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死者の復活 (Ⅰコリント15:20~28)

メッセージ

2014年8月10日富里キリスト教会

「死者の復活」
(Ⅰコリント15:20~28)

1.復活がなければ宣教も信仰も無駄である

「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などはない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15:12~14)

クリスチャンが、復活について単なる希望として信じているだけだとすれば、それはこの世の中で一番惨めな人々になってしまうと言っています。つまり、復活はあるかもしれないし、もしかしたらないかもしれないと曖昧な願望だけで終わってしまっているのであれば、惨めな人たちですと言うのです。皆さんはどうお考えでしょうか。「復活はあれば儲けもの、無ければないでま、いいや」と言う程度のことでしょうか。

パウロは断言しています。そしてわたしもパウロと一緒に宣言します。「キリストの復活は事実であり、キリストの十字架と復活を信じた者は、すべて罪赦され、信仰によって義とされ、永遠の命を受け天国に入ります。そしてそれだけではなく、最後には復活の体に甦らされ、主イエスと共に全てを支配し永遠に生きる。」これが私たちの告白する信仰です。イエス・キリストを信じる者には、この復活の確かな希望が与えられていることを思い出してほしいと言っています。単なる空しい希望ではないのです。

ところがこのコリント教会の中には、キリストは復活しなかった、死者の復活も我々の復活もないと言って復活信仰を否定する人さえおりました。クリスチャンの中でも、特に理性的科学的に考える人々でしょうか、パウロも呆れていました。それでパウロはこの手紙の最後15章で、イエス・キリストの復活について、そして死者はどのように復活するのか、再臨はどのようにいつ起こり、その後の世界はどうなるのか、最後の審判はどう起こってこの世が終わるのかということについて述べたのがこの15章です。

2.復活の順番

次にパウロは復活の順番について述べております。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによって全ての人が死ぬことになったように、キリストによって全ての人生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。その時、キリストはすべての支配、すべての権威や勢力を滅ぼし、父である神に国を引き渡されます。」(15:20~24)

キリストは復活の初穂となられたお方ですから、イエス・キリストの復活に続いて主を信じる者が、次々と復活にあずかるということを意味しています。その理由は、アダムによって罪が全人類に入り込み、そのことによって死が全人類に入りました。アダムの罪の結果として人間はだれでも例外なく死を経験させられます。これは現実のこととして誰でも経験し、また誰でも恐れていることです。

しかし、第二のアダムであるキリストは死ではなく、命を与えるものとして来られました。それはご自分の十字架の贖いによって、信じる者の罪を赦されたからです。罪人をその罪と死の鎖から解放して下さったからです。ですからイエス・キリストの十字架と復活を信じる者は皆、罪赦されて義とされ、永遠の命にあずかることができるのです。これは神様の大きな恵みです。

そしてこの復活の出来事には、順番があると記されています。第一にキリストの復活、第二にキリストに属する者の復活、第三に世の終わりが来ると記されております。イエス・キリストの再臨は突然起こりますが、その時にはクリスチャンは天に上げられ、キリスト共にいると聖書には記されております。その個所を見てみましょう。「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」(Ⅰテサロニケ4:16~17)

イエス様が天から降って来られるときに、先に信仰をもって眠っておられた方々が復活させられます。この主の再臨の時にはわたしたちは、この肉体の体ではなく、霊の体、栄光に輝く天使のような体で復活します。それまでは、私たちは息を引き取ると、私たちの霊は肉体を離れてイエス様のもとに行きます。これをパラダイス、楽園と言っていますが、まだ霊のままです。体を取っていません。これを中間状態と言いますが、主が再臨される時には、栄光の霊の体に一瞬にして変えられるのです。

先に召された方が空中に上って行って、それから生き残っていた人々、命の書に名前が記されている人々が、これまた一瞬のうちに霊の体に変えられて天に上って行きます。そして空中でイエス様とお会いして、永遠にイエス様といることになります。それから、世の終わりが来るとパウロは述べています。この時には、キリストは、すべての国や権威支配を滅ぼされて、ご自分の支配のもとに置かれ、最後には死をも滅ぼされます。(黙示録20章)そしてキリストは、完全に全てのものをご自分の支配のもとに置いた後で、この神の国を父なる神に委ねられます。そして神がすべてのもののうちで最高のお方となられるのです。これが世の終わりであり、最後の審判となるのです。

そのためにも、もっと熱心に、真剣に聖書を調べてください。研究して下さい。ボロボロになるくらい読んで下さい。そしてその確信をしっかりと聖書から読み取り、その確信を離さないで目を覚まして常に祈り、主の再臨の時を待つことです。今私たちは、死者の復活と言う確かな希望の中に、生きているのです。この復活信仰とそのメッセージをしっかりと受け止めて、どんなことが起こっても、動ずることなく信じて待っていなさいとパウロは勧めております。これが今の終わりの時に生きている、クリスチャンの生き方です。

3.心の目を開き、正しい生活をして
罪を犯してならない

29節から、主の再臨を控え、体の復活を目指す私たちがどのようにして生きて行ったらよいかと言うことが述べられています。「そうでなければ、死者のためにバプテスマを受ける人たちは、何をしようとするのか。死者が決して復活しないのなら、なぜ死者のためにバプテスマなど受けるのですか。また、なぜわたしたちはいつも危険を冒しているのですか。兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストに結ばれてわたしが持つ、あなたがたに対する誇りにかけて言えば、わたしは日々死んでいます。単に人間的な動機からエフェソで野獣と闘ったとしたら、わたしに何の得があったでしょう。もし、死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか。』
ということになります。思い違いをしてはいけない。『悪いつきあいは良い習慣を台無しにする。』のです。正気になって身を正しなさい。罪を犯してはならない。神について何も知らない人がいるからです。わたしがこう言うのは、あなたがたを恥じ入らせるためです。」(Ⅰコリント15:29~34)

ここに死者のバプテスマと言う聞きなれない言葉が出て来ていますが、これは日本でも、死んだ人のために供養をするということがあります。死んだ人が成仏して仏様になれるように、残された家族が功徳を積むわけです。それがギリシャ時代にはバプテスマと言う儀式があったということで、未信者の一般社会でも死者のために家族の者が、代わりのバプテスマを受けて、死んだ人が死後に復活にあずかることができることを願ったのだそうです。

キリストを信じていない人でも、他の宗教でも、死後の世界とか来世とか復活ということを願っているのに、どうしてコリントの教会員は死者の復活などあり得ないと言っているのですか、とパウロは厳しく非難しています。キリストは復活しました。そしてその死者の復活という約束と希望を持って生きています。死者の復活と言う確かな約束があるのだから、わたしたちは今こうして必死になって残された人生、主のために身を粉にして働いているのではありませんか。いろんな危険を冒してまで伝道しているのです。エフェソでは、信仰の故にコロセウムで野獣と闘うという見世物にまでさせられたと言っています。

もし復活ということがないならば、今と言う人生を愉快に楽しくいっぱい良いことをして死んでしまったらいいでしょう。気の済むまでやりたいことしたいことをして、大往生をすれば自分の人生悔いなしではないでしょうか。でも、そういう短絡的な刹那的な生き方を送って欲しくはない、福音にはキリストの十字架と復活によって、わたしたちもキリストのように甦るという確かな約束があるのです。死後の世界が明確に存在するのです。ですから、復活の朝をめざして、目を覚まして真剣に、今という時を大切に生きるべきではないですかと呼びかけております。

現代訳聖書では、15:34を「心の目を覚まし、正しい生活をし、罪を犯さないようにしなさい。」となっています。もういい加減眼を覚ましなさい。いつまで眠っているのですか。イエス様が天から降って来られる日はもうすぐそこまで来ているのです。いい加減、快楽を追い求める生活から手を引いて、命がけで福音のために戦いなさい。いつまでも罪を犯した生活を続けていてはいけません。もっともっと神について、救いについて、復活について、世の終わりについての知識を求めなさい。いつまでも、神も復活も知らないような、未信者のような生き方をしていけませんとたしなめています。  

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