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枯れた骨よ、主の言葉を聞け (エゼキエル37:1~14)

メッセージ
2016年10月23日富里キリスト教会

「枯れた骨よ、主の言葉を聞け」
(エゼキエル書37:1~14)

1.枯れた骨

さて今朝は、エゼキエル書の中で一番印象に残る場面です。エゼキエルと言ったらすぐにこの場面が思い浮かぶほど有名な個所です。「主の手がわたしの上に臨んだ。わたしは主の霊によって連れ出され、ある谷の真ん中に降ろされた。そこは骨でいっぱいであった。主はわたしに、その周囲を行き巡らせた。見ると、谷の上に非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。」(37:1~2)とあります。

エゼキエルと言う人は、本当に時々神様によって引き上げられて、いろんな所に連れて行かれる人のようです。時にはエルサレムの神殿へも行きました。今回は、戦場で多くの兵士の死骸が投げ捨てられていた谷の真ん中に連れて行かれました。戦争で亡くなった兵士もいるでしょうし、捕囚の途中で死んでしまった人もいるでしょう。敵に殺されて無残にも死んでしまった人々もいたことでしょう。その谷の中にはいっぱいの骨が散らばっていました。あるいは積み重ねられていたのもあったかもしれません。おびただしい数の枯れた人骨が累々と散らばっていました。

そしてこの枯れた骨が言葉を発しているのです。それが37:11に出ています。「主はわたしに言われた。『人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。彼らは言っている。「我々の骨は枯れた。我々の望みは失せ、我々は滅びる」と』」
(37:11)この枯れた骨、谷の中に散らばったおびただしい骨が、恨みつらみのこもった声で呟いているのです。

この骨の呻くような声、怨念のような声に、わたしは人間の行く末を見る思いです。何と言っていますか。「我々は枯れた」、「我々の望みは失せた」、「我々は滅びる」と言っています。まさに骸骨の呻きです。「枯れた」つまり、命がないということです。みずみずしい命が無くなって、カラカラに干からびて、後は地面に帰るだけです。そしてその次は「望みは失せた」、つまり「絶望」です。希望がない、お先真っ暗、終わったという感じです。そして「滅びる」と言うことは「滅亡」するということです。ただ単に終わるだけならいいですが、その先が滅亡と言う暗闇です。

ですから、この骸骨の言葉の中に、人間の行き着く先の果てしない絶望と暗闇を見る思いです。これが人間の行き着く先です。わたしたちも皆、やがては、この枯れた骨になります。日本ではさらにご丁寧にも、この枯れた骨を焼いて粉末にしてくれます。骨さえも残らないようにしてしまいます。この骸骨の姿は、実は私たち人間に行くべき最後の姿を示しているといっても過言ではありません。

皆さん目を背けないでください。これが人間の行く末なのです。干からびた骨です。やがてこれも腐って土に帰るでしょう。この人間の現実を見定めなさいと主は預言者に語りました。しかも普通の人間ではありません。神に選ばれたあの神の祝福の民の行く末なのです。神に選ばれ愛されていたにもかかわらず、神に背き続けてきた神の民の姿です。そこには何の希望も光も命もありません。干からびた骨になるしかないのです。

箴言29:18にこう言う言葉があります。「幻がなければ、民は堕落する。」と。これは、口語訳では「預言がなければ民はわがままにふるまう。」となっています。つまり、わたしたちが、希望がない、もう絶望だけだ、先がないと思っているならば、すでに私たちがこの枯れた骨のようなものであると言うことです。絶望している人、もう年だ、何もできない、先がない人生だと思っているならば、その人はこの骨です。生きてはいますが、死んだも同然のクリスチャンです。そういう人ばかりが集まっているならば、まさにこの教会は、あの谷中の死体置き場ではないでしょうか。

でも神の業はそこから始まるのです。絶望の中から、滅亡の中から、主の救いの業が起こされて来るのです。絶望しなければ分からない希望があります。見捨てられ、もうだめだと言ったところから始まるのが、神の救いの業です。デンマークの有名な哲学者キルケゴールは言いました。「真の絶望を知らない人間こそ、最も絶望すべきあわれな人間である。」と。この枯れた骨こそがわたしたちの現実なのです。そのことをまず知らなければなりません。そうでなければ、真の救いも経験することができないからです。絶望している人は幸いだ、命を失いかけている人は幸いだ、自分が滅びると感じている人にこそ救いがあると。
ではどうしたら私たちは生き返ることができるでしょうか。

2.枯れた骨よ、主の言葉を聞け

この谷中の骸骨の山を見せた後に、主はエゼキエルにこう言いました。「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか。」と。誰が見ても、「行き帰りません。無理です。もうどうしようもありません。」と答えるしかない現実の姿です。
エゼキエルも言葉が詰まって「主よ、あなたのみがご存じです。」と答えを避けました。(37:3)エゼキエルでさえも、その荒涼とした骨の山を見て、答えに窮しました。

すると主はこう言われました。「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちに向かって霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしはお前たちの上に筋を置き、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(37:4~6)

この枯れ果てた命も希望も将来もない骨が生き返る道は唯一つ、それは「主の言葉を聞く」と言うことです。そうです、この枯れたカンカン音がする骨が、息を吹き返し、再び命を得て立ち上がることができるのは、主の御言葉を聞くことなのです。この聖書の言葉、説教の言葉を聞くときにだけ、死んだ骨が、命を吹き返して生き返ることができるのです。

今、自分は生きて行く力も気力もないと言う人はいますか。今、自分には何の希望もない、お先真っ暗だ、立ち上がる気力もないと言う人はいますか。でも、そう人はまだ希望があります。自分がそういう状態だと言うことを知っているからです。そしてどうしたら、この絶望と空しさから生き延びるかと言うことを求めているからです。立ち帰る道を求めているからです。

この日曜日に、礼拝の中で語る宣教の御言葉に、骸骨を甦らせる力があるのです。後は本人がそれを必死に求めて聞くかどうかです。耳を傾け、目を皿のようにして、全身全霊を持って一生懸命聞こうとするならば、あなたの枯れた骨は生き返るのです。「主よ、お話し下さい。僕は聞きます。」(サムエル記上3:9)「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」(ローマ10:17)わたしたちが主の御言葉に、真剣に耳を傾けて聞くときに、その瞬間にその人は生き返るのです。

エゼキエルは主の命令に従って、枯れた骨に向かって預言しました。すると、何とカタカタと音が聞こえて、骨が寄り集まって来るではありませんか。枯れた骨が動き出しました。そして最初に、一個一個の骨がつながり、次にその上に筋と筋肉が付き、更にその上を皮ふが覆いました。バラバラだった骨が互いに相連なって、人間の体ができました。しかし、その人の中にはまだ霊が入っていませんでした。生物的な意味での人間はできました。しかし、人間を真に人間たらしめるのは、その体の中に神の霊が入らなければ生きた者とはならなかったのです。次にエゼキエルは霊に向かって預言するように命ぜられました。

3.霊よ、四方から吹き来たれ

「主はわたしに言われた。『霊に預言せよ。人の子よ、預言して霊に言いなさい。主なる神はこう言われる。霊よ、四方から吹き来たれ。霊よ、これらの殺されたものの上に吹きつけよ。そうすれば、彼らは生き返る。』わたしは命じられたように預言した。すると、霊が彼らの中に入り、彼らは生き返って自分の足で立った。彼らは非常に大きな集団となった。」(37:9~10)

骨が連なって人間の体ができただけでは、真に生きた者とはなりませんでした。
あのエデンの園で、神様がアダムを土の塵から造った時も、体はできましたが、神の霊である息が入りませんでした。動物としての人間でした。動物のように生きるのです。言葉が出て来ません。でも、神がアダムの鼻から息を吹きかけることによって、真に生きる者となりました。息はヘブライ語では、ルーアッハと言います。神の息、神の霊とも訳せます。

つまり神の霊が人の中に入ることによって、初めて人は生きるのです。神の御心が分かるのです。神様と同じ霊を持つことですから、神様が何を考え何を望んでいるかが、分かるようになり、神の御心に従って生きるようになるのです。これが神の霊によって生きると言うことです。神の御心を知り、神の前に生きる時に初めて人は生きたものとなるのです。神の言葉を理解し、神の言葉を話し、神の言葉の通りに生きることです。これが生きること、生き返ること、復活したと言うことです。この神の御言葉を聞かなければ生きたことになりません。神の霊を、聖霊様を受けなければ生きたものとはならないのです。

ですから、エゼキエルは、今度は霊に対して預言しました。「神の霊よ、四方から吹いて来い。」と預言しました。「この死んだ者たちの上に吹きつけよ、そうすれば彼らは生き返る」と預言したのです。すると、四方から霊が風のように吹き込んできて一人一人に中に入りました。そうしましたら、彼らイスラエルの全家は生き返って、自分の足で立ちあがりました。しかも谷の中に散らばっていたおびただしい骸骨でしたから、それらが生き返って大勢の群衆にまでなったのです。大集団になりました。

これは肉のイスラエルではなく、神の御言葉と御霊によって新しく生まれ変わった霊のイスラエルです。いったん死んだようなものですが、神の憐みによってふたたび新しく生まれ変わった霊のイスラエルです。石の心ではなく肉の心、新しい霊によって生まれ変わった人々の群れです。神の御言葉を真剣に聞いて、今までのかたくなな心を悔い改め、神の霊によって新しくされた人々の群れです。

神の御言葉と神の霊のみが、この枯れた骨を生き返らせることができるのです。主の御言葉に耳を傾けましょう。真剣に聖書を読み、聖書から主の御心を探し求める者となりましょう。わたしは今まで霊に預言したことはありませんでした。でも、今日聖書に書いてあるとおり、神の息である霊に対して預言させていただきます。「神の霊である息よ、主の御命令です。この枯れた骨のようなわたしたちに吹きこんでください。わたしたちは枯れています。希望を失いかけています。あなたがわたしたちに命の息を吹き買ってくださらなければ、わたしたちは絶え果てます。主よ、どうぞわれらに、あなたの霊を新しい霊を聖なる霊を自由の霊を吹き込んでください。そうすれば私たちは立ち上がります。そうすれば私たちは生きることができます。」と。(ここで霊に向かって祈る)

4.墓から引き上げる日が来る

更にエゼキエルはこの大群衆に語りました。「わたしたちはお前たちの墓を開く。わが民よ、わたしはお前たちを墓から引き上げ、イスラエルの地へ連れて行く。わたしが墓を開いて、お前たちを墓から引き上げる時、わが民よ、お前たちはわたしが主であることを知るようになる。」(37:12~13)

神様は、最後には「お前たちの墓を開く」と言われました。これは異国の地バビロンに捕囚となって来ていて、故国エルサレムに帰ることがなく、異郷の地で骨となってしまっても、主は、その墓を開いて神の都エルサレムへ連れて帰ると言うのです。これは最後の主の再臨の時を示しているのではないでしょうか。全世界に散らばった霊のイスラエルの全家が、あちこちの国の墓から引き上げられて、イスラエルの地に連れて帰られるというのです。もちろんこれは、あのイスラエルの国ではなく、天のイスラエル、帰るべき永遠の神の都エルサレムを指しています。

そしてその時に、本当に主が神であること、主が生きておられたこと、主が約束した通りにしてくださったこと、主の御言葉は真実であったということが分かるというのです。今はまだ約束の地イスラエルは見えていませんが、主の御言葉を通してその時を待ち望みつつ、この地上での生涯を旅することができるのではないでしょうか。どこに行っても、旅先でも、異国の地でも、必ず主はわたしたちの墓を開いて、そこから引き上げて下さると約束しておられます。

大事なことは、今、この枯れた骨を通して、自分たちの置かれている状態を真剣に考えることです。自分の弱さ、限界を認め、主の御言葉にのみ希望を置くことです。常に主の御言葉に向き合い、聖霊を求め、自分の足でしっかりと立ち上がることが大事ではないでしょうか。霊が入ると、枯れた骨が生きた肉を覆い、血管が通って、生きた者となり、しっかりと自分の足で立ちあがったとあります。わたしたちを真に生かし立ち上がらせて下さるのは、神の御言葉であり、これに聞くしかありません。そして神の霊である神の息を求め、御霊によって日々祈りつつ、聖霊に満たされて歩んで参りましょう。

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