ようこそ、富里キリスト教会の公式ホームページへ

星を見上げて (マタイ2:1~13)

メッセージ

2012年12月23日富里キリスト教会
「星を見上げて」
(マタイによる福音書2:1~13)

1.三人の博士と一つの星(人生の始まり)

「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来て、言った。ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。わたしたちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」(マタイ2:1~2)

彼らは、イスラエルの民ではなくいわば異邦人ですから、神様の言葉である旧約聖書や預言の言葉が与えられておりません。しかし、たとえ預言の言葉が与えられていなくても、自然現象を観察し、探求しようとする人には、自然現象そのものが聖書であり、神の言葉でもあったのです。神様は、森羅万象を通して、ご自身のことを語っておられるのです。ですから、たとえ聖書がまだ伝えられていなくても、すべての人々に神様の存在は、啓示されているのです。(ローマ1:20)

そしてこの学者たちが目指している真理へと導くものが、この空に輝く大きな星でした。まったく分野が異なる専門家ではありましたが、異常に輝く大きな星を見つけ、その星の指し示すところに科学の真理、自分たちの研究と探求の目標があるということを発見したのです。つまり、すべての自然現象は、この大きな光輝く星を通して、その星の指し示すところに探求すべき真理があるということではないでしょうか。

また、ある注解書には、この三人の博士は、専門分野の違う学者であると言う以外に、それぞれの出身地を表しているともありました。黄金の取れる国の人、乳香の産出する国の人、没薬を多く造り出す国の人と言ったあらゆる民族をこの三人の博士が代表しているともありました。たとえ民族や言語、文化が違いましても、自然というものを観察し探究する限りにおいて、すべての人々の目指すところはこの飼い葉桶に寝ておられるみどり子なるイエス・キリスト様なのです。

この一つの星を見上げることによって、私たちは一つとなることができます。また、専門分野や、民族、文化だけではなく、身分や性格や性別の違いもこえて一つとなることができるのではないでしょうか。競争相手を見るのではなく、上を見上げて、一つの目標を目指して、共に探求の旅路を歩むことです。金メダルでなくていいのです。銅メダルでも良い訳です。また、一番ではなくても、二番でもいいではないですか。共に、一つの星を求めて一緒に探求の旅をすることです。そこに一致があり、真の平和があるのではないでしょうか。なぜなら、星は天高く輝いています。でも人間はこの星の前には皆同じ被造物です。神様から見たら、いくら背伸びしても皆どんぐりの背比べのようなものです。横を見ないで、上を見上げましょう。

2.王の不安(人生の試練)

ところが、この三人の博士の訪問を受けて恐れを抱いて狼狽した人がいました。それが、当時ユダヤ地方を支配しておりましたヘロデ大王でした。3節から読んでみましょう。

「これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は民の祭司長たちや律法学者たちを皆集めて、メシヤはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは言った。『ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さい者ではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである。」』そこで、ヘロデは占星術の学者たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、『行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう』と言ってベツレヘムへ送り出した。」(マタイ2:3~8)

ヘロデは、このすばらしい良き知らせを聞いて驚き、不安を抱いたとあります。どうしてでしょうか。ヘロデも町の人々も、正直言ってメシヤが来るということさえ信じていませんでした。そして何よりもヘロデが恐れたのは、自分以外にも王がいるということでした。しかも自分よりも優れた王、聖書に記されている救い主です。王の王、主の主なるお方です。ヘロデの心は千路に乱れ、その新しい王を亡き者にしようと、博士たちに嘘をつきました。自分も拝みたいから、あとで生まれた場所を教えてくれと。

ヘロデの目は、この博士たちと同じように、天に輝く大きなユダヤの星を見つめているのではなく、自分と同じ王、しかも自分よりも偉い王がいるというその王に向かって目を注いでいました。つまり、横を見ていたのです。相手を意識して、上を見ることを忘れ、自分の目の前にいる人に向かって嫉妬し、ねたむ心を持ってしまいました。わたしたちの中に、このヘロデのような心はないでしょうか。

私たちの目が上を向かずに、横を向く時どうなりますか。たとえ、相手が、自分より劣っていたとしても、そこには比較と競争、ねたみ、しっとと言う思いが湧き上がって来ます。信仰生活に入って、たいていの人が経験するのが、この誰か他の人と自分を比べてしまうことです。そして、自分の方が優れていると安心し、自分の方が劣っているとガッカリして、教会から足が遠のいてしまいます。

また気の強い人は、逆に、相手の人に反発し攻撃をしてくることがあるかもしれません。相手は、何も気にしていないのに、自分で劣等感を持ち、自分を守ろうとする自己保身の気持ちから、相手を避けたり逆に、相手にいじわるをしたりしすることがあります。それは、その人がうらやましいのです。神様は、絶対にAさんとBさんを比較していないのに、自分でダメだと思い込んでしまうのです。それは上を見上げていないからですね。

私たちが上を見上げない限り、この劣等感と妬みや嫉妬と言う思いは心から離れません。これが人間の罪の姿だと言ってもいいかも知れません。イエス様を十字架につけたのも、ユダヤの指導者たちの妬みです。ヘロデが、あの罪もないベツレヘムの幼子を皆殺しにしたのも、この妬みです。カインが、自分の弟アベルを殺したのも、妬みです。神様は決して、ヘロデを非難しているわけではないのです。お前は、二番目の王様だと言っているわけではないのです。

神様は、全ての人を愛して御子をこの世にお遣わしになりました。ユダヤの王ヘロデのためにも、神様は御子をお遣わしになられたのです。私たちが、上にあるもの、天から、神様から目を放す時に、その目は隣の人を見てしまいます。そして、不安を覚え、劣等感にさいなまれ、心が病んでしまいます。そして、あの人こそいなければという思いになってしまいます。ですから、絶対に目を天から離さないようにしましょう。人に何と言われても、誰が隣に来ようとも、常に目を天に注いで、あの光輝く大きな星を見つめて歩もうではありませんか。

実は、この三人の博士たちも、東の国からずーっと星を見上げて旅をして来ましたが、ユダヤの国に入り、王のいるエルサレムに足を踏み入れた時に、あの、大きな星を見失ってしまいました。博士たちも、目がふさがれました。この間、3~8節までは、星は出て来ていません。目が星から離れて、ユダヤのこの世の王のところに行ってしまったのです。三人の博士たちも不覚にも、ヘロデ王と会見している時には、この星を見失っていました。そして間違って、この世の王のところに行ってしまったのです。

3.幼子を拝む(人生の目的)

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、当方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。家に入ってみると、幼子は母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。ところが、『ヘロデのところに帰るな』と夢のお告げがあったので、別の道を通って自分たちの国へ帰って行った。」(マタイ2:9~12)

9節の言葉の中に、原文のギリシャ語には(口語訳、新改訳聖書)、「見よ!」(behold)と言う言葉が入っています。わたしは、これは短い言葉ですが、本文から抜かしてはいけない言葉だと思います。なぜかと言いますと、博士たちがヘロデとあっている間は、この星は見えていませんでした。そして、ヘロデから離れた時に、再び星が現れたのです。ですから、9節は「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、『見よ!』東方で見た星が先だって進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。」となるわけです。

これは、道を外れた博士たちが、再び、星に導かれる信仰の道に立ち帰ったことを意味しているからです。彼らも、長い信仰の旅路の中で、この世の王に頼るという失敗をすることもありました。でも、再び、以前の信仰に立ち帰って、上を向いて、星を見つけて、星に従って歩み始めたことを意味しています。彼らは、星に従いました。星の後を行きました。星より先に立つことはありませんでした。そしてついに、その星が指し示す家にたどり着いたのです。彼らの長い人生の終点にたどり着きました。この真の王である方を捜し出し、そのお方の前に出て、ひれ伏して礼拝すること、これが学者、研究者の最後の人生の目的なのです。

三人の博士は、自分たちが生涯かけて研究し調べてきた自分の専門分野の宝物を、この飼い葉おけの中にいる幼子イエスに贈り物として捧げました。どんなにか満足したことでしょう。自分たちが生涯かけて研究してきた全ての宝物を、御子の前にささげたのです。この世の科学上のどんな研究も発明も、すべては御子イエス・キリストに捧げられ、御子のために用いられるべきものです。

その彼らに対して、神様は、新しい生き方、新しい人生の道を示して下さいました。それが、最後の「別の道を通って自分たちの国に帰って行った」と言う御言葉です(12節)。彼らは、この世の王様に会い、この世の王に頼るという生き方から変えられました。神様の御言葉によって、歩んで行くようになったのです。そして、自分たちの国に帰って行って、そこで、このベツレヘムで生まれた救い主を宣べ伝える者となりました。

私たち人生も、この博士たちと同じです。この世の王に頼らず、横に目を向けず、私たちの罪を贖い、甦られて、今は天におられる御子イエス様と父なる神様を見上げて、心を一つにしてこの信仰の旅路を歩んでまいりたいと思います。                   
                       (岡田 久)

powered by Quick Homepage Maker 4.50
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional