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救われるべき信仰とは (ルカ17:11~21)

メッセージ
2019年3月24日富里キリスト教会
「救われるべき信仰とは」
(ルカ17:11~21)
1. 遠くから立ち止まったまま、声を張り上げて

「イエスはエルサレムへ上る途中、サマリヤとガリラヤの間を通られた。ある村に入ると、らい病を患っている10人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて、『イエスさま、先生、どうか、私達を憐れんでください』と言った。イエスはらい病を患っている人たちを見て、『祭司たちのところに行って、体を見せなさい。』と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。」(ルカ17:11~14)

1節の「エルサレムへ上る途中、サマリヤとガリラヤの間を通られた。」という短い一文があります。これは当時のイスラエルの国の現状を表しております。イスラエルはユダヤにありますので、ユダヤ人を意味し、サマリヤ人とガリラヤ人と、イスラエルの国がはっきりと三つに分けられていました。これはどういうことかと言いますと、メシア、救い主はユダヤ人の中から生まれ、ユダヤ人を救うという信仰がありました。しかし、イエス様は、御自分はユダヤ人だけではなく、サマリヤ人の中からも、又ガリラヤ人の中からも救いに定められている人を召し出されて、エルサレムで救いの業を成し遂げるということを意味しています。

確かに救いはユダヤ人から来ますが、ユダヤ人だけではなくサマリヤ人もガリラヤ人も救いに招かれているということを言わんとしていたのではないでしょうか。イエスさまでさえ、18節では「この外国人の他に」と言ってサマリヤ人をハッキリと外国人と言っています。ところがその1人の外国人だけが、10人の中で救われたのです。後の9人のガリラヤ人はどうしたのでしょうか。イエス様は確かにユダヤ人でしたが、民族に関係なく真に救われるべき魂を求めていました。

この10人のうち、一人がサマリア人だとしたら、後の9人はおそらくガリラヤ人ではなかったでしょうか。ガリラヤ人もサマリヤ人も、ユダヤ人からは差別されていましたが、らい病という点においてはこの両者は一つになって救いを求めていたのです。同病相憐れむと申しますか、民族や宗教の違いを乗り越えて一緒にお願いしました。サマリヤ人はユダヤ人がアッシリアに拉致されて行って、そこでアッシリア人との混血が進んだために、純粋なユダヤ人とは区別されていました。民族的にも宗教的にも異教徒扱いされていたのです。完全に外国人と呼ばれていたようです。またガリラヤは、辺境の地、異教の地と言われていましたから、ユダヤ人からは差別されていました。

しかしこの差別されていた二つの民族は、それだけ熱心に救いを待ち望んでいたことも事実です。しかもらい病にかかった10人でした。律法の規定によりますとレビ記にこう記されています。「重い皮膚病にかかっている患者は、衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です。』と呼ばわらねばならない。」(レビ記13:46)とあります。そしてらい病の菌が飛んで感染しないように、周囲から45メートルの距離をとらなければなりませんでした。

ですからここに「遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」という言葉が入っています。人々との間が45メートルの距離を持っているだけでなく、神様との距離も45メートルとらなければなりませんでした。宗教的、信仰的にも大きなハンデイを負っていました。でも、彼らは千載一遇の時と考えて、はるか遠くからイエス様に向かってあらん限りの声を張り上げて叫んだのです。「イエス様、先生、どうか私たちを憐れんでください!」と。

そのように神と救いから遠ざけられていた彼らでしたが、必死の願いによって、イエス様の足を止め、イエス様にご覧になっていただくことができたのです。イエス様は、彼らの呼び求める声に耳を止められて、目を注いでくださり、こう言いました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」実は、これは病気が治ったことを祭司に証明していただくための手順なのです。らい病が治っていることを祭司に見てもらって、証明していただいてやっと普通の生活に戻れるのです。

彼ら10人には信仰がありました。まだ治っていないにもかかわらず、祭司のところへと行ったのです。主にいやしてもらった。主の御言葉をいただいた、もう完全にいやされたという信仰を持っていました。ですから、彼らは自分たちの祭司のところに行く途中でらい病が消えていることに気が付いたのです。すばらしい信仰です。奇跡が起こりました。祈りの叫び声が届いたのです。その時には、主の御言葉に無条件で従う信仰を持っていました。

The ten Leprosy saw Jesus, and called out in a loud voice at a distance.
At that time leprosy were disgraced by the people, they have to call themselves “Unclean! Unclean!” (Leviticus 13:45) to avoid infection.
So they called out to Jesus from a distance. They had a faith to be healed by calling with a loud voice despite the distance between God and man. Even if we have a long distance, Jesus surely answers our earnest and consistent prayer. Jesus told disciples that they should always pray and not give up in the following chapter. (18:1) these ten leprosy had a faith to be healed, but only one out of these ten leprosy was really saved. Jesus said disappointed “Were not all ten cleansed? Where are the other nine?” I also sympathize with Jesus seeing many

Christian with thanks forgotten.

神様とわたしたちの間には、確かに距離があるかもしれません。神様が見えませんが、私たちは声を張りあげて、遠くから「イエス様、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください!癒してください。」祈っています。イエス様は、たとえ離れていても、声を張りあげて祈るならば、確実に足を止めて答えて下さり、ご覧になってくださいます。神様との距離を気にする必要はありません。確かに神様はズーっと遠くにいるかもしれませんが、私たちが、「イエス様~!せんせ~い!私たちを憐れんで癒してくださ~い。」と声を張り上げて叫びましょう。主は必ず、その祈りの声に耳を止めて振り向いてくださいます。病者の祈りによって、貧しきものの祈りによって、既に天国はわたしたちの間に実現しているのです。17:21に主は「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」と言っています。

2.神を賛美し、ひれ伏して感謝した

イエス様は、彼らがいやされつつ帰ってゆく姿を、じっと後ろから見ていたに違いありません。途中でらいが消えていることに気が付いて喜んでいる者、祭司に見せている者、10人十色、様々な反応があったに違いありません。イエス様は10人に、治ったら帰ってきて報告しなさいとも何とも言っていませんでした。そして彼らの姿を見送りながら、おそらく内心は、あの10人のうち何人が報告に帰ってきて、神に栄光を帰すのだろうかということを考えていたのではないでしょうか。

「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻ってきた。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリヤ人だった。そこで、イエスは言われた。『清くされたのは10人ではなかったか。他の9人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいなかったのか。』それから、イエスはその人に言われた。『立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。』」(17:15~19)

10人のうち、たった一人しか戻ってこなかったのです。17節の「他の9人はどこにいるのか。」と言われたイエス様の言葉を読むときに、どんなにかイエス様がガッカリされたのかが分かるような気がします。人をいやすにも力が必要です。長血の女がいやされた時にも、自分の中から力が出て行ったと言いました。(ルカ846)あれほどに、奇跡的な力を使ったにもかかわらず、戻ってきたのはたった1人しかいませんでした。しかも、外国人であるサマリヤ人の患者でした。他の9人ガリラヤ人のらい病人はどこへ行ったのかと嘆かれました。

わたしたちの時代にも、多くの癒された9人のらい病人がいます。一時は主によって病いが癒されました。本人も必死に主により頼んで祈りました。そして主の奇跡によって病がいやされ、信仰を決心しました。しかし、彼らのその後の信仰生活は、どうなったでしょうか。なかには自分がかつて癒されたことも、救われたことも忘れて、いやし主であるイエス様をすっかり忘れて生活している方もいます。そして、そういう人が多いのです。いやされたにもかかわらず、9割の人が戻って来なかったのです。いやされたことを忘れているのです。イエス様も「他の9人はどこにいるのか?」と落胆を隠しきれませんでした。

そして戻ってきた人にだけ、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」(17:19)と言われました。ここで主は初めて、あなたの信仰と言っています。いやされただけでは信仰にはならないのです。本当の信仰とは何でしょうか。救われるべき信仰とは何でしょうか。それは「大声で神を賛美しながら戻ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝することです。」(17:15~16)この神への賛美と感謝、これこそが救われるべき信仰です。奇跡を起こすことが信仰ではありません。いやしてくださった方への賛美と感謝、これが真に救にあずかることのできる信仰です。

主の足もとにひれ伏して感謝することです。あの長血を患った女性も、必死にイエスの衣に触れました。そうしましたらたちどころに病気がいやされたのです。でも彼女は黙ってそこから立ち去ろうとしました。しかし振り返ったイエスの眼差しが、逃げようとする彼女を思いとどまらせ、主の前に告白させました。神様と群衆の前で「わたしが触りました」と告白させたのです。その時もイエス様はこう言いました。「娘よあなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」と。(ルカ8:43~48)

救われるべき信仰。それは主の前に自分がいやされたことを告白し、主を賛美し、主の足もとにひれ伏し感謝を捧げる信仰です。継続して感謝する信仰です。この後も主は、「気を落とさずに絶えず祈らなければならないこと」を教えられました。(18:1)これが救われるべき信仰です。皆さん、主に感謝を捧げていますか。主に讃美を捧げて、絶えず熱心に祈っていますか?

Only one Samaritan came back to Jesus praising God in a loud voice.
And he threw himself at Jesus’s feet and thanked Him. Then Jesus said to him, “Rise up and go; your faith has made you well” (17:19)
Do we give thanks to God always and do we praise His Name any time and do we worship Him throwing ourselves at Jesus’s feet. This is a true faith to be saved. Many Christian have forgotten the mercy and pity of Jesus being away from God and going their ways despite of healing by God.
So let us praise His Name and give thanks to the Lord with a loud voice always. To give thanks to God is the resource our power, and to praise the name of Lord is the resource of our joy. Today you came to Jesus with thanks and praise to God, this is the start of the week of mercy of the Lord. First of all we should give thanks and praise to God. And then ask our requests of prayer to God. God is surly hearing our requests and asking.

皆さん、主に感謝しましょう。毎週祈りの白板に上げられている課題が、次々と舞い込んできますが、それが次々とかなえられているではありませんか。また継続して祈られていることによって、病を得ている方々も守られています。これは本当に奇跡です。平間さんのケガだけではありません。祈りがきかれ癒され奇跡が次々と起こっています。ですから感謝しましょう。人間の罪は、神を知っていながら、神に造られていながら、神に癒されていながら、神に感謝を捧げることもせず、その御名を崇めることもしないことです。崇めるというのは礼拝したり讃美したり誉めたたえたりすることです。神を神として感謝も讃美も礼拝もしないところに人間の罪があるのです。

「従って彼らは弁解の余地がありません。なぜなら、神を知りながら、神を崇めることも感謝することもせず、かえって、空しい思いにふけり、心が鈍く暗くなったからです。」(ローマ1:20~21)ですから、主の祈りの一番最初に「御名を崇めさせたまえ」という祈りが来ているのです。一番大事な祈りです。主の御名をどうか、心から崇めさせてください、感謝さえてくださいと言う祈りです。それが真の信仰です。それが救いにあずかる信仰です。まずですから、礼拝を第一にしましょう。神を崇めることを人生の目的とし、神を礼拝することを生活の中心におきましょう。その信仰が救いにあずかる信仰です。(岡田 久)

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