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新しい心と新しい霊を造りだせ (エゼキエル18:25~32)

メッセージ

2014年6月29日富里キリスト教会(賛美礼拝)

「新しい心と新しい霊を造り出せ」
(エゼキエル18:25~32)

1.親の因果が子に報いる

さて、イスラエルの古いことわざに、「先祖が酢いぶどうを食べれば、子孫の歯が浮く」という言葉があったそうです。(エゼキエル18:1~2)親が酸っぱいぶどうを食べると、子供の歯が痛くなるということでしょうか、親が悪いことをするとその影響が子供に出てくるということを意味しているのではないかと思います。日本のことわざでは、「親の因果が子に報い」という言葉にあてはまるのではないかと思います。同じようなことわざで「親の善悪が子に報う」という言葉もあります。つまり、「親が悪いことをするとその報いが子供に及ぶ」ということです。

親子の血縁による連帯責任を言ったことわざでしょうが、ユダの人々は「我々は、先祖の犯した罪の故に、このような神の罰を受けている。我々は何も悪いこと罪も犯していないのに、どうして戦いに負け、捕らわれの身にならなければならないのだろうか。なぜこのような不公平な報いを受けなければならないのだろうか。このようなことわざを言った主の教えは間違っている。」という不満を持っていました。

私たちもそうです。自分がこうなったのは、自分のせいではなく親のせいだ、親が自分をちゃんと育ててくれなかったのでこうなったのだと。また、親だけではなく、兄弟や他人の悪のお蔭で、自分は今はこうなっていると思い込んでいるふしがあります。誰かのせいにしたいのです。親のせいにしたり、社会のせいにしたり、生い立ちのせいにしたりします。確かに、誰かの心無い一言で傷ついたり、言われのない攻撃やいじめによって人生を狂わせてしまった方もいるかもしれません。でも、それは現実を受け入れることができずに、誰か他の人のせいにしてしまいたくなるものです。私たちは、自分の方に非があるということをなかなか認めることができないのです。

しかし、預言者エゼキエルはこう預言しています。18:20「罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」と。

2.人は自分の行いによって裁かれる

もう少し聖書を読んでみましょう。エゼキエルの18:26から読んでみます。「 正しい人がその正しさを離れて不正を行い、そのゆえに死ぬなら、それは彼が行った不正の故に死ぬのである。しかし、悪人が自分の行った悪から離れて正義と恵みの業を行うなら、彼は自分の命を救うことができる。彼は悔い改めて、自分の行ったすべての背きから離れたのだから、必ず生きる。死ぬことはない。」(18:26~28)

たとえ正しい人であっても、その正しさから離れて、不正を行うなら、彼は自分のその不正の罪の故に死ぬと言っています。逆に、たとえ悪人でありましても、悔い改めて自分の行った悪から離れ、正義と恵みの業を行うなら自分の命を救うことができる、彼は決して死ぬことはないというのです。

つまり世の中に、正しい人とか悪人という人はいないということです。大事なことは、自分が悪人だとか、善人だとかというのではなく、自分の行った悪から離れるならば、たとえその人が極悪人でありましても死ぬことはなく、必ず生きるというのです。逆に正しい人でも、悪を行えば死ぬというのです。決して親や他人の因果がその人に及んでいるのではなく、人はそれぞれ自分の行った業によって報いが与えられるというのです。

でもエゼキエルはこう言います。「それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての罪から立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。」
(18:30)と。悪いのは親ではない、先祖ではない、お前の悪がそうさせたのだというのです。神は正しい真実な方です。必ず、終わりの時にはそれぞれの業と言葉に従って公平な裁きをなさいます。

3.心に隠された罪を主は知っている

実はこのエゼキエルという預言者は、前回もそうでしたが、神様の御手によってあちこちに連れて行かれるという不思議な体験をしております。先週は、骸骨が散らばる谷の中に連れて行かれました。他にも8章では神の手によって、エルサレムの神殿の奥に連れて行かれました。ところが神殿の中には、神が怒りを引き起こすような偶像が祭られ、また神殿の壁の内側では、祭司たちが壁に彫り込まれた忌まわしい動物の偶像に向かって香をたいて礼拝している姿を見ました。

またある場所では女性たちがタンムズという男の神様を拝んでいたり、また別な場所では、東に向かって太陽を拝んでいたりしていました。このように、あの神聖なエルサレムの神の神殿の中で、神の目から隠れて秘密の偶像礼拝と忌まわしい行為が行われていたのです。これらの人々に対して神は激しい憤りを覚え、これらの偶像を礼拝している者たちの額に徴をつけて全てを滅ぼせと、エゼキエルに命じました。

神に見えないように、こっそりと忌まわしいみだらな行いをしていました。そして、預言者エゼキエルはそのような秘密の部屋に、神の手によって連れて行かれたのです。神様は、私たちのうわべや形式を見られるのではありません。私たちの心をご覧になられるのです。表からは見えない、秘密の部分、心の一番内側を見られます。自分は悪を行っていないと表面的には良く見せていながら、心の秘密の部屋では、神の忌み嫌われる偶像を礼拝していることはないでしょうか。いや、自分は潔白だと言って見せかけの表面的な信仰深さをしていることはないでしょうか。

牧師であろうが宣教師であろうが、クリスチャンであろうが未信者であろうがその時に、いちいちそれぞれの個々の罪と悪について問いただされるのです。その時私たちは、何と答えるでしょうか。「いや神様、あのことは、わたしのせいではなく、あの人がこうしたからそうなったのです。わたしのせいではありません。親が悪いんです。あの人が悪いんです。」と言えるでしょうか。

4.悔い改めの大切さ(新しい心と新しい霊)

救われる道はただ一つ、今のうちに主の前に自分の罪を告白して悔い改めることです。エゼキエルは言っています。「たとえクリスチャンであっても、神の救いの恵みを忘れ、忌まわしいことを行い、不正を働くなら、その行為によってその人は死ぬ。またたとえ未信者であっても、犯したすべての過ちから離れて、正義と恵みの業を行うならその人は必ず生きる。決して死ぬことはない。」と。だから、今のうちに罪を悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪が、お前たちをつまずかせないようにせよと命じています。

罪は親のせいでもなく、他人のせいでもなく、社会のせいでもありません。罪と悪は私たちの内側にあります。誰も自分の心の内側を見られたら、潔白だと言える人一人もいないと思います。嘘、偽り、悪口、怒り、妬み、高慢、不品行、みだらな思い、情欲、人を赦さない心、私たちの罪の履歴書はすべて日付入りで、ファイルされて主のもとにあるのです。

最後に、もう一度18:30~32を読んでみます。「『それゆえ、イスラエルの家よ。わたしはお前たち一人一人をその道に従って裁く、と主なる神は言われる。悔い改めて、お前たちのすべての背きから立ち帰れ。罪がお前たちをつまずかせないようにせよ。お前たちが犯したあらゆる背きを投げ捨てて、新しい心と新しい霊を造り出せ。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしは誰の死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ。』と主なる神は言われる。」(18:30~32)

どんな悪人でも、どんな罪人でも、その犯した罪を告白して悔い改め、その悪から離れるならば、新しく生きることができるのです。生まれ変わることができます。一切の罪と悪の責めから解放されて無罪放免となり、自由が与えられるのです。そのことは瞬時に起こります。神様はどんな悪人も、もちろん正しい人も滅んで死んでしまうことを望んではいません。

大事なことは罪の悔い改めです。主は、あなたの罪の悔い改めを待っておられるのです。真のクリスチャンとは、罪を犯さない人のことではなく、罪をもっているクリスチャンです。でもその罪を悔い改めるならば、いつでも即座に赦してもらえる恵みの中にある人のことです。クリスチャンとは、「日々に悔い改める罪人」と言い変えてもいいのではないでしょうか。(映画『デッドマン・イズ・ウォーキング』の例)

誰が悪いのでもないのです。わたしの罪が、わたしの悪が自分の罪の姿を見えなくし、人を裁き、人のせいにばかりしていたのです。今日、新しい心と新しい霊を造り出しましょう。それは、主の前に自分の罪を告白し、悔い改めることです。主に向かって目を上げて、主の前に立ち帰ることです。その時、私たちは新しい霊と新しい心に造り変えられ、主に向かって生きる者となることができます。(18:31~32)          (岡田 久)

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