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死者の復活 (Ⅰコリント15:12~23)

メッセージ

2013年6月9日富里キリスト教会
「死者の復活」
(Ⅰコリント15:12~23)

1.死後の世界

しばらく前に、「千の風にのって」と言う歌が中高年の間に流行りました。「わたしのお墓の前で泣かないでください。私は死んではいません。千の風にのって飛んでいますから。」と言うような歌詞の言葉が、多くの日本人の心を捉えました。人間は皆死を迎えます。死んで地獄に行くというイメージよりは、死んで風のごとくに飛んでいるという言葉の方が受け入れやすいのは確かです。しかし、果たしてそうでしょうか。人間は死んだら風のように体を抜け出た魂として、空中を飛び回るのでしょうか。

なぜ人間は誰でも、最後には死を迎えるのだろうか、と言う素朴な質問があります。それは、わたしが今まで何度も何度も口が酸っぱくなるほど言ってきたことですが、人間の死の原因はアダムの犯した罪のせいであるということです。今、祈祷会で学んでおりますローマ書5:12にこうあります。「このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。」と。

つまり、アダムが犯した罪によって罪が全人類に入り込み、その罪の罰である死も同じように人間の歴史の中に入り込んだということです。アダムが罪を犯す前は、アダムもエバもエデンの園で永遠に生きていました。しかし、神様の御言葉に逆らって、園の中央にあった木の実を食べてしまい、目が開けて自分と言う存在に目覚め、神から離れてしまいました。この分離、神の前から姿を隠すことこれが罪です。更に罪の報いとして死が、全人類に入り、こうしてすべての人は死を経験することになりました。ですから、今日、すべての人に死が臨むように、すべての人はアダムの子孫として罪を生まれながらに持っているということに気がつかなければなりません。

ある人は、この出来事はわたしたちの感知するところではありませんので、私にはその責任はないとは思いますと言うかもしれません。しかし、すべての人が例外なく、死を迎えるということは事実です。誰もが確実に死を迎えます。罪の支払う報酬は死ですから、私たちもその罪の中に置かれているのです。そのことにまず、気がつかなければなりません。この罪の現実と、確実に迫ってくる死から誰も逃れることはできません。

2.死の解決

でもただ一つ、この死を解決する道があります。それは、まず最初に、死の原因である罪を解決することです。その解決の道として、神様は私たちのところに神の御子イエス・キリスト様を送って下さいました。そして、この御子の十字架の死を通して私たちの罪を償って下さいました。罪の支払う報酬である死の代価を、神御自身の御独り子イエス様の尊い命をもって帳消しにして下さったのです。これが十字架の罪の贖いの死です。それほどに、神様は罪人の私たち一人一人を愛しておられるのです。

この御子イエス・キリストを信じる信仰によって、誰でも罪が赦されます。永遠の命が約束され、死から解放されるのです。神は、罪のないお方を罪人として、私たちの代わりにあの十字架につけられたのです。そして、誰でもあの十字架のイエス・キリストを自分の救い主として仰ぐ者の罪を赦されたのです。これ以外に、私たちを罪と死の呪いから解放する道は他にありません。(ヨハネ3:16)

キリストは、罪の身代わりとして死んでくださいました。しかし、ただそのまま死んだのであれば、それはあまり意味のない死に方だったかも知れません。その死が単なる一人の罪人の死ではなかったということは、彼が三日目に死者の中から復活したからです。この復活の出来事によって、キリストの死は単なる宗教上の偉人ではなく、神そのものの死であり、全人類の罪からの開放と、死に対する勝利が宣言されたのです。キリストが復活しなければ、十字架も意味はありませんでした。でも、キリストは聖書に書いてある通りに、三日目に死者の中から復活されました。罪と死と悪魔に勝利して下さったことを宣言されたのです。これが復活の力です。

3.復活がなければ

Ⅰコリント15:12から読んでみましょう。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(Ⅰコリント15:12~13)

当時のコリント教会の信者の中にも、復活はないと主張する人々もいたようです。何度も申しますが、確かに死んだ人が甦るなんてことは普通は信じられません。もし、それが事実だとしたら、みんな教会に押し寄せてきます。おそらく毎週、次から次へとバプテスマを受ける人があるでしょう。死ぬ前に保険にでも入っておくつもりで、教会員名簿に登録するでしょう。でも実際は、誰も教会に来ようとはしません。それは復活などあり得ないと思っているからではないかと思います。あるいはキリストの福音である十字架と復活を知らないまま来ているのかもしれません。

ですから、私たちの信仰の出発点は、復活されたイエス・キリスト様と出会ったから始まったのではないでしょうか。主御自身が、まず最初にわたしに近づいて来て下さったからではないでしょうか。そして、主を信じた、だからこそこうして礼拝し、伝道しているのではないでしょうか。主は甦った、今も生きておられる、この方が生きておられるので私たちも生きて、主を証するのです。主が復活したので、私たちも復活する、主が生きるので、私たちも生きるのです。

4.復活の主との出会い

実は私は、高校生の時にバプテスマを受けたのですが、しばらくは復活ということを実感としては信じられませんでした。一応聖書教育とかバプテスマクラスでは学びますが、本当に復活の主が自分と出会って下さり、あのお方が今も生きておられる、という実感と言いますか、確信を持つのにはその後六、七年かかったような気がします。しかし、神様は不思議な導きによって、不信仰な私をその都度、教会に呼び戻して下さいました。そしてとうとう、三つの出来事を通して復活を確信させて下さいました。

一つは、スモールグループで夜、二、三人の仲間と一緒に聖書を読んでいる時でした。なぜ神は、この世界に戦争や争いというものを起こすのだろうか、神がいるならそんな悲惨なこと、不条理なことが起こるはずがないのではないかと考えておりました。そう反発しながらも聖書を読み続けていました。ところが、ローマ書を読んでいるうちに、神様は人間のかたくなな心を用いても、万民を救おうとされているということが解りました。そして、神様の十字架の義が第一であって、人間はこのイエス・キリストの十字架に示された神様の義に足して、口を差し挟むことはできないのだということことに気づかされました。人間は、ただ神の前にひれ伏すしかない存在だということを教えられました。(御言葉の啓示)

第二には、友人の葬儀の中で弔辞を述べた時に、目の前に横たわる遺体を目の前にして、神の啓示が与えられました。私はその時に、ローマ書の「キリストと共に死んだ者は、またキリストと共に生きることを信じる。」(ローマ6:8)と言う御言葉を朗読したのです。その時に、初めて彼は死んだのではない、信仰を持って眠りについたのだから、彼は今も生きているという復活の確信が与えられました。心からこみ上げてくる熱いものをこらえることができず、言葉が出て来ませんでした。(聖霊の啓示)

第三に、サラリーマン時代に、職場の労働組合の活動をしている中で、初めて自分の罪というものを、自覚させていただきました。一人の立場の弱い組合員を、組合脱退を思い留まらせるためにあの手この手を使って説得しました。その結果、その人を窮地に追い込み大きな心の傷をつけてしまいました。そこで、初めて、自分が信仰を持って良かれと思ってやったことが、逆に人を傷つけてしまったという自分の罪を目の前に突きつけられたのです。心から悔い改めました。そして組合活動から身を引いて、伝道者になる決心をしました。(罪の啓示)

このようにまるで、荒馬のように暴れ回っていた私を、神様は押さえつけてくださり、愛を持って出会って下さいました。そして、方向転換と言う回心をして、伝道者になる決心をしました。それは、やはり、主は生きているというこの一点です。主は甦って、み言葉と共に生きておられるのです。ですから、教会を離れないで、信仰を捨てないで歩み続けることが大事です。必ず復活の主が、一人一人に出会って下さいます。

5.世の終わりに向かって

最後に、キリストは復活した者の初穂となられたということを述べて終わりたいと思います。15:20から読んでみます。「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。ただ、一人一人にそれぞれ順序があります。最初にキリスト、次いで、キリストが来られるときに、キリストに属している人たち、次いで、世の終わりが来ます。」(15:20~24a) 

キリストは復活の初穂となられたと言っています。つまり、キリストが新しい命の甦りの最初の人になって下さったので、彼を信じている者も同じようにその復活の命にあずかって甦るというのです。二番目に復活するのはキリストを信じている人々ですが、Ⅰテサロニケの5:16以降(P.378)を読んでみますと、次のように書いてあります。

「すなわち、会津の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。」

主の再臨がいつ来るのかと、焦る必要はありません。ちゃんと合図があって、天使の声が聞こえて、更にラッパが鳴り響きます。それから主が下って来られます。その時に、先に召された兄弟姉妹が先に復活し、それから生き残っている私たちが、霊の体に変えられて一緒に空中に引き上げられ、天から降って来られたイエス様と空中で一緒になります。そのようにして、永遠に主と共にいることになると聖書にはあります。

最初にキリストの復活があって、次に主の再臨に際してクリスチャンの復活があり(先に召されたものが先に復活する)、そして最後にこの世の終わりがやって来ます。主イエスが復活されたからには、死者の復活もあり、世の終わりの時も来るということは確かです。その終わりの時は、神様しか解りませんが、私たちには否応なしに、死と言う事実は待ったなしにやって来ます。その時に備えて、みだらな生活やふしだらな生活、希望を持たない空しい生き方をしないで、しっかりと目を覚まして、いつ主が来られてもいいように、主の業に励んで行きたいと思います。                 (岡田 久)

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