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最後の晩餐 (マタイ26:17~30)

メッセージ
2,018年月26日富里キリスト教会

「最後の晩餐」
(マタイ26:17~30)

1.旧い契約から新しい新約へ成就

今朝はいよいよ、説教の上では受難日に入ります。最後の過越しの食事と最後の晩餐の場面です。そしてその重要な場面を挟んで、最愛の弟子達の裏切りとつまずきの話が出てまいります。26:14~16までが「ユダがイエスを銀貨30枚で売りに行く」場面です。そして17~25節までが「過ぎ越しの食事」の場面です。そしてその後に26~30節までが「主の晩餐」の場面、そしてその後に31~35節までが「ペテロのつまずきが予告」されています。

つまりこの箇所は、過越しの食事と主の晩餐の場面、そしてこの二つの場面を前半をユダの裏切りの記事でくくり、後半をペテロのつまずきでくくっている形になっています。この文脈はどういうことを意味しているかといいますと、実はこの部分が旧約聖書と新約聖書のつなぎ目ともなっているのではないかと思います。過ぎ越しの食事は、ユダヤ人がモーセ以来、あのエジプト脱出を記念して1300年間も伝承して守って来た大切な祭りです。そして今、イエス・キリストがその過ぎ越しの祭りの成就者としてこの世に来られました。そして旧約聖書の律法の意味するところが、今やイエス・キリストの十字架の受難によって、時満ちて成就したと言うことを意味しております。

ご存じのように、モーセがエジプトを出る時に、雄の子羊を屠って、その血を家の柱と鴨居に塗り、その肉を体ごと焼いて種無しパンと一緒に急いで食べて、脱出の準備をしました。そして彼らはモーセに導かれて、エジプトの国を脱出しました。その時のことを忘れずに、記念して行ったのが「過越しの食事」として言い伝えられてきました。

その過ぎ越しの食事が何を意味するかといいますと、「傷のない1歳の雄の子羊は」はイエス・キリストです。「家の柱と鴨居に血を塗る」と言うことは、キリストの十字架上で流された血潮を意味しています。ですから、神はその戸口の血を見て「災いを過ぎ越した」のです。これは後にキリストの十字架の血を受ける者は、裁かれずに救われると言うことを意味しています。そして「戸口に血のない家の初子はすべて撃たれる」と言うことは、神がその家を裁かれると言うことです。「腰に帯をして靴を履き、急いで食べる」と言うことは、キリストを受け入れて、この罪の世から急いで脱出すると言うことです。これが過ぎ越しの食事の意味しているものでした。(出エジプト記12:1~15)この古い契約をイスラエルの人々は1300年間、かたくなに守って来たのです。

そして今や主は御自分が、この旧約に預言された1歳の雄の子羊であることを示され、新しい契約を意味する十字架の贖いを示されたのです。それが次の主の晩餐式という新しい契約の儀式となりました。いわば旧約の「過越し」という律法が、主の十字架の救いを示す「主の晩餐」という新しい契約に成就し移行したと言うことです。すなわち、旧約から新約に代わったと言うこと、過ぎ越しの祭りが十字架の福音へ成就し完成したと言うことを言わんとしたのです。ですからこの場面は、ちょうど旧約聖書と新約聖書がつながっている場面として、とても大事な個所になっていると思います。

そしてこの新約と旧約の移行とつなぎ目の場面を挟んで、二人の弟子の姿が描かれています。一人は弟子の一人であり会計を任されていたイスカリオテのユダです。そしてもう一人は弟子のリーダー的存在でもあるペテロです。同じキリストの弟子であり主に愛されていた兄弟ですが、この最後の場面になって全く違う行動を取り、そしてその結果も全く正反対のものとなってしまいました。ユダは主を裏切り、ペテロも主につまずきどちらも離れてしまいましたが、その結果が決定的に違っていました。何が二人の弟子を分けたのだろうか、と言うことに焦点を当ててみてまいりたいと思います。

2.ユダの不幸

まず最初に、ユダの不幸についてみてみましょう。
「一同が食事をしているとき、イエスは言われた。『はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。』弟子達は非常に心を痛めて、『主よ、まさかわたしのことでは』と代わる代わる言い始めた。イエスはお答えになった。『わたしと一緒に手で鉢に食べ物を浸したものが、わたしを裏切る。人の子は、聖書に書いてあるとおりに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。』イエスを裏切ろうとしていたユダが口をはさんで、『先生、まさかわたしのことでは』というと、イエスは言われた。『それはあなたの言ったことだ。』」
(マタイ26:21~25)

先生と弟子たちが、恒例の過越しの食事をとっている時に、主イエスは突然、衝撃的なことを言われました。「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」と言ったのです。みな心を痛め、「まさかわたしのことでは」と言い始めました。主は誰が裏切るかを知っていましたが、弟子達の間では解りませんでした。主も今まで絶対その人を差別したり、非難したりせずにほかの弟子達と一緒に対応してきました。いやユダをもみんなと同じように、心から愛してきたのです。ヨハネ13章では、ユダの足も洗いましたし、わざわざユダに自分でパンをスープに浸して渡してあげました。その瞬間にサタンがユダの心に入りました。そして彼は、主からパン切れを受け取るとすぐに、部屋から出て夜の暗闇の中に姿を消して行きました。(ヨハネ13:21~30)

イエス様から足を洗っていただき、パンもいただいていながら、その愛の奉仕を十分に受けていたにもかかわらず、彼はその愛を振り払って一人、暗闇の中に消えて行ったのです。彼が主の手を振り払って出て行ったその背後に、イエス様を囲んで皆が楽しそうに食事をしている家の窓の明かりが見えています。でも彼はそれに背を向けて、自分から夜の暗闇へと出て行ったのです。なぜユダがイエス様を裏切ろうとしたかは、書かれておりません。

ただ、暗闇に姿を消したユダの行った先が、マタイの26章の14節以下に記されています。「そのとき、12人の一人で、イスカリオテのユダという者が、祭司長たちのところに行き、『あの男をあなたたちに引き渡せば、いくらくれますか』と言った。そこで、彼らは銀貨30枚を支払うことにした。」(マタイ26:14~15)とあります。マタイでは順序が逆になっていますが、皆さん、このユダの言葉を見て下さい。「あの男を引き渡せばいくらくれますか」と尋ねています。彼は金に困っていたのでしょうか。お金が欲しかったのでしょうか。

銀貨30枚と言いますと、今日の為替に換算してみますとわずか7,000円くらいになります。当時の貨幣価値ですと100万円相当ではないかとも言われています。旧約聖書には奴隷一人分の代金が銀貨30枚だとされています。(ゼカリヤ11:12~13)つまりユダにとっては自分の師であるイエス様は、たった奴隷一人分の価値しかないと言うことです。彼にとってはイエス・キリストは奴隷でしかなかったのです。彼はそう考えていました。奴隷の分の価値もないと彼は考えていましたから、「いくらで買ってくれますか」と持ちかけたのです。まるで物を売買するような取引です。彼にとっては物以下だったかも知れません。自分にとっては何の価値もない男、それが彼の本心だったのです。

じゃあなんで今まで、一緒のついて来たのでしょうか。それはユダにとっては、自分の立身出世、自分を高める物、自分にとって価値のある人だからついて来たのです。この人について行けば将来、何か良いことがあるにちがいない、そういう自分なりの理想像もってついて来たのでした。その理想という偶像が崩れた今は、彼にとってはイエスは何の役にも立たない者、奴隷以下の人間になってしまったのです。どこまでも彼は自分、自分でした。自分の理想のイスラエル、そして自分の理想の将来、自分にとってもプラスになることだったのです。イエス様との個人的な関係ではなかったのです。自分が第一何だったのです。主はユダの足も洗い、パンも取って与えたにもかかわらず、彼はそれを拒んで出てしまったのです。

主はこう言いました「人の子(ご自分)は、聖書に書いてあるとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」(26:24)残念ながら、ユダはイエス様から「不幸だ」と言われました。そして「生まれなかった方が、その人のためによかった。」とも言われました。人間の不幸ってなんでしょうか。不幸な人、不幸な人生ってなんでしょうか。それは、神様から愛されていながら、自分でその神様の愛に背を向けて離れて行く人ではないでしょうか。そして残念ながら、そういう人も弟子の中にいると言うことです。ユダは、この後の最後の主の晩餐式にはあずかれませんでした。これはやがて実現する天国での宴にはあずかれないと言うことを意味しています。

3.ペテロのつまずき

この時、ユダは一人で夜の暗闇の中に出て行きましたが、他の弟子達はどうだったでしょうか。彼らは最後まで主と行動を共にしたでしょうか。実は彼らも皆、この後のゲッセマネの園で、ユダに手引きされた群衆がやって来て主を逮捕しますと、クモの子を散らすようにして逃げて行きました。他の弟子たちもイエスを見捨てて、皆逃げて行ったのです。ペテロは弟子の筆頭として「たとえ、皆があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません。」(26:33)と豪語したにもかかわらず、後で三回もイエスを知らないと言っています。ユダと同じように弱い弟子達です。

でも、ここでもう一度注意をしておきたいのは、イエス様はユダが出て行った後で主の晩餐式を行っていると言うことです。これは何を意味しているのでしょうか。これはイエス様は、一人の滅びに行く者を御自分から引き離されたと言うことではないでしょうか。もちろん主は、ユダをどこまでも愛していました。最後の最後まで待っていましたが、彼はこの場に及んでも主を拒みました。弟子達は主の御もとに残って共に晩餐式を受けました。

この新しい契約である主の晩餐式は、イエス・キリストの無条件の罪の赦しとその愛を受け入れる者のみが受けることのできる儀式です。拒む者には無用のものです。いやかえってそのような人は、主の身体と血を犯すことになると警告しています。悔い改めない者には、この主の贖いの血潮は無駄になります。もったいないのです。自分の罪を悔い改めて者だけに与えられるのが、主の晩餐式です。

なぜかと言いますと、主の晩餐式はただ単に罪の赦しを宣言するのみではなく、イエス・キリストの体にあずかることも意味しているからです。罪赦され贖われた者として一つの体になるためです。イエス・キリストと共に主の十字架への参加を求めるものでもあるのです。自分を捨て、自分の十字架を負ってイエスに従うと言うことの献身の場でもあるのです。ユダはそれができませんでした。十字架を拒んだのです。それが彼の最大の不幸なのです。そして残された11人で、主は新しい契約のしるしとなる主の晩餐式を執り行いました。

「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。『取って食べなさい。これはわたしの体である。』また、杯を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。『皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。言っておくが、わたしの父の国であなた方とともに新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを飲むことは決してあるまい。』一同は賛美を歌ってから、オリーブ山へ出かけた。」(26:26~30)

これが新しい契約による新しい儀式です。旧約の預言が目指した新しい契約です。つまり自分の罪を認め、主の前に罪を悔い改めるならば、どんな人間でも赦されるという新しい契約です。あのユダでさえ、もしイエスを裏切ったことを悔い改めて、主の前に涙を流して出て来るならば、彼でも赦されるのです。しかし、彼はそれを拒み続け、とうとう最後は自分で自分の命を絶つという二重の不幸を背負ってしまいました。どこまでも主を拒み続けたのです。まさに不幸な人生、生まれなかった方がいいと言われた弟子でした。

そしてペテロも同じように、主を裏切りました。「どこまでもついて行きます」と言いながら、自分も逮捕されそうにあると、「自分は関係ない、知らない、イエスなんか呪われよ。」という言葉を吐いて、拒んだのです。でも彼はその後に、外に言って暗闇の中で、自分の不信仰に男泣きに泣きました。そんな弱く信仰のないようなペテロのためにも、主はとりなしの祈りをしていて下さったのです。彼のためにこそ、主は肉を裂き血を流して下さったのです。それがこの主の晩餐式の意味です。たとえ罪を犯してもその罪を心から悔い改めるならば、主は赦してくださると言うことです。

ペテロとユダを分けたもの、それは自分の罪を認めて悔い改めて主のもとに立ち帰るかどうかです。どこまでも悔い改め拒むならば、ユダのようになってしまうと言うことです。悔い改めることのない人生、それが不幸な人生ではないでしょうか。わたしたちはいつでも悔い改めることができるのです。ですから毎月毎月、主の晩餐式を持って自分の心の中を調べているのです。その悔い改めの晩餐式はやがて、天国が完成した時の大宴会にもつながって行くのです。それが、主の晩餐の意味です。

皆さん覚えているでしょうか。「ふさわしくないままでパンを食し、主の杯を飲む者は、主の体と血とを犯すのである。また主の身体をわきまえないで飲み食いする者は、その飲み食いによって自分に裁きを招くと勧められています。顧みて、おのおの自分の罪を深く悔い改めなければなりません。このようにして信仰と真実とを持って主の晩餐にあずかりましょう。」(Ⅰコリント11:27~28)と勧めています。

悔い改めない者は、自分に対して裁きを招いていることにあるのです。ですから、本当に心して真実を持って心からの悔い改めを持ってあずからなければなりません。不用意に、悔い改めずにあずかる者はユダと同じです。いやむしろ主の体と血を汚すことになります。「主の身体をわきまえずに、飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです。」(Ⅰコリント11:29)と聖書は警告しています。

残念ながら、悔い改めなかったユダは、この主の最後の晩餐式にはあずかれませんでした。彼がそれを決断し選びました。これが彼にとっての最大の不幸だったのではないでしょうか。ユダはこの後、自分のしたことを後悔して、銀貨30枚を神殿に投げ込んで立ち去り、自分で首つり自殺をしてしまいました。「わたしは罪のない人の血を売り渡し、罪を犯しました。」と言いました。しかし彼はその告白を祭司長に言っているのです。イエスには告白していません。後悔しただけです。(マタイ27:4~5)どこまでも主の前に、悔い改めて立ち帰ることがなかったのです。そして、自分の人生も自分の命も自分で始末しました。

一方ペテロは、イエスの裁判中に「お前も仲間だ」と言われ、それを三度も否定しました。「仲間なんかじゃない、知らない。」と。そのとき鶏のなく声を聞いて、彼はハッと気がつきました。「鶏が鳴く前にわたしを三度知らないと言う」と言った主の言葉を思い出したのです。そこでペテロは、外に飛びたして行って、暗闇の中で人知れずに男泣きに激しく泣き崩れました。どうしようもない自分、不信仰な自分、主を裏切ってしまった自分のふがいなさに泣き崩れたのです。(マタイ26:74~75)

これが最後の晩餐にあずかると言うことです。主イエスのたてられた新しい契約の血にあずかると言うことです。たとえわたしたちが拒んでも、逃げて行っても主の愛は留まることなく、わたしたちの上にあふれるほどに注がれています。すべての人が、この主の十字架の恵みと救いの中に置かれています。背を向けずに、主の顔から逃げることなく、罪を持ったままで、罪を告白し主の前に立つと言うことです。

主の十字架の血潮が全ての罪を赦し、帳消しにしてくださいます。恐れることはありません。今は恵みの時、救いの時です。新しい契約、新約の時代です。福音の時です。救いの時代です。主の晩餐にあずかることのできる恵みの時です。ですから、ユダではなくペテロのように、自分の罪を心から悔い改めて主の恵みに生きる者となりましょう。        

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