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教会を造り上げるために (Ⅰ コリント14・1〜5)

メッセージ

2010年2月4日富里教会
       「教会を造り上げるために」
        (Ⅰコリントの信徒への手紙14:1〜5)

1.教会にとって必要なもの、それは愛
今朝は、「教会を造り上げるために」という題でお話させていただきたいと思います。どうしたら、教会が出来上がってゆくのかということです。この場合、教会といいますのはこの建物としての教会ではありません。こうして集まっている私たちの群れ、富里キリスト教会という会衆のことを指しています。そしてこの群れは、世間の団体とは違って、「キリストの体なる教会」と言われています。普通の団体ですと、会費を集めたり、会長、副会長を決めたり、いろんな活動をしたりします。でも、私たちの団体は、そういう自治会組織や会社組織とは違って、トップが目に見えないイエス・キリスト様です。そして私たちはその手足ですから、お互いに働きは違っても一つの体であり、お互いがお互いを必要としている団体です。そしてこの社長であり頭であるイエス様に、一人一人がしっかりと繋がって、イエス様から来る愛と言う血液によって生かされている共同体です。キリストの一つの体としての教会です。

以前の休暇の時に、岩手県の家内の実家の近くにある教会の礼拝に出席する機会がありました。礼拝が20名くらいのちょうど私たちの教会のような教会でした。その日の奏楽者は目が見えないおばあさんでした。オルガンのそばまで手を引かれていった彼女は、椅子に座って恐る恐る鍵盤に手をおきました。私は目が不自由でもオルガンはひけるのだなと、奏楽を期待しながら礼拝が始まるのを待ちました。司会者の方の案内で、立ち上がって讃美歌を歌い始めました。ところがオルガンの伴奏が会衆の讃美歌の声についてこないのです。やっと弾いている感じで、オルガンの方がたどたどしく、みんなの歌う後についてくるのです。ですから皆さんもオルガンの速さに合わせてゆっくりゆっくりと歌うのです。そうなんです、その奏楽者の方は、上手に弾けなかったのです。でも皆さんが、たとえ指で鍵盤を探しながら音を見つけて、たどたどしく弾いていても、それに合わせて歌ってくれるのです。目が見えないというハンデイをみんながカバーしているのです。本当に、この教会は賜物中心の教会ではなく、愛中心の教会だなあと思った次第です。

2.預言は人を造り上げる
パウロは預言と異言の決定的な違いは何か、同じ神様からいただいた賜物なのにどうしてお互いに賜物のことで反目し合い、教会を二分するような問題になってしまうのか、その違いを14:1〜4で述べています。
「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい。異言を語る者は、人に向ってではなく、神に向って語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する人は、人に向って語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます。」

異言と預言の大きな違いは、異言は誰にも解らない言葉で、神様に向って語っていますので、自分のために、自分を造り上げるために語ります。しかし、預言の言葉は、「人に向って語り、人を造り上げ、人を励まし、人を慰めます。そして教会を造り上げる」言葉なのです。この預言の賜物は愛と言う動機から出た賜物であるから、愛を求めるあなたがたは、この預言の賜物をも熱心に求めなさいとパウロは勧めております。そしてなによりも、この預言の言葉は人を造り上げ、教会を造り上げるのだと言っています。ここが決定的に異言と違うところです。

今まで使っていました口語訳聖書や新改訳聖書では、この「造り上げる」という言葉を「徳を高める」というふうに訳していましたので、現代人が聞いてもピンとこないところがありました。とても大事な言葉なのです。ギリシャ語では「オイコドメオー」という言葉ですが、「オイコス」は「家」という意味ですから、建築用語のようなものです。「造り上げる、建て上げる」と訳します。そして教会を造り上げるためには、自分だけを喜ばせ、自分の徳を高め、自分を造り上げるのではなく、どこまでも相手を造り上げることが重要な事だとパウロは言っています。この相手を造り上げるという預言の賜物が、教会の中で働いてこないうちは、教会は形成されてこないのです。

残念ながら、異言を語る方の中には、それが聖霊の現れだと過信してしまい、異言で祈らない人はまだ聖霊を受けていないのだと他の信徒を裁いてしまう危険性がありました。でも、預言の言葉はあくまでも相手を必要とし、人に向って語り、人を造り上げるのを目的としています。この「オイコドメオー」と言う言葉の他の意味を、辞書で見てみましたら、「人を道徳的に強化する、人を向上させる、その人の信仰を強める、その人の品性を高める」という意味が出ていました。いかがでしょうか、私たちが教会で語る言葉、ショート・メッセージで語る言葉、教会学校の分級や女性会、壮年の集いで語る言葉は相手を建て上げ、その人を励まし、その人を高める言葉となっているでしょうか。

3.預言は愛の教会を造り上げる
以前、私は、今のように説教原稿というものをパソコンで作っていませんでした。ノートに書いていたものを、日曜日の朝9時までかかって完成し、自分で搾り出したものを、礼拝で皆さんにバーッとぶつけて語り、あとはバタッと倒れてしまうような説教をしておりました。神様と一人格闘しているような説教でした。そういう私の説教を聞いて家内が、ある日こう言いました。「あなたの説教は、苦しんで一生懸命準備しているということはわかるのだけれど、どこか空中で爆発しているみたいだわ。」と言うのです。つまり、みんなの心に届いていないというのです。

これは耳に痛いコメントでした。聴く人のために、相手の立場、相手の心情に訴える説教でなければ、預言の言葉とはいえないのではないかというのです。なぜなら、相手に対する愛の心がないからです。どんなに真理を語っても、啓示を語ってもそこにいる人、相手、聴衆を意識しない限り預言の賜物とはいえません。人に向って語る言葉は、人を造り上げ、人を励まし、人の徳を建て、慰める言葉でなければならないのです。

愛というのは相手の立場に立つということです。イエス様がそうでした。ご自身は神の子でしたが、無知な私たちのために、肉を取り、この世にへりくだってきて下さり、私たちのために低くなられ、空しくなられ、御自分を捨てて十字架の死に至るまで低くなってくださいました。これが私たちのために示された神様の大きな愛です。人に向って語り、相手のために自分を捨てて低くなってくださいました。いつも解りやすい、たとえ話を使って天国の事を話してくれました。相手の側に立つ事です。

相手の立場に立つということは、時には自分にとって嫌なことかもしれませんし、我慢が必要なことがあるかも知れません。でも自分の立場を捨て、相手の立場に立つことによってしか、教会は造り上げられません。子供はまだ相手の立場に立つことができません。自分の立場、自分の視点でしかものを見ることはできません。もし私たちがまだ自分の視点でしか人を見ることができず、自分を造り上げ、自分を喜ばす事だけを求めるならば、まだ霊的な幼子というしかないかもしれません。

13:11にパウロはこう言っています。「幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを捨てた。」と。幼子はまだ、自分のことしか考えられません。でも、今私たちは今、大人として、相手のこと、人のことも少しは考えることができるようになったのではないでしょうか。人のことを考え、人に向って語り、人を造り上げてゆく預言の言葉を語りたいものです。

あの目の見えない奏楽者の弾く、たどたどしい奏楽でも、みんなが寛容をもってそれを受け止めカバーして、励まして歌っている姿です。自分のことしか考えない人は、遅い演奏では時間がなくなる、みんなが元気に歌えない、説教の時間に食い込むといろんな心配事があるかも知れません。でも、その初心者の奏楽者の立場に立つ時、彼女を励まし、助け、彼女の霊的成長を願って一緒に礼拝を献げているのです。同じ神の家族だという一体感が、神様に喜ばれる霊的な礼拝ではないでしょうか。これが「あなたがたの体を神に喜ばれる生きた聖なる供え物として献げなさい」(ローマ12:1)と言ったパウロの願いではなかったかと思います。「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(14:1)とパウロ先生は言いました。私たちも、このイエス・キリストの十字架の愛を熱心に求め、教会を造り上げてゆくための預言の賜物を求めて行きたいと願っています。
                                                     (岡田 久)

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