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死者の復活

2009年6月14日(召天者記念礼拝)
         「死者の復活」
           (コリント人への手紙15:12〜24)

1.はじめに
主の御名を賛美します。
旧約聖書のエレミヤ哀歌の中に(3:22〜23)こういう御言葉がございます。「主の慈しみは決して絶えない。主の哀れみは決して尽きない。それは朝ごとに新たになる。あなたの真実はそれほど深い。」
毎日この教会で生活し、朝は鳥たちの声で目を覚まします。教会の広い庭と畑をコーヒーカップを片手に一巡りする間、いろんな種類の鳥の声を耳にします。特に、雨上がりの朝は、地面や木から水蒸気のような湯気が立ち上り、命が満ち満ちているような不思議な世界が現れます。草や葉っぱに夜露がいっぱいついて、まるで夜中に雨が降ったかのようなみずみずしい朝を迎えます。蜘蛛の巣まで露で光って、美しい幾何学模様を描いています。すべてが美しく感じられます。時々カエルやトカゲも出てきますが、この自然にマッチしているといいますか、爬虫類でも、なくてならない神の世界の一員だと思う時があります。

道を通る人も思わず、柵を超えて、この芝生と花のベンチに飛び込んで来たくなるような世界が現れます。世界の初めに神様は、夜を造られ、それから朝を造られました。聖書では夜が来て朝が来るのが一日のリズムです。そして私たちは、この復活の朝を待ち望みながら、毎日毎日、御言葉を心に抱きつつ、夜明け前の世界を歩んでおります。そして先ほどの聖書の哀歌にあるように、神様の慈しみと哀れみは、朝ごとに新しく私に迫ってくるような気がします。

私たちの一日は、いつもこの朝に向って進んでいます。そして、私たちの長い人生もこの復活の朝を目指して歩んでいるのではないのでしょうか。やがて、天からこの地上にイエス様が来て下さる再臨の日には、すべてのクリスチャンが、イエス様の御前に呼び出されて、栄光の霊のからだに復活することになっております。その輝かしい朝が来ることを信じて、私たちは毎朝、毎朝あたらしい思いと、新しい心を神様から与えられて歩ませていただいていることを感謝したいと思います。今朝も、そのような思いを持ちながら、先に天に帰られた兄弟姉妹のことを記念して、召天者記念礼拝をもっております。

さて今朝は宣教題を、「死者の復活」とさせていただきました。私たちの依って立つべき福音というのは、何と言ってもイエス・キリストの十字架と復活を中心とするものであります。とりわけ、この復活はキリスト教信仰の核心と言ってもいいかもしれません。

2.復活がないならば
でも、ある人が言いました、「聖書はいい事を書いているけれど、死人が甦るという復活と、結婚しないで子供ができたと言うマリヤの受胎の記事がなければ、信じてもいい」と。特にこの復活と言う出来事は、いつの時代も、又誰にとりましても信じられないことのようです。この聖書が書かれた時代もそうでした。コリント人への第一の手紙の15章は「復活の章」と言われていますが、ここでも同じように、復活に対するこの時代の人々の疑問や反対が述べられています。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたのあるものが、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。」(15:12〜13)「しかし、死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもいるかもしれません。」(15:35)つまり、「死者の復活などない」という反対意見と「一体どんな体で復活するのか」という疑問があげられております。もっともな疑問です。誰でもそう思います。

わたしもそういう信者の一人でした。信仰と言うのは生きている時の自分の生き方、信条のようなものであって死んだ後のことまでは信じられませんでした。父がガンで亡くなる時も、余命数週間の人間にとって、いかに生きるかという信仰は、あまり意味がないように思えました。死後の世界も、天国ももちろん復活も教理としては知っていましたが、心から信じて確信してはいませんでした。ですから何も話せないまま、父は48歳で最期を迎え、無念の思いを持ったまま死んで行きました。いろんな心残りがあったのでしょう。誰でもそうです。まさか自分がこんなに早く死を迎えるとは、本人も家族も病気の事実を受け止めることができませんでした。クリスチャンでさえ、うろたえ落ち込みます。誰もパウロのように、早く死んでイエス様のみもとに帰りたいと願う信仰に達するまでは、なかなか行きません。

そういう私にも、とうとう、友人の告別式を通して復活の主が出会ってくださいました。友人の遺体を目の前にして、「キリストと共に死んだ者は、又キリストと主に生きる」(ローマ6:8)という聖書の言葉を読んだ時、告別式の中で初めて、復活についての強い確信が与えられたのです。聖書の御言葉を通して主は私に出会ってくださいました。その時から私は、いっそう主の臨在、復活の確かさを信じて、信仰の道に精進するようになりました。そして、仕事を辞めて献身し、伝道者として歩む道を選びました。それは、一重に復活の主に御言葉を通して出会ったからです。イエス・キリストが死んで甦ったからには、この方を信じる私たちも同じように、信仰によって復活の命にあずかるのだという確信をいただきました。

ある人には聖書を通して、ある人には夢や幻を通して、又ある人には賛美を通して、主は復活の確信を与えて下さるでしょう。もしまだ、復活の確信を持つに至らないという方がおられますならば、恥ずかしがることはありません。正直にそのことを神様に告白すればいいです。背伸びすることも、いい格好をすることも必要ありません。神様は私たちの真実な心を、求めておられますから。

中世の有名な神学者アウグスチヌスは、母モニカのキリスト教信仰と祈りに反発して、マニ教という宗教にのめり込んでいました。女性と同棲したり堕落した生活をしていた息子のために、母モニカはいつも涙を流しながら祈っていました。ある時、一人の友人の訪問を受け、多くの人々が、官吏という公職を捨てて修道院に入って神に仕える生活をしていると告げられます。彼は、そのことに反発しますが、友人が帰った後で、自分の今までの堕落したこの世的な罪の生活を示され、庭のいちじくの木の下に行って泣き崩れました。すると、隣の家から子供達の歌うわらべ歌が聞こえてきました。「取りて、読め。取りて、読め。」その時、彼はハッとして家に飛び込んで、机の上にあった聖書を手に取ります。するとそこに「宴楽と泥酔、好色と淫乱、争いと妬みを捨てよ。主イエス・キリストを着なさい。己の肉欲を満たすことに心を向けてはいけない」というパウロの言葉が飛び込んできました。その瞬間、彼の心に不思議な平安が与えられ、光が差し込んで来るような気がしました。復活の主が、子供の歌と聖書を通して、彼に出会ってくださいました。この母の祈りによって回心したアウグスチヌスは、その後中世の偉大な神学者となり、多くの著書を著しました。

ですから、あきらめずに自分の思いを素直に申し上げて見ましょう。暗闇の世界に光を、絶望の世界に希望を、あきらめの世界に一筋の道を与えて下さいます。先日、昨年起こった秋葉原の通り魔事件の1周忌を迎えました。「殺すのは誰でも良かった。自分も死にたい。」と言って事件を起こした青年の声が聞こえてくるような気がします。秋葉原だけではありません。日本のあちこちで同じような事件が起こっています。「死にたい、誰でもいい」。彼らには生きる希望も責任も何もありません。全ては死に向っています。この暗闇の中でうめき苦しんで、出口を求めている日本人に、キリストの復活とやがて来るべき甦りの朝を教えてあげたいものです。死の向こうには、光の朝が待っていることを。最期には裁きがあること。ですから、生きることに投げやりにならないで、希望を持って、現実をしっかりと生きてもらいたいです。

私たちは、必ず復活の朝が来ることを知っています。その時には、先に死んだ者も皆甦らされて、もう一度主の前に出ます。今日、こうして記念の写真を立てて、一緒に礼拝している4人の信仰の先輩の方々、鴻田さん、上田さん、高橋さん、そして菊地君、皆さん、肉体は朽ちてしまいましたが、霊はイエスさまの懐に帰って、再臨の朝を待っているのです。この方々は死んではいません。また、お会いするのです。先に天に行かれて、復活の朝を待っているのです。今は天から私たちを見下ろして、しっかり伝道してね、家族をよろしくねと声援を送っておられるのです。

3.復活の順序 
次に、復活はどのように起こるかを、聖書から見てみたいと思います。まずその前に、人間が死んだらどうなるか見てみましょう。人生の最後の様子を書いた箇所があります。それはコヘレトの言葉(伝道の書)の12:7節です。
「塵(身体)は元の大地に帰り、霊は与え主である神に帰る。」とあります。つまり人間は死ぬと、この体の部分はもともと土の塵から作られたものですから、そのままお骨になって土に帰ります。そして、霊の部分は、神様から息を吹きかけられていただいたものですから、(創世記2:7)これは神様のところに帰ってゆきます。

体を離れた霊は、聖書ではパラダイス(楽園)(ルカ23:43)に行くと言われています。そして、イエス・キリストを信じないままでなくなった方の霊は、陰府(よみ)の世界に降ります。そこで、キリストの再臨の際に行なわれる最後の審判を待つわけです。(ルカ16:19〜26)この最期の審判の時には、そのまま、楽園に行った霊は天国へ行き、陰府の世界に降った霊はそのまま地獄に行くことになります。ですから、大切なことは、生きているうちにイエス様を救い主として信じることです。

そして、イエス様が天から再びこの地上に来られる再臨の時に、人々は甦らされます。この復活の時に順番があると、聖書に記されています。つまり、キリストの復活は既に起こりました。そして、このお方が復活しましたから、彼を信じている私たちも同じように復活するのです。テサロニケの第一の手紙4:16にはもっと具体的に、その復活の場面が述べられています。
「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、私たち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。このようにして、私たちはいつまでも主と共にいることになります。」

4.復活のからだ
最後に、じゃあ、一体どんなからだで私たちは復活するのか、そういう疑問を持たれる方もおありかと思います。岡田先生はまるで天国に行って来たみたいに、ズバズバと良く言えるものだと思う方もあるかもしれません。私も、天国はどういうところか、そこまで実際に行って見たことがありませんので何とも言えませんが、ただ、聖書にはこう書かかれてありますよとは言うことはできます。又、その事を信じております。第一コリント15:42以下を見てみましょう。

「死者の復活もこれと同じです。蒔かれるときは朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれるときは卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれるときには弱いものでも、力強いものに復活するのです。つまり、自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです。」(15:42〜44)

自然のからだであるこの肉にも、人間の肉、牛肉、鶏肉、魚の肉とありますように、いろんな肉があります。植物の体でもジャーマンアイリスのからだもあれば、ぶどうのからだもあり、サボテンのからだもあります。同じからだだとは思えないほどに、形態が異なります。それと同じようにいろんなからだがあるわけです。この目に見える人間の肉のからだもあれば、目に見えない霊のからだもあるわけです。霊のからだは目に見えませんが、存在します。そして私たちはすでにこの天から来る霊のからだをもいただいているのです。

そして、主の再臨の時には、一瞬にしてこの霊のからだに復活するのです。その時には、この先に召された兄弟姉妹とも、再び、主の前でお会いすることができます。私たちはそのような希望を持って歩んでいますから、目を覚まして日々、やがて来る復活の朝を待ち望みながら、余念なく主に仕え、この命の言葉であるキリストの光を高く掲げて歩んでゆきたいと思います。
                                                   (岡田 久)

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