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日毎に新しく造られる (ガラテヤ6:1~2、11~18)

メッセージ
2019年6月2日富里キリスト教会
「日毎に新しく造られる」
(ガラテヤ6:1~2、11~18)
1.パウロの主張

この手紙が訴えていることは、昔の出来事ではなく、今の教会で起こっている問題や争いの現実について語っているのです。正直言って、ガラテヤの教会員はお互いに咬み合い、共食いをしている状態でした。どこの教会もそうです。今まで五つの教会に仕えさせていただきましたが、どこの教会でも、マングースとハブのようなお互いに咬み合うような喧嘩を繰り広げておりました。主イエスの十字架の贖いの血潮と赦しの血潮が必要なのです。だからこそ、わたしたちは毎月毎月イエス様の血を飲み、肉を食べながら、自分を反省し、自己吟味し、悔い改めるのです。

ですから教会は常に、主の晩餐式が必要であり、それが教会の心臓部だと言っても過言ではありませんでした。カトリック教会はキリストの聖体にあずかることによって、罪の赦しをいただくということに晩餐式の意味を見ています。しかし、プロテスタント教会は、儀式だけではなく、そこに聖書の勧めと戒めを入れて、信徒がもっと自分の内側の罪に触れて反省し悔い改めることを目的としております。外形だけではなく、もっと内面化したのです。そしてメッセージと参加者の証が付け加えられました。

今日の聖書箇所の中でもパウロは繰り返しています。パウロが、最も大切な教えとしていた十字架の言葉が述べられています。「しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(ガラテヤ6:14~15)これが今日の中心テーマです。そしてこのガラテヤ書のテーマでもあります。新しく造られること、そして愛にあって働く信仰が大事だということです。

割礼を受けていることを誇る。外形的な肉を誇る。それは自分の行いを誇ることだと先週お話しました。あの「白い巨塔」の財前教授のように、自分の肉の誇りである外科手術の腕を誇ることによって、自分のうちに眠っているトップになりたいという罪が芽生えてきました。そしてあらん限りの努力をしたわけですが、最後にはその肉の誇りが逆に彼を死へと追いやってしまいました。わたし達クリスチャンはそういう肉の誘惑からは解放されているはずです。「ねばならない」という律法の呪いの鎖からは解放され、自由になった者たちの集まりです。

パウロはその自由を自分のためではなく、相手のために用いなさい。これが本当にキリストの愛の教えですよということを学びました。律法の束縛から自由にされた者が、その自由を自分のために使うのではなく、相手のために使うこと。これが「自分を愛するようにあなたの隣人を愛することです」と教えました。常に相手がどう思うかです。自分が良ければというのではありません。それは子供の考えですね。相手が、他の教会員の方がどう思うか、未信者の人がどう思うかということを常に念頭に置いて行動することです。それが真の自由を得るために召し出されたもの使命です。

Paul always insisted that we should be created in new one day by day.
Through the Lord’s supper we should reflected on ourselves and repent our sins in our heart. And it is important for our love not to go to ourselves but to the others. The love to go to the others is that we should speak the truth in love. We never boast except in the cross of our Lord Jesus Christ.

2.キリストの律法を全うする

そこで今朝は、その自由に基づいた愛とは具体的には何かということについて、さらに述べています。相手に向かう愛とは何かということです。それが6:1~2の御言葉です。「兄弟たち、万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、“霊”に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい。あなた自身も誘惑されないように、自分に気をつけなさい。互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです。」(6:1~2)

どこにも完全な人はいませんし、完全なクリスチャンもいません。長い信仰生活、一度は不注意で罪を犯してしまうこともあります。いや一度だけではないという人もいるかもしれません。皆そういう失敗や過ちを繰り返しながら、罪を何度も悔い改めながら信仰の旅を続けています。おそらくこの6章の「不注意にも罪に陥ったなら」とう言葉は、ガラテヤの信徒の中で、律法主義的なユダヤ人クリスチャンたちに誘惑されて、割礼を受けてしまった人たちのことを指しているのではないでしょうか。そういう過ちを犯してしまった兄弟に対して、彼らを非難したり、切り捨てたりするのではなく、本当に霊に導かれていると思う人は、柔和な心でそういう人たちを真の信仰へと立ち返らせてあげなさいと勧めています。

ここではあくまでも、万が一間違って道を踏み外してしまった人に対しての対応の仕方を述べています。意識的に間違った教えを言いふらしたり、福音を捻じ曲げようとする人や、トップに立とうとして策動する人々のことを言っているのではなりません。不注意にも、そういう人に引きずられて、知らないで罪を犯してしまった人のことです。そういう人に対しては、見下げたり非難したり排除したりするのではなく、過ちは指摘しますが、その人が悔い改めて福音の真理に立ち帰るようにすることです。これが本当のキリストの律法ですよと教えています。

今まで律法は良くない、自分の力や知識を誇る人間の行いだから、悪であると言ってきましたが、モーセの律法と違うキリストの律法もあるのです。モーセの肉の律法は、相手の罪を暴き出して責めて裁き、その人を死に至らしめることを目的としていました。しかし、キリストの律法はそうではなく、失敗や罪を指摘したうえで4つのことをするようにと教えています。

第一は「柔和な心」を持つことです。激しい怒りっぽい心ではありません。柔和で優しい寛容な心でしょうか。第二に「罪を犯した人を正しい道に立ち帰らせる」ことです。罪を犯してしまった人を裁き立てて、鬼の首でも取ったみたいに攻め立てて容赦なく完膚なきまでに叩きのめしてしまうことではないのです。そうではなく、その人が立ち直って正しい道に立ち帰れるように図ってあげなさいと言うのです。

第三は、戒める人自身も「罪に誘惑されないように気をつけなさい」と言っています。罪の誘惑と戦いなさい。自分も罪の誘惑に引き込まれないように気をつけなければなりません。第四に「互いに重荷を負いあいなさい。」ということです。自分が正しくて、相手が間違っているということはありませんから、お互いに相手の失敗や欠点を指摘してもいいですが、自分にも落ち度はあるということを認めて、お互いに赦しあうことです。これがモーセの肉の律法と異なる、キリストの霊の律法です。これはあくまでも万が一謝って罪を犯した人の場合です。意図的に上に立とうとして、仲間を悪の道に引きずり込もうとするような人に対しては、パウロは絶対に妥協はしませんでした。

Then what is the true love oriented to the others? Paul said “If someone is caught in a sin, you who are spiritual should restore him gently. But watch yourself, or you also may be tempted.” (6:1) Nobody is a prefect Christian. We committed a sin and may commit a sin. So we should never judge or exclude that person. Rather we response him with a gentle heart and restore him to the right way and watch ourselves not to be tempted. Trough that attitude of love we will fulfill the law of Christ.

2.十字架のもとに立ち帰る

「この通り、わたしは今こんな大きな字で、自分の手であなたがたに書いています。肉において人から良く思われたがっている者たちが、ただキリストの十字架の故に迫害されたくないばかりに、あなたがたに無理やり割礼を受けさせようとしています。割礼を受けている者自身、実は律法を守っていませんが、あなたがたの肉について誇りたいために、あなたがたにも割礼を望んでいます。しかし、このわたしには、わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世はわたしに対し、わたしは世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです。」(6:11~15)

いつの時代でもどこの国でも、どんな教会でも、人間が生きている限り、わたしたちの中には罪があります。どんな罪かと言いますと、12節にありますが、
「人から良く思われたがっている人」です。誰でもあります。○○さんはよくできる、よくやっていると。わたしもそういう欲求はあります。でも教会では、自分の良い点ではなく、むしろ十字架を誇りなさいと言っています。つまり、自分の失敗、欠点、弱点を出して、それを誇るところが教会です。そして、こんなわたしでもこうして迎えられ、愛され、大事にされている。これが十字架を誇ることです。

でも多くの人々は、よく思われたいと思っています。やった人自身なにもその実をつけていないのです。御霊の実である愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という聖霊の結ぶ実が全然ついていないのです。だれもほかの人を救いに導こうとしない人です。「マスターライフやった?CWTやった?」と言って自分を誇り、「あなたはそれをしていないからだめね。」と言って、相手を軽視していることはないでしょうか。修了書もらったということだけを誇りにして、まだやっていない人を自分の下において自分が上に立とうとしていないでしょうか。これは弟子訓練の誘惑と落とし穴です。

弟子訓練も肉の律法主義に陥る危険性があります。表面的なもの、知識的なもの、を取り扱うかぎりにおいてその人は優位に立つことができるからです。頭の良いクリスチャンが良い実をつけるでしょうか。自分の内側が取り扱われ、内側の心が清められないならば、弟子訓練も意味がありません。いくらやっても実を結ばないからです。新しい魂を生み出し育てることができません。霊的な働きができないのです。ですから心が大事なのです。その人の心の内側が変革されるかどうかです。そういう心の弟子訓練、そういう心の学びが必要です。

つまり自分の罪が示されて、心から悔い改めて、その人が内側から新しくされてゆくことです。自分の罪の告白です。皆さんは自分の罪についてあまりにも盲目ではないでしょうか。自分の内なる罪を認め、それを見張らなければなりません。そうでないと自分は愛の行為をしていると思い込んで、相手を悲しませたり、つまずかせたり、傷つけたりしているからです。そんなことさえ気が付かないほどに、惑わされているのでしょうか。でも、わたしたちは主にある兄弟姉妹です。神の家族であり、霊の兄弟姉妹です。お互いに戒め合い、お互いに罪や過ちを指摘し合う仲です。いつもいいことばかりではありません。時には厳しいことも必要です。そしてその言葉に謙虚に耳を傾けて、聞きあい、お互いに悔い改めて行く群れです。これがお互いに重荷を負い合う愛の共同体です。

In anytime and anywhere and any church we have a sin as long as we live. What kind of the sin? That is those who want to make a good impression outwardly. They never proud of the cross of the Lord. They always proud of their performance outwardly. They never reflect on their heart and confess their sins. God want treat our heart and inner person and make us new through the Holy Spirit. we should surrender our heart to the Lord openly. In the church we should not do it by our self and power, we love each other. We have a love not to go to ourselves but to others. We should always care for the other member of the church. If someone is caught in a sin we should point out his sins and restore him gently and watch ourselves not to be tempted. These fellowship of love we will be change from the faith to the faith and from the glory to the glory. What counts is to be created in new day by day.

教会は、人から良く思われようとして頑張るところではありません。互いに愛し合う群れです。自分に向かう愛ではなく、自分を喜ばせる愛ではなく、相手に向かう愛です。相手がどう思うかが大事です。しかし、時には自分を喜ばせようとして、相手を傷つけたり悲しませたりしてしまうことがあります。群れを壊したり傷つけたりしてしまうことがあるかも知りません。意図的にした人は厳しくとがめる必要がありますが、もし万が一謝って、あるいは知らないで、不注意にも罪を犯してしまった場合には、キリストの律法をもってお互いに戒め合いましょう。

何度も言いましたが、「あらわな戒めは、隠された愛にまさる。愛する人の与える傷は、忠実さのしるし。」(箴言27:5,6)自分に向かい、自分を喜ばせる愛ではなく、相手に向かう愛に立つことです。ときには相手を傷つけることがありましても、真理をハッキリと指摘してあげることです。そして柔和な心で相手の罪、過ちをしっかりと指摘してやり、その人を打ちのめしてしまうのではなく、本当の愛と信仰へと、つまり十字架の下へと立ち返らせてやることではないでしょうか。これが日毎に新しく造りかえられてゆくということではないかと思います。教会は生きています、血が通っています。息をしています。動いています、成長しています。そういう愛と真理に立つ、成熟した教会を目指してゆきたいと願っています。(岡田 久)

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