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教会の紹介

教会の紹介

富里キリスト教会の沿革

富里キリスト教会の歴史は、1978年の成田空港開港にまでさかのぼります。
「国際色豊かに発展する成田・印旛地区にキリストの光を!」という日本バプテスト連盟津田沼キリスト教会の幻により、1979年津田沼キリスト教会の一家庭集会として産声を上げました。
1980年にまず現在地に590坪の土地が与えられ、1984年12月に津田沼キリスト教会の伝道所として宣教が開始されました。そして1987年9月に現在の会堂が建築されました。
伝道所開始から15年の歳月を経て、2000年3月ついに念願の教会組織をすることが出来、日本バプテスト連盟所属の「富里キリスト教会」が誕生し、現在に至っております。

武井誠司牧師プロフィール

  • 生年月日とプロフィール
    1979年 9月29日生
    龍谷大文学部史学科卒
    東京基督教大学大学院卒
  • 牧師略歴 
    2009年 児童養護施設に児童指導員として就職
    2012年 児童指導員を辞して、4ヶ月間世界放浪の旅に出て18カ国を巡る
    2013年 特別養護老人ホームに介護職員として就職
    2016年 介護職員を辞して、東京基督教大学3年次編入学、大学院卒業
    2020年 千葉県富里キリスト教会牧師に就任
  • どうして牧師になったか
  1. 信仰に導かれるまで
     私は、香川県のクリスチャンファミリーの家庭で生まれました。ゆえに、教会に行くことは自分にとってあまりにも自然なことでした。そんな中、小2のときに素直に神様を受け入れ、洗礼を受けたことも自然なことでした。ですが、本音の所、私は主の晩餐式のパンが食べたかった。恥ずかしながらそれが一番の理由でした。
    そんな私でしたから、自分が成長するにつれイエス様について、十字架の贖いについてわからなくなり反抗的になりました。教会も教会の人達も好きでしたが、どうしても親に連れて行かれているといった感覚があり、自分自身が教会に行く意味を見出せなくなったのです。
     そんな中、大学時代は、親元から離れ、地元の香川を離れ京都で下宿をしました。周りには一見、楽しそうなものがたくさんあり、私は遊びました。今となってはそのようなものが一時的なものであることはわかりますが、当時は夢中で遊びました。迷惑さえかけなければ、楽しければそれでいい。そういった考えでした。当然、教会には行かなくなりました。そして、いつのまにか私は、自分がクリスチャンであるとはいえなくなってしまったのです。イエス・キリストの十字架の贖いを理解することも信じることもできなくなってしまったのです。
     そして、大学を卒業し、仕事のため香川に帰ることになりました。そのとき、私は教会に行くかどうか悩みました。成人にもなった今ならどちらも選択できると思ったからです。そのとき、心のどこかでイエス様を信じられるようになりたい。また、楽しさだけを追い求めるこんな生き方はむなしい。そのような思いが小さいながらもあることに気がつきました。ならば、十字架のことはわからないけど教会に行くことはしようと決め、それだけをしました。
     そんな、あるとき、聖書を開く機会が与えられました。それは、ある青年の言葉がきっかけでした。その青年は、気難しいところのある人でしたがどこか私とウマが合い、仲良しでした。そんな彼がある時、私にこんな質問をしてきました。「なあ、君はなんでそんなに面白いんだ。」と。なぜだかわかりませんが私を面白いと思ってくれていたみたいです。それに対し私は「人が好きだからかなあ。みんなが楽しそうにしていると、こっちも嬉しいし。」そんなことをいいました。
     すると、彼は「ふーん、僕は、神様は好きだけど人間は嫌いだな。」といったのです。その言葉を聞いて、私は無性に悲しくなりました。実は、彼は心に傷を持っていました。まだ主によって完全に癒されていなかったのです。しかし、それにしても悲しかった。そんな彼に、何か言葉をかけたかったのですが、なんと言えば良いかわからずその場は終わりました。
     その後、家に帰った後も、私は彼に何か言えなかっただろうかと悶々としていました。そして気がつけばほとんど開いたことのなかった聖書を私は開いていたのです。聖書に答えがあるかもしれない。きっとそう思ったのでしょう。
     すると、どうしたことか、彼のためにと探したみことばが、私自身にどんどん入ってきたのです。夢中で聖書を読みました。そして愛の章と言われるⅠコリント13章を読んだ時にはもう涙が止まらなくなりました。

    1コリント13:4−7
    「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」

     神さまは、この愛を持って遠く離れ、背を向けていた私を待ち続けてくださっていたことに気づきました。父なる神はなんと忍耐強く、憐れみ深く、愛に富んでいるお方でしょうか。この時から私は自分の罪を認め、父なる神の元に帰り、神様との個人的な親密な関係を始めることがゆるされたのです。誰かのためにと開いた聖書を通して、主は私に応えてくださった。自分が帰ったというよりもむしろ、引き戻してくださった。そんな思いもします。
     そして、次の日、私は、聖書を買いに行きました。もちろん、元々聖書は持っていました。しかし、それは親から与えられた聖書でした。そうではなく、改めて、自分から求めて、自分のお金で買った聖書を手にしたいと思ったのです。その時、買った聖書を手にした時のなんともいえない嬉しい気持ちは、いまだに忘れられません。

  2. 牧師への献身
     神様との個人的な関係が始まってからは、色々としましたが常に主を覚えて、主とともに歩もうと心がけました。仕事としては、学校の臨時教員、モーター工場、児童養護施設、高齢者介護など多岐にわたりました。故郷以外の他県でも働きました。また、放浪の旅に出て世界18カ国をまわったりもしました。
     そして、そろそろ地元の香川で落ち着こう。迷惑も心配もかけた年老いた両親のために、せめて側にいよう。仕事も、順調で面白い。生まれ育った教会は担い手も少なくなり信徒としてこれから支えていきたい。香川の教派を越えた青年の交わりも深く、実も結ばれてきている。香川で信徒として神様、教会に仕えよう。そう思っていました。
     そう思っていたのに35歳の夏、みことばを通して神様から召しが与えられました。エレミヤの召命の箇所です。なぜか何度も読んだことのあるこの箇所がそのときはハンマーで頭を殴られたような衝撃がありました。牧師になったらといわれたことも何度かありましたが柄じゃない、そんな器じゃないと言っていました。自分は未熟な人間で、とてもではないけれど、できる自信がなかったのです。それを見透かすように神さまは語られました。

    エレミヤ書1章7、8
    「しかし、主はわたしに言われた。『若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す』と主は言われた。」

     もうあんまり若くはないのですが、自分の未熟さに恐れている自分に対して恐れるな、ともにいるから、絶対助けるから。迷わず私を信じて飛び込みなさいと言われている気がしました。そこですぐに「はい」と言えたらかっこいいのですが、臆病な私は葛藤してしまいました。自分の人生設計もあり、そこから大きく方向転換することに不安を覚え、自分が牧師をできる自信が全くなく、恐れを抱き、とまどいました。それは、「全て私が一緒にいて、救い出すから大丈夫だ。安心しなさい。」という神様の声を信じることを私ができていないということでした。自分の信仰の弱さを痛感し、魂が砕かれました。
     しかし、私は、そのとき自分の信仰の弱さを痛感しつつもアブラハムのような忠実で揺るがない信仰を持ちたいと思い、ひたすら祈り、聖書を読みました。たくさんの励ましをみことばからも、人からも受けました。するといつの間にか不思議と恐れは消え、喜びと平安が与えられ、改めて私の人生のすべてを神様に捧げることを決めることができました。もちろんクリスチャンとなるということは私の全てをイエス様に明け渡すことなのですが、私はまだ自分で手放さず握っていたものがあったのです。握りしめていたものを手放した時、不思議と手に入るものがあることを思わされました。
     そして、その後、私は東京基督教大学に編入学し、大学院でも神学を学びました。お世辞にも勉強ができるとは言えない私がまさか、大学院にいくことになるとは思いもよりませんでした。そして卒業後、2020年4月からこの富里キリスト教会の牧師として就任いたしました。
     思い返すと迷ったとき、辛いとき、悲しいとき、困難な問題にぶつかったとき、そんなときこそ神様がそばにいて引き上げてくださったような気がします。今もそうです。恐れ、不安のある中で主がともにいてくださることを約束してくださっているこの喜びの中、今日も生かされていることに心から感謝しています。

    箴言3章5、6節
    「心を尽くして主に信頼し、自分の分別には頼らず常に主を覚えてあなたの道を歩け。そうすれば、主はあなたの道筋をまっすぐにしてくださる。」

     主が私の道をまっすぐにされて、今、私はこの場所にいると信じています。そしてこれからも要領の悪い自分は大変だとは思いますが常に主により頼み、主が整えてくださるこの道を懸命に、誠実に、喜びと感謝を持って歩みたいと願っています。
  • 趣味・特技
    ギター、歌、ジャンベ、音楽鑑賞、旅行、散歩

岡田 久 協力牧師のプロフィール

  • 生年月日とプロフィール
    1948年 5月1日生
    岩手大学農学部卒
    東京神学大学大学院卒
  • 牧師略歴 
    1971年 青森県庁に就職
    1979年 県職員を辞して、東京神学大学3年次編入学、大学院卒業
    1983年 神奈川県相模中央キリスト教会副牧師に就任
    1984年 愛媛県八幡浜バプテスト教会牧師に就任
    1990年 東京都江戸川区篠崎キリスト教会牧師に就任
    2001年 神奈川県横浜市港南めぐみキリスト教会牧師に就任
    2006年 港南めぐみキリスト教会を辞して、川越キリスト教会、東京バプテスト教会にて
           説教とカウンセリングの研修をする
    2008年 千葉県富里キリスト教会牧師に就任
  • どうして牧師になったか
  1.  信仰に導かれるまで
     私は、1948年に青森県の野辺地町という東北の小さな町で生まれました。
    小学校6年生の時の担任の先生が、クリスチャンでした。
    そして、よく自宅に生徒を招いては、『みんな大きくなったら、教会に行きなさい』と言ってくださいまして、私もその言葉を覚えていまして、高校生になってから教会の門をくぐりました。
     そして、高校2年生の時にイエス様を信じました。
    アメリカの南部バプテストから来られた宣教師の方のバイブルクラスに参加しておりまして、その先生がアメリカに帰国する最後のクラスで招きをされました。
    『イエス様を信じる方は、手を挙げて下さい』と言われ、私も今までお世話になったのだからと思い、思い切って手を挙げました。
    すると教会の皆さんが、おめでとう、おめでとうと言ってくださり、あまり救いの確信のないまま、高校2年生のとき、イースターの日に青森バプテスト教会でバプテスマを受けました。
    大学受験のとき、教会の牧師先生が、『岡田君、牧師になるために福岡の西南学院に行かないかね』と勧めて下さいましたが、そのときはあまり職業としては魅力を感じなかったので、国立の大学に進学しました。
     ちょうど日本では、70年の学生運動の激しい時でしたので、私の信仰も社会派的な信仰になって行き、学生YMCAの運動に参加するようになってきました。
    でもこの4年間、三沢の米軍基地にあるカルバリーバプテスト教会の、アメリカ人の婦人達が、私のために奨学金を毎月10ドル(当時360円)、4年間一回も欠かさず送金して下さいました。
     貧しい家庭で育った私は、この奨学金のお陰で無事4年間の学びを終了する事が出来ました。
    大学3年生の時に、父がガンで入院しました。
    あと何日もないことを知った父は、病院のベッドの上で、自分も神様の話を聞きたいと言いました。
     その頃の私の信仰は、人間は生きている間に、どう生きるべきかという、道徳的倫理的な信仰でしたので、今、死期が近づいて死が目前に迫っている者にとっては、福音はあまり意味のないものではないかと考えていました。
    ですから十分な証しも話もしないまま、父は苦しみながら死んで行きました。
    本当に、恥ずかしい限りの信仰でした。
     その後、父が亡くなったため、私は3人の弟と、残された母の面倒をみるために、地元への就職の道を選びました。
    幸い、学生運動をしていた私ですが、神様の助けを得て、青森県の職員に採用されました。

  2.  回 心
     しかし、社会派的な信仰をもっていたために、私は教会という組織に反発して、自分で独立伝道者として教会を作ろうとしました。
    私がいた町は東北の小さな2万人くらいの町で、教会がありませんでした。そこで、クリスマスの夜、一人で町の公民館を借りて市民クリスマス集会を開催しました。
     自分でお金を出して会場を借り、町のあちこちにポスターを張り出しました。そして、一人でストーブをたいて部屋を暖めて、人が来るのを待ちました。
    でも時間になっても誰も来てくれる人がありません。
    窓から外を眺めると、雪が降ってきていました。
    とうとう、誰一人来てくれる人がなく、私は一人で後かたずけをして、がっくりと肩を落として足を引きずりながら、雪の中を家に帰ったのを覚えております。
     このとき、神様にかなづちで頭をガツンとたたかれたような気がしました。お前が伝道をするのではない、私が伝道をするのだと。
    それから私はもう一度、教会の門をくぐり、神の家族のもとに戻ったのです。
     そして、次の年には八戸教会の大川博之先生ご夫妻がきてくださり、私も結婚して妻が与えられ、職場の仲間も参加し始めました。その町で、初めて救われる方、初穂が与えられました。
    その後、毎年この町のクリスマス伝道集会が行なわれ、9年目の私が、献身して東京へ行く最後の年には、90名(3分の2は子供たち)もの参加者が与えられました。
     そして、この交わりの中で、私が伝道者になろうと決心した大きな回心の出来事がありました。
    それは、我が家で行なっていた家庭集会で、一人の兄弟が天に召されました。
    私が友人代表として、教会の告別式の中で弔辞を読むことになりました。
    その弔辞を読む中で、一緒に勉強していたローマ人への手紙6:8「イエス・キリストとともに死んだものはまた、彼とともに生きることを信じる」を引用して読みました。
     その時初めて、この聖書のみ言葉は真実であること、そして友人は棺の中にいるけれども、彼は信仰のゆえに今は生きているのだ、天国に行ったのだという確信がこみ上げてきたのです。
    私はそれ以上、弔辞を読むことが出来なくなりました。
    今ようやく神様が私の目を開いてくださって、御言葉の真実を啓示してくださったのです。
    悲しみの涙ではなく、嬉し涙がとめどなく溢れて、それを止めることが出来ませんでした。
     それ以来、私は礼拝を休むことなく、また遅刻することもなくなりました。
    教会の奉仕を真面目にするようになり、2年後に仕事を辞めて、東京神学大学に入学することが許されました。
    卒業後は、神奈川県の相模中央教会の副牧師をした後、四国の八幡浜教会、東京江戸川区の篠崎教会、そして横浜の港南めぐみ教会と23年間日本の伝道牧会の働きをすることが出来ました。
  • 趣味・特技
    ギター、オカリナ、剣道、映画鑑賞、コーヒー通

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