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欲望にふけるむなしき人間の罪 (ローマ1:18~32)

メッセージ
2021/5/2
富里キリスト教会礼拝説教
「欲望にふけるむなしき人間の罪」
(ローマ書1:18〜32)

①弁解できない
先週は、このローマ書のメッセージをぎゅっと凝縮された「福音を恥としない」という言葉を通してこの神の福音の恵みをいただきました。そして、その福音には神の義というものが啓示されているとパウロは語りました、いったいこの神の義というものは何によって表されているでしょうか。それは、まさしくイエス・キリストの十字架であります。キリストの十字架には神の義が貫かれているのです。それは、人間の不義、罪に対する神の御怒りの現れといってよいでしょう。
ローマ1:18
「不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。」

不義という言葉について少し説明をいたしますと、旧約において不義と訳された語にはいくつか語源があります。荒れる、暴れる、という由来。また過ち、懲らしめ、不正という由来。また悪、偽りなどの意味の語にも由来を持ち、様々な意味合いをもちます。また、新約においては隣人に対する悪しき行為を意味するものとして用いられています。それらに共通するものは不正、悪といってよいでしょう。人に対してのものでありながらもその根本は神への反逆であります。まさしく神のみ前において罪の状態といえるものです。そして、神様は私たちそのものを愛しておられながらも、この私たちの罪に対しては怒っておられるのです。
今週からしばらくは罪に対してのメッセージが続きます。ですので正直な話、いやだな、聞きたくないな、気が重いなと思われるかもしれません。正直、私もあんまり言いたくありません。罪人と言われて気持ちいい人はいませんし、言う方も決して気持ちが良いものではありません。ですから最近、この罪に関して語ることに消極的な教会も多くなってきていると聞きます。
しかし、パウロはこのローマ書においてまず、罪とはなんぞや、といったところを私たちに生々しくリアルに語っていきます。それはさばくためではありません。神の赦し、福音の恵みへと導くためであります。罪の苦しみ、悲惨さを知ってこそ赦しの福音で平安を受けることができるのです。これは苦しくとも救いに至るための必要不可欠なプロセスなのです。どうか、ここしばらくはぐっと我慢して言葉を受け取っていただきたいと願います。
神様は人間の罪に対して天で怒りを現されるとパウロは語ります。その罪は大きく分けて二つあり、一つは不信心。これは神に対する背き、反抗、不従順といった性質の罪であります。もう一つは不義、ここで言う不義とは今度は人に対する不誠実、そういった性質の罪だと言われております。神に対する不従順、また人に対する不誠実。切っても切れないものだと思います。神への不従順が人への不誠実さとして表れるでしょうし、人に対して不誠実な者はまさしく神に対して背を向けているといえるでしょう。この二つが合わさったものが罪の根本と言えるのではないでしょうか。
しかし、そんなこと言われても。神様の存在を知らなきゃ従いようがない。不従順と言われても困る・・・。そのように思われる方もおられるかもしれません。しかし、パウロはそのような言葉に対して弁解の余地なしと厳しく語ります。

ローマ1:20
「世界が造られたときから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造物に現れており、これを通して神を知ることができます。従って、彼らには弁解の余地がありません。」

私たちは教えられなくとも神様の存在を感じ、知ることができるのだとパウロは語ります。神は聖書という言葉によって啓示されていますが、それ以外にも全ての者に対してご自分を明らかにされています。それは、被造物。つまりこの世界そのものをとおしてお示しになっているのです。聖書を読んでいないクリスチャン以外の人であってもこの世界を見たとき、人は神の存在を感じているのです。たとえ、神を信じていなかったとしてもこの世界の素晴らしさをみて人は神を知るのです。What a wonderful worldという曲がありますがまさしく、そうでしょう。ワンダーフル。不思議に満ちたこの素晴らしい世界、そこに神秘を感じ、なにか偉大な存在、サムシンググレイトがいると人はどこかでわかっているのです。これは本当に多くの人が共有していることであります。
しかし、人は、その偉大な神の存在をどこかで知っていながらも、その神を認めず崇めません。その恵みに対して感謝をしません。罪という言葉は的外れという語源を持ちます。それとともに的を射るという言葉は、感謝するという意味合いを持ちます。感謝しないということは神から大きく離れ、大きく的を外した生き方なのです。そしてその人生において心の空しさというものがなくなるということはないでしょう。この世は儚く、虚しい。どこか刹那的になり心は鈍く、暗くなってしまいます。罪に対して鈍感になってしまうのです。悲しいかな人は、悪いことには簡単に慣れて、転がり落ちてしまいます。罪に対する認識が麻痺してしまうのです。全ての人間が神を知りながらも、神に背を向け無視し続ける。これが人類の罪であります。

②心の欲望にまかせられた
じゃあ、神様なんだからその人間が罪を犯せないようにコントロールすればいいじゃないか。そのように思う方もおられるかもしれません。しかし神様は、その人間の罪の心を欲望のままに、そのままにされました。これは神様が私たちを見捨てた、放り出したということではないでしょう。あえて、そのままにされたのだと思います。神様は私たち人間に対して無関心、放任主義ではありません。
しかし、束縛もいたしません。それは私たちのことを愛しているからです。真実の愛には束縛ではなく自由が伴うのです。神様の方からはそのご自身の存在を私たちにお示しになっています。また、私たちの心にも主は臨まれ、良心というものを与えてくださっています。たとえ律法を知らなくても自然にそれを人は守ろうとする良心が与えられていると、このあとローマ書2章でパウロは語っています。基本的に根源的なところは何が良くないか人はわかっているのです。誰に教えられなくても大半の人間は人を殺すという行為に対して躊躇を覚えるでしょう。良心がブレーキをかけるのです。他にも共通して良心が咎めるという行為は多くあるでしょう。しかし、時に人はそれを、自身の欲望ゆえに無視して超えてしまうのです。神への不従順、罪であります。
神様からちゃんとお示しになっているにも関わらず、人はそれに従わない。罪の責任は神ではなく、まさしくその本人、人間にあるのです。神様は私たちにそっちにいってはいけないと叫ばれます。しかし、ロボットにはしたくないのです。その人の意志によって帰ってきてほしいのです。ゆえに、神様はその心の欲望をそのままにされているのです。なのに、それを神が人の罪をそのままにするのが不誠実だというのは、大変お門違いなお話であるといわざるをえません。あくまで、この痛む世界、罪にあふれている現実は、それを選びとっている人間にこそ責任があるのです。そして、その中心にあるものは心の欲望であります。パウロはここでその欲望を端的に2つの事柄で表しています。
一つは偶像礼拝です。これは、他宗教を信じることを禁じるということだけではありません。偶像礼拝の根本は人の都合で自ら神を作り上げる、つまり自分自身を神とする自己中心の罪にあります。本当は見える偶像より、心の偶像の方が厄介なのです。拠り所は欲しい。でも縛られたくはない。そうして人は物言わぬ神を作り上げてしまうのです。
人が神を作るのではなく、神が人を造られた。この真理に立つとき、被造物である人間は、その創造主である神を賛美し、この被造世界を喜ぶのです。この真理にこそ被造物である人間のまことの幸いがあります。
2つ目の心の欲望の表れは性的な情欲です。これもまた、人が逃れられない罪の性質です。男女が人格ではなく情欲によって繋がると、互いに深く傷つけあってしまうことになります。ひいては不倫などをおこし、人生を破滅させてしまう。そういうことは今も昔も変わらず起こされ続けています。
また、同性同士での情欲。これもまた聖書は明確にNoといっているように思います。パウロはその関係を不自然であるといいます。神は人を男と女に造られた。ですからやはり男と女が結ばれるのが自然であるというのでしょう。この私の言うことに異論がある方もおられるかもしれません。その意見もそれはそれで、聖書的根拠があるのであれば尊重されるべきかもしれません。しかし、他方でそれならば私のこの解釈も一つ認められるべきであると考えています。
なぜこのようなことをわざわざ言うのかといいますと、それは、昨今社会ではLGBTと言われるセクシャルマイノリティーの人たちへ向き合い方についての議論が活発化しており、それはまた教会においてもどのように向き合うべきなのか。そういった議論がキリスト教界でも行われつつあるからです。これは、確かに私たちも真剣に考えなければならない事柄です。
しかし、個人的にはこのLGBTという言葉が一人歩きしているようにも思います。そもそもこの言葉でセクシャルマイノリティーの方達を一括りに捉えて考えることも如何なものかと思います。この中には同性愛の方もいればトランスジェンダーといわれる性同一性障害の方も含まれています。そこは個別に分けて丁寧に考えるべきでしょう。
聖書は先ほども言いましたが少なくとも同性愛に関してはNoと言っていると思います。しかし、この同性愛が罪だというのはただのリストの一つに過ぎません。私たちはあまりにこの罪だけをクローズアップしているように思います。パウロはこのあともっとたくさんの罪のリストを挙げていきます。それらのリストに当てはまらない人間はこの世にいません。私たち、すべての人間が罪人なのです。殺人犯であろうがなかろうが泥棒であろうがなかろうが、医者であろうがなかろうが牧師であろうがなかろうが、LGBTであろうがなかろうが罪人なのです。
そして、神に赦されない罪人もいません。神様は全ての者が救われることを切に願われています。自分の中にある罪を悔い改め、そのために十字架にかかられた主イエスを救い主と信じ、受けいれた者は全て、例外なくその罪が赦される。これが福音であります。LGBTが罪かどうか。それよりも私自身の罪がどれほど悲惨なものなのか。向き合うべきは自分の罪。そうではないでしょうか。

③罪の本質から赦しの福音へと
そして、私たちはその罪から現れる行動、目に見えるものだけにとらわれるのではなく、もっとその奥にある根元的な問題に目を注がねばならないでしょう。なぜ、偶像を拝み、情欲にまみれてしまうのか。それは心に問題があるからです。罪とは行動そのものというよりも、その行動を起こす心に関わることなのです。心に課題があるからこそ、その行動に表れるのです。
その課題とは神を認めようとしない、神に価値を置かないということです。そして、それは裏を返せば自我、欲望に価値を置くということです。快楽を求めた自己中心性がそこにはあります。自分を楽しませたい。神を知って何の得になる?人生の意味?そんなこと考えるのは歳取ってからでいいよ。それよりもっと得になる情報が欲しいんだ。そのような損得勘定で物事を測ってしまう価値観、神に背を向けた罪の性質が行動、身体を通して現れるのです。それゆえの貪りなのです。それは、性的なものだけではありません。先ほども言いましたが心に起こる罪のリストはたくさんあります。

ローマ1:29
「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無常、無慈悲です。」

心にはびこる罪、それは悪意に満ちている。妬み、貪り、人も神も憎む。・・・ちょっと、ここまで畳み込まれると気が重くなりますよね。受け付けたくなくなってしまいます。いやあ、ここまでひどくないですよ、と。しかしこれらのリスト、人によって大小はあるかもしれませんが必ずどこかでひっかかります。罪は誰かと比べることではありません。私自身の問題として向き合わなければなりません。もちろん牧師とて同じです。
この罪は言葉となって表れます。陰口、中傷、高慢、大言壮語。人の外からではなく中から出るものこそが人を汚すと主イエスは語られましたが、まさしくそのとおりでしょう。また、この罪は人との関係性の中でも表れてきます。親に逆らい、不誠実で無慈悲。人を慈しみ、憐れむ神の姿とはまるで真逆です。愛の真反対です。
・・・自分で言葉にしていて本当に苦しくなってきます。まるで聖書に責められているようです。自分の罪が明らかにされ、突きつけられるのは本当に辛いものです。御言葉とは私を励まし、癒し、慰めるものではなかったのか。そう思いたいです。しかし、御言葉は確かに慰めの言葉でありながらも、私の心を突き刺す言葉でもある。これもまた真理であります。

ヘブライ4:12
「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。」

しかし、その突き刺す言葉によって、私たちは自らの心の思い、罪に気づくことができるのです。厳しい言葉は私たちを叩きのめすためのさばきのことばではありません。これは救いに至るための架け橋なのです。神のみ心は私たちのさばきではなく私たちの救いなのです。
神さまはイザヤ1:18を通して

「たとえお前たちの罪が緋のようでも雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようにであっても羊の毛のようになることができる。」

と私たちに語られています。ここまで罪で汚れた私たちを主は憐れみ、雪のように白くしてくださると言われるのです。これは、まことに罪人にとってこのうえもない喜びの知らせであります。
主イエスは十字架において私たちの罪を背負い、身代わりになってくださいました。その贖いによって我々の罪はいかに重く深くとも春の淡雪のように消え去るのです。自らの罪が根底から除かれ、信じることで義とされるのです。罪があるにも関わらず無罪とされ、正しくなくとも正しいとしてくれる。何という恵みでしょう。この恵みの喜びは罪の認識が深ければ深いほどより強いものとなります。更に言えば、罪の認識がなければ救いの喜びを味わうことも、主イエスの十字架の恵みを信じることもできないのです。
ここまで罪に汚れた私を主は憐れみ、きれいにしてくれた。この認識です。罪人にこそ福音の恵みの喜びが骨身に染みるのです。はじめの苦しみがやがて歓喜の産声をあげることとなるのです。そしてこの主イエスを信じ、受けいれた時、イエス様は私の中で生き、その力によって罪の束縛から解放されるのです。自分の力ではありません。主イエスへの全面的な信頼によって、少しずつ少しずつ、自然と罪から離れていくようになっていくのです。
私たちの心は、本当に罪によって汚され真っ黒でした。しかし、その汚れを主イエスは十字架の血潮をもって洗い流してくださり、私たちはきれいに白くしてくださりました。でも、完全に真っ白ではありません。まだ黒いところもポツポツ残っています。今なお、罪は残っています。しかし、それでよいのです。だからこそ、救われてなお、今、私たちにはイエス様が必要なのです。今、なお残るこの罪の汚れを主イエスに洗い清めていただくよう、悔い改め、信仰を持ってイエス様につながり、御言葉に養われ、祈り求めながら歩んでまいりましょう。私たちは罪から一度救われたというのではなく、さらになお救われ続けていくという幸いな人生が与えられているのです。

武井誠司

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