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死者の復活 (Ⅰテサロニケ4:13~18)

メッセージ

2015年6月14日富里キリスト教会

死者の復活
(Ⅰテサロニケ4:13~18)

1.嘆き悲しんではいけない

人間の死に対して、あるいは愛する家族の死に際して、あなたがたは世の人々のようにいたずらに嘆き悲しんではいけないとパウロは言っています。誰でも、死んだ人がクリスチャンであろうが、ノンクリスチャンであろうが、死ねば悲しいです。今まで一緒にいた人が突然消えてしまうわけですから。特に家族の者にとっては、悔やんでも悔やみきれない悲しみ、辛さがあります。

でもパウロはこう言っています。「兄弟たち、既に眠りについた人たちについては、希望をもたない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。」(4:13)と。交通事故であろうが、病死であろうが死は突然やって来ます。パウロは、彼らは死んだのではなく「眠りについているのだ」と言っています。眠っているのですから、また目を覚まします。一時、昼寝をしているようなものだというのです。

クリスチャンが、あまりにも嘆き悲しむならば、死んでしまってもう取り返しがつかない、永遠の別れになってしまったという自分の本音を表していることになります。そうであるならば、復活への希望といったあなたの信仰は一体どこへ行ったんですかということになります。死んだ人も天国で、なぜ死んでもう永遠に会えないような悲しみをするのかと不思議に思っているかもしれません。「わたしは生きている。」という先輩の声が聞こえて来るようです。

無教会主義の内村鑑三先生は、自分の17歳の愛娘の死に際して、ますます復活信仰とキリストの再臨を強く確信するようになったと言われています。わたしたちは愛する者の死に際して、ただ嘆き悲しむだけではなく、むしろ聖書をますます真剣に読み、死後どうなるのか、そして死んだ後の主の再臨は果たしてやって来るのかということを真剣に問いただしてみてはいかがでしょうか。

パウロもテサロニケの信徒の方々に、家族の者が死んでしまったからと言って、教会を離れてしまったり、信仰をなくしたりすることのないように、また信仰を捨てたり、あいまいにしないで教会にしっかり繋がっていくことを願ってこの手紙を書きました。こう言っています。13節に「希望をもたない他の人々のように嘆き悲しまないために、ぜひ次のことを知っておいてほしい。イエスが死んで復活されたと、わたしたちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出して下さいます。」(4:13~14)と。

イエスがわたしたちの罪のために死んで、復活されたのですから、このお方を信じているわたしたちも、同じように死んで復活するのだということです。主にあるものは、死んだだけではなく、その後も生きているのです。眠っているだけなのです。これらの先に召天された兄弟姉妹は、信仰の故に生きているのです。そして今は、主の再臨に際しての復活の朝を待ち望んでいるのです。

2.再臨のしるしと時期

イエス様はこうおっしゃいました。「いちじくの木から教えを学びなさい。枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近づいたことが分かる。それと同じように、あなたがたは、これらすべてのことを見たなら、人の子(キリスト)が戸口に近づいていることを悟りなさい。」(マタイ24:27)と。ご存じの通り、二千年前よりも今はもっと主の再臨の時が近づいています。いちじくの葉が出て、枝が柔らかくなり、プクッと緑のイチジクの実が枝に付きはじめます。主の再臨は、突然は起こりませんが、世の中を見ていますとだんだんとその時が近づいているということが分かると言っています。

今日ほど、地球が危ないと言われている時代はありません。温暖化によって、北極の氷が解けだし、南の島々が水没の危機にあります。異常気象という言葉が当てはまらないほど、今まで人間が経験したことのない天変地異が地球規模で起こっております。火山の噴火、大地震、大津波、疫病の蔓延、聖書が預言しているような事象が次々と起こっています。確実にこの世界は終わりの時に向かって、放物線を描くように急速に近づいています。(直線ではなく放物線を描くようにして)まさにいちじくの葉が茂り、枝が柔らかくなり、いよいよ夏である主の再臨が近づいているということです。

しかし、人々はそのような漠然とした不安と予告を感じていながらも、教会に来ようとはしません。キリストに救いを求めようとはしません。ノアの洪水の時もそうでした。洪水が来る、洪水が来ると呼びかけられていても誰もノアの箱舟に入ろうとはしませんでした。それと同じです。世の終わりが来る、キリストの再臨が起こり最後の審判が起こると盛んに言われていて、誰も教会に来ようとしません。

クリスチャンでさえ、自分の救いも復活の甦りも忘れてさ迷い続けています。知っているのはイエス様と先に死んだ人々です。この兄弟姉妹達はすでに死んでいますが、彼らは今自分がどこにいるのかはっきりわかっています。死後の世界にいるからです。イエス様の懐に抱かれて、復活の朝を待っています。彼らはすべて知っています。生きている私達よりも確実に知っています。わたしたちには、今、手元には聖書しか残されていません。ここには私たちの死後の世界も、これから起こるべき再臨に際しての体の甦りという栄光の時もはっきりと記されています。大事なことは、これ(御言葉)を信じるかどうかです。

いつ、主の再臨とこの世の終わりが来るかということについてこう書いています。「兄弟たち、その時と時期についてあなたがたに書き記す必要はありません。盗人が夜やって来るように、主の日は来るということを、あなた方自身よく知っているからです。人々が『無事だ。安全だ』と言っているやさきに、突然、破滅が襲うのです。ちょうど妊婦に生みの苦しみがやって来るのと同じで、決してそれから逃れられません。しかし、兄弟たち、あなたがたは暗闇の中にいるのではありません。ですから、主の日が、盗人のように突然あなたがたを襲うことはないのです。」(5:1~4)

主の再臨は、突然やって来ますが、わたしたちを破滅が襲うことはないので、いたずらに浮き足立つ必要はありません。主は信じる私達を救いに来られるのですから、恐れることなく、また油断することなく、ただ目を覚ましてしっかりと信仰を持って祈ってその時を待つことです。教会から離れてしまうのではなく、信仰を捨ててしまうのではなく、いつも集会に集まって目を覚まして祈りつつ、互いに励まし合うことです。

信仰のともし火が消えかかっている人、あるいは消えてしまった人に声をかけて励まし合いましょう。「イエス様はもうすぐ来られるから、また教会に戻って信仰生活をしましょう。聖書を読んで祈りながら待っていましょうね。イエス様を決して忘れないでね。」と声を掛け合うようにと言っています。

3.どのようにしてキリストは再臨するのか、その時私たちはどうなるのか

主の再臨と携挙の場面を、もう一度しっかりと読んでみましょう。「すなわち、合図の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」(4:16~17)

主の再臨は近づいてはいますが、その日その時、即ち二千何年、何月、何日、何時何分という時期、時刻は誰も知らないのです。ただ三つの徴があります。それは、「合図の号令」と「大天使の声」と「ラッパの響き」です。この三つの声が聞こえたら、主が天から降って来られるときです。これから主が来られますよという声が聞こえ、それから天使の声が聞こえ、それからラッパの鳴り響く音が聞こえます。それから主が天から降って来られます。

そして主が地上に来られる前に、クリスチャンが空中に引き上げられます。でもこの時に、順番がありまして、先に死んだ兄弟姉妹が栄光の霊の体に一瞬にして変えられて天に引き上げられます。(Ⅰコリント15:52)彼らは今までは、霊のままで体を持っていませんでしたが、この時初めて栄光に輝く霊の体をまとうのです。そしてその次に、生き残っている人々が、これも一瞬にして肉の体から霊の体に変えられて、天に昇って行き、空中で主とお会いします。そしてこの時に、先に召された大勢の兄弟姉妹と再会を果たすのです。聖書にはそう書いてあります。それでも、なかなか俄かには信じられないような光景です。

わたしたちは空中でイエス様とお会いして、永遠にイエス様と共にいることになると言っています。すばらしいじゃないですか。イエス様と共にいる生活です。生きている時も、死んでからもイエス様と共にいること、これがクリスチャンの最高の喜びであり、幸せではないかと思います。もし、生きている時に、イエス様と共にいることが嫌な人は、天国もあまりうれしいところではないかも知れません。大事なことはイエス様と共にいることです。生きていようが死んでいようが。

「主は、わたしたちのために死なれましたが、それは、わたしたちが、目覚めていても眠っていても、主と共に生きるようになるためなのです。ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい。」(5:10~11)ですから、主の再臨とわたしたちの携挙を、何か目新しいことのように、不思議な超自然的な現象のように考えるのではなく、今、私たちはこうして現に主イエスと共に生きていることが、天国なんだということです。地上であろうが天上であろうが、大事なことはイエス様と共にいる、このお方と愛の内に生きるということなのです。今日このようにして写真を飾って記念の時を持っている兄弟姉妹は、生きている時も、信仰を持って一生懸命主に仕え、地上での生涯を走り抜けました。わたしたちもそのような信仰の生涯を送りたいと願っております。(Ⅱコリント4:16~5:10)

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