開き迎え入れよ キリストを。」これが「立て」と意味です。

そして「行こう」はどこへ行くのでしょうか。それは自分を裏切るもののところへです。主は自分から進んで、自分を裏切り売り渡そうとしていた、一人の弟子のもとへと向かって行きました。本来でしたら、身に危険を感じて逃げるのが本当です。でも主はもはや十字架への道を選びとりましたから、逃げることなく真っ直ぐに十字架を目指して突き進まれたのです。敵であるユダに向かって行きました。どこまでも自分の命を狙い売り渡そうとする者にも、自分を当てようとされたのです。それは苦しみの道であり、死の道でもあるのです。でも、あなたの罪にためにわたしの命を与えると言う愛の道でもありました。十字架への道です。その道を主は祈りの中で、決断したのです。

かつてこう言いました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」(マタイ16:24~25)と。「行こう」と言うのは、自分を捨てることです。そしてイエスに従うこと、イエスの道を行くことです。十字架を目指すと言うことです。その時に、初めて私たちの道が開けてくるのではないでしょうか。

具体的に言いますと、祈ることではないでしょうか。イエスが弟子達のためにまたすべての人々の罪のために、自分をささげ、執り成したように、わたしたちも主と共に、ゲッセマネの園に進みゆくことです。気を落とさずに絶えず祈りましょう。この受難週、復活の光を目指して、目を覚ましてすべての聖徒のために絶えず祈り続けましょう。ゲッセマネの園で、血の汗を流して祈られた主に近づきましょう。「担い進みゆかん 主の十字架を 苦き杯も など避くべき ゲッセマネの汝を ゲッセマネの汝を 覚えて近づかん 王なるイエスよ。」(新生讃美歌216)

ガッカリすること、気落ちすること、悩むことの多い日常生活です。だからこそ、気を落とすことなく、失望せずに、祈りを止めることなく、根気よく祈って行きましょう。イエス様がいつも目を覚まして、共に祈っていて下さいますから。そして主と共に御言葉を宣べ伝えて伝道することです。わたしの道を行きなさい、わたしに倣いなさい、わたしの真の弟子となりなさいと主は招かれました。これが「行こう」と言ったことの意味ではなかったでしょうか。「立て、さあ行こう」と言われた主の招きに応えてゆく年でありたいと願っています。

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