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最も小さい者から受ける祝福 (マタイ25:31~46)

メッセージ
2021/3/14
富里キリスト教会礼拝説教
「最も小さい者から受ける祝福」
(マタイ福音書25:31〜46)

①最後の審判
先週は、来るべき終末を迎えるにあたり、私たちがどのようにして待ち望むべきなのか。十人のおとめの例え話を通して、普段から油断することなく毎日の信仰生活を誠実に過ごすよう、目を覚ましておきなさい。そういったことを学びました。今日も引き続き、終末に関する事柄の箇所となります。マタイ福音書では24、25章において終末のしるし、そしてその終末に対してどのように向き合うべきかという事柄についてずっと書かれており、今日はその完結の部分に当たります。

マタイ25:31−33
「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えて来る時、その栄光の座につく。そして、すべての国の民がその前に集められると、羊飼いが羊と山羊を分けるように、彼らをより分け、羊を右に、山羊を左に置く。」

終末が来るに当たり、地震や飢饉、偽キリストの出現などの前兆、しるしが現れ、苦難の時代が続きます。そして、その後人の子主イエスは、この地に再び来られ、栄光の座につかれます。そしてこの地は終わりを迎え、新しい世界、新天新地が始まります。そして、その新天新地に入るものは死も苦しみもなく神と共に永遠の喜びと平安の中、生きることとなります。
しかし、残念ながら全ての者がその新天新地に入れるわけではありません。終末と聞くと、どこか緊張や恐怖を覚えてしまう人がおられると聞きます。一体何故か。それは、この最後の最後で、すべての人間は神のみ前で永遠の命か永遠の死か、そのどちらかに選り分けられる、さばきの時が待っているからでしょう。
これを最後の審判といいます。この情景を描いたミケランジェロの絵などは大変有名で、そのおかげかノンクリスチャンの方でもこの言葉は知っている人は多くおられるのではないでしょうか。
今日の箇所はこの最後の審判について書かれており、その様子は牧者が羊と山羊を右と左により分けるように行われると書かれております。羊とヤギはよく似た動物であり、それゆえ同じ群れの中に混じり合っていた。そういうケースがあったようです。しかし必要な場合はよりわけることもあり、最後の審判はあたかもそのようだとイエス様は言われます。また聖書では羊はヤギよりも価値があるものとされており、右のほうが左よりも尊い場所であるとも考えられていました。つまり羊が救われる側ということです。
羊たる信仰者はさばきにおいて、公に受け入れられ、無罪を宣言されて、神が用意した新天新地に迎え入れられます。そこにおいて主のみ前からくる満ち足りた喜びと慰めを受ける者となるのです。その点から見て私たちにとって終末は救いの完成を意味します。私たちにとってさばきは恐れるものではなく永遠の命の約束の成就である平安なのです。他方、キリストを信じない者は地獄に投げ込まれ、永遠の死を迎えるとも聖書には明確に記されています。
ここにつまづき、とまどいを覚える人も多いと聞きます。不公平だとか、クリスチャンだけ救われるとはなんと排他的なとか、神は愛なのだからといってさばきを否定する人すらいると聞きます。しかし、裁きと救いは表裏一体。コインの裏表のように分かちがたいものです。さばきを信じねば救いも信じられません。なぜなら私たちの救いとは永遠の死のさばきからの救いを意味するからです。私たちは、最後の審判において有罪とはさばかれません。なぜか。それはイエス様が私たちの身代わりとなってすでにさばきをうけてくださったからです。それが十字架の贖いです。私たちのために犠牲となってくださったのです。ただただ、私たちを愛するが故にです。神様は私たちにここまで愛を示してくださいました。この愛を受けとめ、信じた者が罪ゆるされるのです。
そもそも罪にまみれた私たち、人間は本来が全員地獄行きなのです。それを神様は全力で回避なされようとされたのです。このプレゼントを受け取るだけなのです。しかし、頑なに受け取らない。最後まで神に背を向けるものには残念ながら裁きが待っています。逃げることはできません。人は最終的に必ずけじめをつけなくてはならないということは、世の中の法律においても、この神の裁きにおいても同じことであります。
しかし、聖書が私たちに伝えたい第一メッセージはさばきではありません。そこから救い出す方が来られたのだということが最も私たちに伝えたいメッセージです。裁きの警告ではなく、救いの福音にこそ私たちは目を留めていきたいと願います。
信仰によって救われる。しかし今日の箇所では羊と山羊が分けられたポイントは小さき者に対して愛のわざを行なったのか行わなかったのか。そういった点がポイントとなっているように見えます。行いというものが審判に左右するのか。そういった疑問がでてくるかもしれませんが、決してそうではありません。ここでは、あくまで信仰が問われています。ポイントは信仰のしるしとして愛のわざが表れているのかという点なのです。ともにこの箇所を深く見てまいりましょう。

②羊の信仰
まず、羊、右側に選り分けられた人たちを見ていきましょう。彼らに対して王様は
「さあ、わたしの父に祝福された人たち、天地創造の時からお前たちのために用意されている国を受け継ぎなさい。」

と祝福をします。そしてこの羊の信仰者は天地の創造のときから神の主権によって決められているといいます。救いの恵みにあずかる信仰者は神様にえらばれたゆえにそのようになれているのです。信仰の根拠は私たちの意志ではなく、その意志に働きかける神の主権なのです。
そして、王様はその羊の信仰者をあなたたちは私を食べさせ、飲ませ、もてなし、時に病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたと褒めちぎります。確かにそれだけしてたら、自信満々にまあ、御国を受け継ぐのも当然ですよねと言ってもいいかもしれませんね。俺はやったんだ。と。
しかし、彼らは王の言葉を受けて驚きます。私たち、いつ、あなたにそんなことをしましたっけ?そんな感じです。まるで何かやったという自覚がないのです。この彼らの姿から、何か行いをすることによって御国に入ろうとする意識が全くなかったことが窺えられます。
愛のわざとは救いの根拠にはなりません。しかし、信仰者であれば、おのずと愛の実践というしるしが表れてくるものです。本物の信仰とは観念的なものではなく、キリストの愛に突き動かされて、目の前の人にその愛が注がれていくものなのです。裏を返せば行いの伴わない信仰というものは存在せず、ヤコブ書においては行いなき信仰は死んだものとさえ言われています。

ヤコブ2:15−17

「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい。』というだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」

そして、まことの信仰は、最も小さな者に目を注ぐようになります。十字架の愛はまず、最初に神と私の間に縦軸の愛が貫かれ、その愛は横軸、隣人へと溢れ流れていきます。神への愛と人への愛は矛盾せず分かち難く、繋がっているものなのです。それどころか、最も小さい者にしたことが私にしたことなのだとまでイエス様は言われるのです。
時に私たちは、神は重んじますが、小さきものを軽んじてしまうことがあります。しかし、まことの信仰者は愛が中心にあります。神様から見ると小さき者とはまさしく、私たち一人一人の人間が当てはまるでしょう。神様はこの小さき我らを愛しておられるのです。そして、その愛を受け取り、信じた者は、その神様が私たちを愛してくださったように、弱く、小さく、助けが必要とする存在を同じように愛したいと願うのです。この私という小さき者に主が目を留めてくださったように、私もそうありたい。そして、その愛は目に見える形で現れるのです。ここでは、御国に入る信仰者には必ず、目に見える愛、しるしが伴っているということが語られているのです。

③山羊の信仰
他方、山羊、左に選り分けられた人たちの方はというと、王様から大変厳しい言葉が投げかけられます。

「呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。」

何と恐ろしい。彼らは悪魔と同じ扱いとされ、永遠の火に投げこまれるというのです。羊とのあまりの温度差の違いに背筋が凍る思いがします。そして、王様はこの山羊の信仰者たちにお前たちは、私が飢え渇いていても食事も水も与えず、旅をしていても、もてなさず裸であっても服を着せず、病気であっても見舞いもせず、牢に入っていても訪ねなかったと厳しく責めます。羊の信仰者たちと全く逆のことを言われてしまいます。
しかし、その言葉に対して彼らは不満をぶつけます。いつやらなかったのか。俺たちはちゃんとやってきたぞ。そのように山羊の信仰者たちは主張します。この姿は羊の信仰者たちとはまるで真逆のような姿です。羊の信仰者たちは自分たちがしてきたことに気づいていませんでした。まるで自覚がありませんでした。しかし山羊の人たちは自分たちはやったと憤慨します。この姿から、彼らが信仰のように見えて、実は行い、功績によって義と認められようとしていたことが窺えられます。
このような者に対して主は離れよと厳しく突き放します。実はマタイ福音書の中で別の場面で同じように「離れよ」と厳しく語られている場面があります。

マタイ福音書7:22−23
「かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、私たちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

私はやった。預言も悪霊追い出しも奇跡も行った。山羊の信仰者たちもこのように言いたかったのかもしれません。食事の施し?見舞い?そんな小さなことよりも私はもっとでかいことをたくさんしたのだ、と。しかし神様はそんな者を全然知らないと言われます。自分の功績を誇り、御国に入ろうとするものなど私は知らないと主は突き放すように言われるのです。
預言、悪霊追い出し、奇跡。とても大きな事柄で非常にインパクトもありますね。人は大概、こういったものの方に目を向けてしまいます。これが牧師や熱心な信徒の大きな落とし穴になることがあります。たくさんバプテスマを授けた。多くの人に伝道し、救いに導いた。教会も大きくなった。10人から500人になった。本を出して有名になった。奇跡を起こして有名になった。しかし、このように誇る者に対して主は、それがどうしたと言われます。
たとえ、そうであっても、目の前の泣く者を素通りするあなたを私は知らないと言われるのです。なぜならこの山羊の信仰者は神に熱心なようで自分が救われることしか考えていないからです。これはあえて厳しく言うと、まがい物の信仰と言えるでしょう。まことの信仰とは神と自分の間に愛が貫かれており、その愛が隣人へと必ず流れていくものです。痛み、泣き、助けを必要とする小さき者に目が留まり、御霊によって突き動かされ、その者に寄り添うのです。熱心であっても自分の救い、功績しか見ず、横に愛が広がっていかないものは信仰のようで信仰ではないのです。信仰には必ず愛が伴うのです。この事実を深く共に、真摯に受け止めたいと願います。

④救いのしるしである愛のわざ
私たちは羊でしょうか。それとも山羊でしょうか。山羊かなぁ・・・。そう思う人もいるかもしれません。しかし、嘆く必要はありません。イエス様のこの言葉は厳しいですが、今、私たちの信仰がどこにあるのかということを気づかせてくださるものです。今の状態に絶望せず、しっかりと自分の信仰を吟味して向き合うことが大切なのです。愛が欠けていると痛感する者はイエス様の十字架を共に見上げましょう。私たち人間は弱い者です。愛したくても、もらわなければ愛せないのです。イエス様から十字架の愛をあふれんばかりにいただこうではありませんか。
飢え、渇き、人生を放浪し、裸で病をもち、牢で鎖に縛られている小さき者。これこそ罪に囚われ、苦しみ惨めで憐れな私たちそのものではないでしょうか。主はそんな小さな私たちを憐れみ、全てを与えてくださいました。この小さき者に愛を注いでくださったのです。しかし、そこには大きな犠牲が伴っていました。それが十字架の贖いです。主ご自身が、飢え、渇き、痛み、牢にいるような死刑囚として十字架にかかってくださったのです。イエス様はこの小さき者の代わりに最も小さき者となってくださったのです。
これが十字架の愛です。この愛を魂の全てで受け止めることが信仰なのです。元々、小さな者が主イエスの憐れみによって満たされた。そう思ったら、目の前にかつての自分と同じように苦しむ小さな者がいたら、いたたまれず、何かせずにはいられない。イエス様が私を愛したように私も愛したい。そのように突き動かされていくのです。イエス様の掟を守りたくなるのです。

ヨハネ福音書15:12
「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」

そして、その愛は具体的な行動として様々な形で現れてくることでしょう。罪の根本解決につながる伝道。世界中の貧しい者に必要な糧を与えること。被災地ボランティア。助けを必要とする者、子供や高齢者、障がい者などサポートする福祉。生きる中で悩み、苦しみ、泣く者の側にいて、耳を傾け、手を取り、抱きしめ、祈り、寄り添う。どれもが中心に愛があります。愛のわざは画一的ではなく多様性に富むものなのです。
主イエスが私を愛したように私も隣人を愛していきたい。その愛は、自分を誇るものではありません。イエス様から受けた愛を返していきたいという、愛の応答なのです。そして、その愛の応答をイエス様は私自身にしたことであると大変喜んでくださるのです。
小さき者、助けを必要とする隣人を愛するということはイエス・キリストを愛するということとイコールであります。神への愛と隣人への愛はワンセットなのです。神と私の愛の関係が貫かれる縦軸、そしてその愛が隣人へと広がっていく横軸。その縦と横が交わってはじめて、イエス・キリストの十字架の愛が表れるのです。この十字架の愛に生きる者こそがまことの信仰者なのです。愛さなければ救われないということではありません。救われた者には必ずしるしとして、愛が表れるということです。
私たちは神に選ばれた、愛の伴った羊の信仰者です。どうか、そのことを胸にいつも留め、永遠の火に焼かれると恐れを持ちながらではなく、私たちにはすでに御国が用意されているのだという平安の中、愛された者としてこの地でキリストの愛を表していこうではありませんか。
最後に一言、みことばをお読みいたします。

1ヨハネ3:16−18
「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによってわたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのをみて、同情しないものがあれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう。」

武井誠司

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