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死に勝利する信仰 (Ⅰコリント15:50~58)

メッセージ

2014年9月28日富里キリスト教会

「死に勝利する信仰」
(Ⅰコリント15:50~58)

1.復活は奥義(神秘)である

今まで15章では、福音の中心、復活の事実、復活の順序と最後の審判、復活の体についてみてまいりました。そして今日は復活する瞬間、どのようにして復活するのか、そしてその時に何が起こるのかということについて述べられております。更にわたしたちクリスチャンは、今どのようにして信仰生活をするべきかという勧めが述べられております。

「兄弟たち、わたしはこう言いたいのです。肉と血は神の国受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません。わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。」(15:50~52)

「最後のラッパが鳴る」と言いますのは、イエス・キリストは再臨される時です。Ⅰテサロニケ4:16に「すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。」(Ⅰテサロニケ4:16~17)

ですから、主が再臨される時に、合図の号令がかかります。何という合図の言葉でしょうか。「主が来られます。すべての聖徒は御前に出でよ。」という言葉でしょうか。そしてその時にラッパが鳴り響きます。ですから、このラッパが鳴ったら、主が天から降って来られる時だと直感しなければなりません。全世界の人が聞きます。何のラッパでしょうか。トランペットでしょうか。トロンボーンでしょうか。いずれにしましても、クリスチャン全員が招集されるためのラッパであり、かつキリストが来られるという知らせを告げるラッパです。

聖書には、「たちまち、一瞬にして」朽ちない霊の体を身にまとうと書かれてあります。先に死んだ人と生き残っている人の召天の際の区別は、あまりありません。テサロニケの方は、先に死んだ人が甦ると書かれてあります。ここではそういう順番ではなく、もう一瞬にして先に死んだ人も生き残っている人も霊の体に変えられると言っています。

ラッパの音が聞こえたら、「たちまち、一瞬」とありますから、瞬時に変えられるのです。これはもう奥義と言いますか、神秘としか言いようがありません。信仰の眼で見るしかありません。「神秘」を告げますと、パウロは言っていますが、前に使っていた口語訳聖書では、「奥義」となっています。わたしも奥義の方がいいのではないかと思います。神秘ですとなにかマジックか幻想のような意味合いをもっていますので。「奥義」にしても「神秘」にしても、この主の再臨と復活召天の出来事は、信仰を持ってしか悟りえない事実です。

科学や調査によっては分かり得ない、信仰の目でしか解ることのできない出来事だということです。わたしも具体的にどういう「からだ」なのか分かりません。ただイエス様はこう言っています。「死者の中から復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ。」(マルコ12:25)と。天使のような姿だというのです。あの復活の空の墓穴にいた二人の天使のように、真っ白に輝いている姿と思い浮かべてみてはいかがでしょうか。これ以上は奥義ですから、人間の口では細かくは説明できません。実際に起こってみなければ分かりません。でも信仰を持って私たちは、その復活の栄光の体をみているのではないでしょうか。

2.死に勝利した信仰者

「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを必ず切ることになります。この朽ちるべきものが朽ちないものを着るとき、この死ぬべきものが死なないものを着るとき、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう。」(15:53~57)

56節に「死のとげは罪であり、罪の力は律法です。」とありますが、少し解りにくい言葉です。現代訳聖書では「死を来たらせるのは罪であり、罪は律法によって明らかにされる。」と訳しています。これはパウロの今までの罪と死と律法の関係について語ったものです。つまり、律法によって罪が明らかになり、この私たちの内に内在する罪の存在によって、人間に死がもたらされることになっているからです。

しかし、イエス・キリストの十字架の死によって人間の罪が贖われたならば、人間が一番恐れている死の問題も解決できるはずです。まさに「キリストは私たちの罪のために十字架に架かられ、罪を贖い御自身の苦しみと死を通して罪を完全に御自身の肉において処罰して下さいました。ですから、イエス・キリストにある者、即ち主を信じる者はもはや罪に定められることがない」(ローマ8:3)ということです。従って罪の結果である人間の死も、この時点で解決されている、即ちキリストにあってわたしたちはすでに死に打ち勝っているということを知ることができます。

キリストは十字架の上で、わたしたちの罪の贖いの供え物となって下さって、死んでくださいました。そして御自身の死において死を完全に打ち滅ぼして下さったのです。コロサイ1:21にこうあります。「あなたがたは、以前は神から離れ、悪い行いによって心の中で神に敵対していました。しかし、今や、神は御子の肉の体において、その死によってあなたがと和解し、ご自分の前に聖なる者、きずのない者、とがめるところのない者として下さいました。ただ、揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。」(コロサイ1:21~23)

わたしたちはイエス・キリストの十字架の死によって罪赦され、神と和解させられ、死にも勝利したものです。キリストが死んで復活されたように、主を信じるわたしたちもキリストにあって復活することを信じています。何度も言いますが、聖書はイエス・キリストの十字架の死と復活について力強く証しております。このことを無くして福音はありません。

わたしたちもパウロと一緒になって、「死よ、お前の勝利はどこにあるのか、お前のとげはどこにあるのか」と宣言しましょう。そして罪と死と悪魔に勝利されたわたしたちの主イエス・キリスト様に心から感謝と賛美を捧げようではありませんか。キリストは私たちの罪にために死んで、甦られました。それ故に私たちも主にあって、罪に死ぬバプテスマを受けました。それは墓に葬られても、またキリストと共に甦り、復活の栄光の体にあずかる者となることを信じているからです。肉体の死は、もはや私たちにとっては何の恐れも恐怖も不安も与えるものではなりません。

3.動じることなく主の業に励め

実に今日、わたしたちの信仰を揺さぶって、イエス様から引き離そうとするいろんな誘惑や試みが世に満ちています。パウロの時には、「復活などない」という人がいました、また「いったい復活の体なんてあるのか」という人もいました。そして、現在も「十字架の死はない」と言って聖書の教えと健全な信仰を脅かそうとする指導者がいます。エデンの園の蛇のように微妙な言いまわしをして、素朴な信仰を覆そうとさえしています。

ですから、私達はもっと真剣に自分で聖書を読んで、岡田牧師が言ったから正しいのだというのではなく、聖書に照らし、聖霊様の導きをいただきながら、自分自身で正しい教えを身に着けて行かなければならいと思います。そして、十字架と復活の信仰にしっかりと立って、惑わされたり動揺したりすることなく全力を注いで主の業に励みましょう。パウロも最後にこう勧めています。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」(15:58)

ここに、「動かされないようにしっかりと立ちなさい」と言っています。口語訳聖書では、「固く立って動かされず、いつも全力を注いで主の業に励みなさい。」となっています。いろんな教えや神学や信仰が出て来ている今日です。福音の中心である「キリストが聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり、三日目に復活した」という福音をしっかりと肌身離さずに持って、その上に立つことです。ここから外れてはいけません。

そして常に、全力を注いで主の業に励みなさいと言っています。わたしたちはすでにこの世にあって死んだ者です。キリスト共に死にあずかりました。今はキリストの復活の命にあずかっているものであり、すでに甦えりの命によって天の御座に座らせてもらっているものです。神の子です。イエス様の兄弟姉妹となる身分をいただいているものです。天に属しているものです。そして、主の再臨の時には、朽ちることのない栄光の体をいただいて主のもとに上って行くものです。たとえ今は、朽ちるべき弱い肉体をもっていましても、この肉の体を十字架の血によって聖めていただき、主の器として聖別していただき、主の御用のために用いられることを願っています。

最後にもう一度、58節の御言葉を読んで終わりたいと思います。「わたしの愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば、自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。」   

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