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明日のことを思い悩むな (マタイ6:25~34)

メッセージ

2015年7月19日富里キリスト教会

「明日のことを思い悩むな」
(マタイ6:25~34)

1.後ろを見ながら、前を見て、今を生きる

先日、NHKの「あの時を忘れない」という3.11の震災についてのラジオ番組を聞いていました。一人の愛するわが子を、震災の津波によってボーリング場でなくしたお母さんのお話でした。大地震、大津波のあった3・11から4年経っていますが、どんどんと町の復興が進んで行く中で、あの忌まわしい出来事を誰もが忘れられようとしています。しかし、このお母さんは、津波の後、息子を探しにボーリングに行きました。たくさんの遺体がボーリング場のレーンの上に並べられていました。しかし、もう遺体の損傷が激しくて、顔を見ても確認ができないという紙が貼られていました。でも、かろうじて裸足の足の爪の形からわが子だと確認できたそうです。その時以来、自分の時間は止まったままだというのです。絶対あの日のこと、息子のことは忘れられないというのです。

復興した新しい町並みになっても、そのボーリング場の跡地に出かけて行っては、わが子のことを思い出すのだそうです。周りからは、「何でここにきているの」とか「早く息子さんを忘れて、前のように元気にならないと、息子さんも成仏しないよ」と言われるのだそうです。でも、その方にとっては逆に過去のことを無かったかのようにして復興して行く姿が、かえって残酷なような気がしてなりませんでした。そして今、彼女は、あの悲しい出来事の生きた証人として、「語り部」というボランテイア活動を始めたとのことでした。

呼ばれればどこへでも行って、あの日のことを語る働きです。そしてそのことによってしか、自分にとっての未来はないとおっしゃっておりました。あの日のことを語ること、息子のことを口にすることによって、初めて心が慰められ癒されて、前に一歩を踏み出すことができるというのです。これからは、後ろのことを忘れるのではなく、4年前の過去のあの出来事をしっかりと見つめ向き合って、未来という前に目を向けて、今という時間をしっかりと生きて行きたいとおっしゃっておりました。

パウロがこう言いました。「このようにいつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは愛である。」(Ⅰコリント13:13)と。わたしたちも、信仰を持って二千年前のあの十字架の死を思い出し、それに向き合い、やがて来たるべき救いの完成である栄光の未来を希望をもって待ち望みながら、今というこの時を、愛をもってキリストの福音の語り部として生きて行きたいものです。(主の晩餐式)既に先取りされ、成就した未来でなければ、わたしたちの本当の希望とはなりえないのではないでしょうか。悲しみの事実の向こうにある未来こそ、真に生きる力となるのではないでしょうか。

2.神の国と神の義を求めなさい

「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種もまかず、刈り入れもせず、倉に納めることもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養って下さる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも伸ばすことができようか。何故、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意してみなさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を究めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装って下さる。まして、あなたがたはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」(マタイ6:25~34)

なぜわたしたちが思い悩むのか、心配事が絶えないでしょうか。それは簡単です。余分なことで思い悩んでいるからです。すなわち、自分の領域と神の領域を分けて、自分の領域の中で、自分で、何とかしようとあくせくしているからです。自分の寿命を一年でも長くすることさえできないのに、何を食べようか、どんな健康食品を飲もうか、どんなサプリメントをとろうかと、どこの病院がいいかということで、何とかして寿命を延ばそうとしているからです。

また、よく受ける質問ですが、「先生、家計が大変です。仕事に出ようかと思うのですがどうしたらいいでしょうか。」「先生、家が火の車です。借金までしてしまいました。にっちもさっちもいきません。どうしたらいいでしょうか。」「家のローンが払えません。」「子供の教育費がかかりすぎてしまいました。でも何とかいい大学に入れたいです。」実に次々といろんな生活上の不安や心配事が寄せられます。牧師は、信徒の生活設計や家事、家計簿まで指導をしなければならないのでしょうか。

ある人は言いました。人間に心配の種は尽きないと。人間の抱く心配や不安というものは、心の中ももやもやとした実体のない蔭から生じるのであって、それは虚像や思い込みにすぎないのだというのです。自分だけを見た時、そしてこの世のことにばかり目を奪われている時には、この心の陰の部分が大きくなってくるのだそうです。いわば幽霊のようなもので、実体は存在しないというのです。心のなかに、「お化け恐い、お化け恐い」という恐れがあると、夜、庭先に干していた真っ白いシーツを見て、お化けだと思ってしまうのだそうです。そんなものは存在しないにもかかわらず、自分の心の中の暗闇がシーツをお化けに代えて投影しまうというのです。

そうではなく、大事なことはまずこの順番を変えることだとイエス様はいました。生活上の心配が先に来て、それからイエス様に助けてもらおうとすることではなく、まず先に神様をいつも考えていることです。イエス様をいつも意識していることです。わたし達は、この順番が逆になっていますから、最初から「ああだめだ」「できない」「怖い」となってしまうのです。自分の力で何とかしようとし、自分の考えで解決しようとする限り、心配や思い煩いは解消されません。ますます大きく膨れ上がって行き、引きこもり、うつになってしまいます。

ですからイエス様は、まずこう言いました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」と。つまり順番が逆だというのです。極めて簡単なことです。先に食べ物や衣服のことを求めるから、お先真っ暗の人生しか見えてこないのです。まず神様の御支配と神様の義である十字架のイエス様を見つめなさいと言っているのです。

3.今を生きる

最後に、何度も言いますが、先に明日のことを求めてはいけません。まず第一に求めることは神の国と神の義です。二千年前に、わたしたちのために肉を取ってこの世に来て下さり、わたしたちの罪を贖い、赦してくださったイエス・キリストをまず第一に思いだすことです。そしてこのお方で心の中を満たしていただくことです。これが神の国、神様の御支配を求めるということです。そこにわたしたちの明日があり、未来があるのです。

それでもわたしたちは、明日のことを思い患い、心配しながら年を重ねて行くかもしれません。でも、どうにもならない明日のことで、心を悩まし心を暗くして、せっかく神様から赦されている「今」という時間を無駄にはしたくないものです。30節に「今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。」と嘆いておられます。本当に信仰の薄いものです。この世のことばかりに目を取られ、それを追い求めているような幼なくて、箸にも棒にもかからない薄っぺらな信仰を持ったクリスチャンかも知れません。そういう私たちです。

でもイエス様は、明日は炉に投げ込まれて灰になってしまうような、小さな野の草でさえ、神様はちゃんと覚えていて下さり、あの栄華を極めたソロモン以上に良くして下さっているではないかと言っています。明日は焼かれてしまう運命にある野の草です。それでも野の草の美しさは、他に比べる物がないくらい美しいではないですか。確かにそうです。野の草ほど美しいものはありません。それは明日という日を心配しないで、今日を精一杯生きているからではないでしょうか。

野の草も空の鳥も、自分たちが神様の手にあるという確信を持っているのです。彼らの運命と未来は、自分たちを育てて下さる天の神様の御手の中にあると信じているのです。彼らは、無条件に神の国と神の義の中に生きているのです。ですから、今というこの時を美しく生きて行くことができるのではないでしょうか。わたしたちも野の草のように、この体は最後には炉に入れられて灰になってしまうかもしれませんが、でもわたしたちの命はすでにキリストの中にキリスト共にあるのです。十字架の贖いによって、死ぬことはなく永遠に生きるのです。

あのカルバリの丘の上の十字架のイエスを、信仰を持って、まず最初に見上げましょう。これが神の国と神の義を求めることです。生活の中心であり、人生の目標です。そして、このお方の約束された復活の朝を、希望をもって待ち望みつつ、今日という日を精一杯、生きようではありませんか。ここに信じる者の美しさと自由があります。あの野の草や空の鳥のように、わたしたちも心配や思い悩みから解放されて、愛と赦しの内に自由に生きて行きたいと願っています。  

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