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新天新地と新しいエルサレム(ヨハネ黙示録21:1~4、21:22~22:5)

メッセージ

2016年5月29日富里キリスト教会

「新天新地と新しいエルサレム」
(ヨハネの黙示録21:1~4、21:22~22:5)

1.新しい天と新しい地

「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きもない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」(黙示録21:1~4)

わたしは良くキリスト再臨の時に、クリスチャンがどのようにして復活して天に上げられるのかと言うことは、主日礼拝の説教や葬儀説教の中で何度も語って参りました。今日はその後、復活して主に空中でお会いし、主と共に永遠に天に生きるということは、具体的にはどうなるのかと言うことが書かれてあります。その前に、1節にこうあります。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。」とあります。つまり第一の最初の天地はなくなるというのです。神様は、「最初のものは過ぎ去った。わたしは万物を新しくする」(4節)というのです。今わたしたちが住んでいるこの天地創造以来の世界、この地球、宇宙というものが取り去られて、全く新しい世界と言いますか新しい空間が生じると預言されています。

聖書ではただ「新しい天と新しい地」とだけ記されています。ヨハネはそれを見たのです。雲があって、海はあって、動物やいて、魚が泳いでいて、空には鳥が飛び交っているこの世界が一新されるのです。そしてこのことは言葉を持っていない動物や植物がはるかに仰ぎ望んでいた世界でした。ローマ8:21にこう言う御言葉があります。「つまり、被造物も、いつか滅びの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共に呻き、共に生みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中で呻きながら待ち望んでいるのでいます。」(ローマ8:21~23)とあります。

つまりあの被造物、動物や小鳥や木々も、やがて「神の栄光に輝く自由」にあずかることを呻きながら待っているというのです。被造物も罪の滅びから解放されて、栄光に輝く自由の時がやって来ると預言されています。そういう世界、新天新地が来ると言うことを動物たちも知っていて待っているのです。そこにはもはや今までの世界のように、海もなくなってしまうのです。太陽の光や月の光も必要ありません。神の栄光が永遠に輝いている世界です。

2.涙をぬぐい取ってくださる神

この新天新地が成就してから、次に新しい神の都エルサレムが天から降って来ます。21:2に「更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から降って来るのを見た。」(21:2、10)とあります。新天新地が成就した後に、神の都新しいエルサレムが天から花嫁のように美しく着飾って降って来るのをヨハネは目撃しました。全く新しい栄光に輝くエルサレムです。そしてその都の大きさは、正方形のような形をしていて、一辺が一万二千スタデイオン(=約2,220キロメートル・1スタディオン=185メートル)の都です。

そしてそれを囲んでいる城壁の高さが64、8メートルとあります。この城壁は碧玉でできていて、都の大通りは透き通ったガラスのような純金でできていました。この都の十二の門には十二部族の名前、そして十二使徒の名前が刻まれてありました。そして城壁の土台石は十二の宝石で基礎が据えられていて、どの門も一個の真珠からできていました。そしてこの新しい都には神殿はありません。神御自身が神殿となっていてその栄光の輝きが都を照らしていたからです。

そこにはもはや、嘆きも悲しみも憂いもありません。神と人が共にいて私たちの目から涙をぬぐって下さるのです。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」(21:3~4)

新しい都には、悲しみの涙はありません。死もなく、悲しみも嘆きも労苦もありません。神様がわたしたちと共にいて下さり、わたしたちの目から涙を拭い取ってくださるのです。動物が生存競争のために、互いにかみ合って死闘を繰り広げるように、どうして人間もお互いに殺し合わなければ生きて行けないのでしょうか。今でも世界のどこかで、人殺しの戦争が行われています。いや私たちの周りでもお互いに競争し合って、相手の足を引っ張り何とか自分を押し上げて行こうとします。そうしなければ生きて行けないのが、人間のこの世界です。

黙示録には、神様御自身が、その涙を拭い取ってくださるとあります。「神が彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。」(21:4)これが天国です。神が人と共に住み、人は神の民となるところです。あの悲しみや苦しみを忘れさせてくれるところです。オバマ大統領は謝罪の言葉を言いませんでしたが、被爆者の方の肩を抱いて励ました姿が、全世界に中継されました。少しは被爆者の思いが晴れたのではないでしょうか。そして核のない世界から、戦争をしない世界への努力が必要です。そのためにはわたしたちは、罪を利用して人間と神を離れさせ、世界を争いや戦争によって破滅へと追いやろうとしているサタンの策略を見ぬかなければなりません。今は国同士の戦いではなく、この目に見えない悪の勢力闇の力との戦いです。しかし彼らも最後には滅ぼされてしまいます。

3.神の栄光に輝く都

新しい神の都は、神の栄光が灯りとなり輝いている都です。そこにはもはや悩み苦しみ罪汚れの一切がない世界です。その様子が21:22以降に書かれてあります。「わたしは、都の中に神殿を見なかった。全能者である神、主と子羊とが都の神殿だからである。この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、子羊が都の明かりだからである。諸国の民は都の光の中を歩み、地上の王たちは、自分の栄光を携えて、都に来る。都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。人々は、諸国の民の栄光と誉れとを携えて都に来る。しかし、汚れた者、忌まわしいこととを行うものはだれ一人、決して都に入れない。子羊の命の書に名が書かれてある者だけが入れる。」(21:22~27)

この新しいエルサレムには、灯りがなく、神の栄光と子羊の栄光が都を照らしているのです。門は閉められていません。一日中開いています。そして神の栄光を表す者だけが、それぞれの栄光を携えて都に入って来ます。この24~25節を現代訳聖書ではこう記しています。「諸国民は都の光の中を歩き、全知の支配者たちは、自分たちの上に君臨しておられる神に栄光を帰すために都に来る。都の門は一日中閉じられることなく、クリスチャンは一日中自由に出入りすることができる。」(21:24~25現代訳)と。

神の栄光に輝く都です。ですからわたしたちの心の中まで照らし出す神の光です。一切の悪、汚れ、闇のない神の栄光と光の世界です。ですから、21:8にありますように、「おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、淫らな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが第二の死である。」(21:8)とありますが、これらのことを行う者は、一切この新しい都エルサレムに入ることはできません。

そして神の都には、御座から命の水の川が流れ出ていいます。そして命の木があって、年に12回豊かに実を結び、その葉っぱも人々の病をいやします。そこには呪われるものは何一つないとあります。「もはや、呪われるものは何一つない。神の子羊の玉座が都にあって、神の僕たちは神を礼拝し、御顔を仰ぎ見る。彼らの額には、神の名が記されている。もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光もいらない。神である主が僕たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。」(22:3~5)

天国では、「神の僕たちは神を礼拝し、神の御顔を仰ぎ見る」とあります。そして、新しい都は神とキリストの栄光に輝いている所ですから、暗い闇や汚れた者は入ることができません。そこの21:8に八つの罪が上げられていますが、いかがでしょうか、皆さんの中で心当たりのある方はいないでしょうか。「わたしは、人殺しや魔術を使ったりはしないけど、もしかしたら、嘘をつくことがあるかもしれない。あるいは何かおくびょうになって後ずさりすることがあるかもしれない。」と言う方はいるかもしれません。おくびょう者もこの都に入ることができないのです。わたしもこれを見て、一番目におくびょうな者と言う言葉が上げられているのにびっくりしました。

信徒がやらないから、牧師の自分もやらないではなく、まず牧師が率先してやらなければ、最後の審判の時にイエス様に叱られると思いました。賜物を使わないでおくびょうになったり怠けていると、最後には必ずその責任を問われます。そのうちやります、そのうち信じますではいけません。今なのです。なぜならば次にこう書いてあるからです。

4.見よ、わたしはすぐに来る!

最後に22:10~13を読んでみましょう。
「また、わたしにこう言った。『この書物の預言の言葉を、秘密にしておいてはいけない。時が迫っているからである。不正を行う者には、不正を行わせ、汚れた者は、なお汚れるままにしておけ。正しい者には、なお正しいことを行わせ、聖なる者には、なお聖なる者とならせよ。見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。わたしはアルファであり、オメガである。最初の者にして、最後の者。初めであり、終わりである。』(22:10~13)

主は、明日来られるかもしれません。あるいは、2020年オリンピックの年かも知れません。ただ言えることはその時が迫っているということです。おくびょうにならず、不信仰にならず、偶像礼拝をせず、淫らな生活や嘘をつかず、聖くなることをひたすら求めて行きましょう。汚れた者は、「キリストの再臨なんてありえない、最後の審判も新しいエルサレムなんてありえない、宗教はアヘンだ、妄想だ。」と思っている人にはそう思わせておきなさいと言うことです。不正を行う者には、そのままにしておきなさいと言っています。そういう人は、自分の頭に裁きの火を積み重ねているのです。ただ私たちは目を覚まして、この聖書の御言葉をいつも読み、調べ、信じて従う生活に励むことです。

そして、絶対にこの聖書に他の言葉を付け加えたり、削ったりしてはいけません。そしてひたすら聖くなることを求め、神を礼拝することです。キリストに倣う生活です。たとえすぐにはなれなくても、熱心に罪を悔い改めて、常に御言葉に立ち帰り最初からやり直すことです。そして、声をそろえて、「主よ、早く来て下さい。来たりませ。マラナタ」と言って、主の来ることを待ち望む教会になって行きたいと願っています。ひたすら心を一つにして祈りましょう。「主よ、来て下さい。わたしたちを救って下さい」と。

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