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救いと解放の出エジプト (出エジプト1:1~14)

メッセージ
2020/08/02
富里キリスト教会礼拝説教
「救いと解放の出エジプト」
(出エジプト1:1〜14)

①出エジプト記について、新約との関わり
まず、最初に出エジプト記がどのような内容のものであるかについて、簡潔に少しお話しいたします。出エジプト記というものはアブラハムの子孫であるイスラエルの民が、エジプトで奴隷とされ、苦しみ、悲しみ、嘆いて生きているその姿を神さまが見て、憐れまれ、一人の預言者モーセを選び、立て、その奴隷の縄目から解放し、もともとイスラエルの民に与えられた約束の地、カナンまで連れもどそうとしてくださる、そういった救いと解放のお話です。
世界的にも非常に有名な話で、だいぶ昔になりますが十戒という超大作映画が作られたほどです。私も子供の頃見たことがありますが、すごい迫力でした。特に紅海、海が真っ二つに避けるシーンは大迫力で、とても有名なシーンとなっています。しかし、出エジプトはそのような超自然的な出来事だけではありません。その後、イスラエルの民はシナイ山において、映画のタイトル通り十戒という律法が与えられ、彼らは自分を救い出した神様と契約をし、神の民として生きていくことを決意をします。そこが出エジプトのクライマックスといえるでしょう。ここからイスラエルという民族が始まったといってもよいのではないでしょうか。そして、実際、現代の国としてのイスラエル、ユダヤ人にとってこの出エジプトの出来事は民族のアイデンティティとして特別ものとなっております。
しかし、この出エジプトの出来事は彼らユダヤ人だけのものではありません。私たちクリスチャン、もっといえば人類すべてにおいて大きな意味を持つものであります。出エジプトのテーマは救いと解放と先ほど言いました。救いはイスラエルの民にとってはエジプトから連れ出してくださったこと、解放は奴隷という苦しみからの解放を意味します。しかし、もっと大きく人類全てに対してのものと見ると、救いは十字架による罪の贖いを意味し、解放はまさしく死と罪からの解放を意味します。
アウグスティヌスという古代の有名な神学者がいますが、彼の言葉に「新約聖書は旧約聖書の中に隠れ、旧約聖書は新約聖書の中で明らかになる」と言ったものがありますがまことにそのとおりです。そして、彼のこのことばは、特に出エジプトと新約聖書との関係についていうことができるでしょう。
イスラエルの民が神様によってエジプトの奴隷の縄目から救いだされ、その後にシナイ山において契約がむすばれたことは、人類がイエス・キリストによって悪魔の縄目から贖い出され、十字架にかかられたカルバリにおいて永遠の契約が新たにされたことの雛形なのです。
出エジプトの出来事の究極の意味はキリストにおいて成就されたのです。これはイエス様ご自身が出エジプトと十字架の贖いを重ねて見ておられた。そのような発言をなされていたことからも明らかです。わたしたちは、そのことを踏まえてこの出エジプト記を見ていくことによって聖書をより深く知ることができるでしょう。旧約は旧約として、新約は新約として読むこともいいのですが、旧約聖書と新約聖書のつながりを意識して読むと、まことに聖書全体がつながり、一貫性があるものとしての理解が深まるのです。

②歴史はつながり、約束は消えない
 1:1−5
「ヤコブと共に一家を挙げてエジプトへ下ったイスラエルの子らの名前は次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ベニヤミン、ダン、ナフタリ、ガド、アシェル。ヤコブの腰からでた子、孫の数は全部で七十人であった。ヨセフはすでにエジプトにいた。」

いきなり、ヤコブの家族の名前の羅列から始まるのが出エジプト記であります。この12人の息子から12部族が生まれ、ヤコブという一家族からイスラエルの民という民族となっていくのですからある意味当たり前かもしれません、しかし、ここにはもっと深い意味もあるでしょう。
出エジプト記は、この書が創世記を前提にした書であり、またその継続であることを注意深く表現しております。1章の冒頭でエジプトに移住したヤコブとその家族の名をあげていることは、これから述べようとしている出来事が彼らをそこに導いた創世記の出来事とは切り離せないものであるということを示しています。出エジプトを一つの単体の物語ではなく、創世記の続きという、歴史的なつながりを見ていくことがこの出エジプト記においてはとても大切なことなのです。
そもそも神様はアブラハムを通して諸国民、つまり私たち人類の祝福を約束されました。全てはアブラハムの選びから始まった神のみわざの継続発展であり、時のつながり、歴史的発展がこの書の基本にある性格であり、さらに言えば聖書そのものが全て繋がっている一貫性のあるものです。
アブラハムの契約から始まり、イサク、ヤコブと続き、その家族はイスラエルという民族となります。そして、その12部族の一つである、ユダ部族からダビデが生まれ、イスラエルは王国となります。そして、そのダビデの家系から私たちの救い主イエス・キリストがお生まれになることになります。全ては繋がっているのです。イスラエルの救いは私たちの救いへの序曲でもあったわけです。
そして、そのイスラエルの始まりであったヤコブの家族はエジプトに住みだすとおびただしく数が増え、国中に溢れ、祝福されました。

7節
「イスラエルの人々は子を産み、おびただしく数を増し、ますます強くなって国中に溢れた。」

おびただしいとはすごい表現ですね。ありえないほど増えたということでしょう。アブラハムと交わした約束を決して忘れない神様はヤコブの家族を非常に祝福されたのです。そして、主はヤコブ本人にも創世記46:3で

「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトへ下ることを恐れてはならない。わたしはあなたをそこで大いなる国民にする」

と約束されました。主は、決して約束を忘れたり、ご自分から違えるようなことはなされません。一度約束したことは、必ず、確実に、誠実をもって成し遂げてくださるお方なのです。
しかし、その神の祝福は浅はかな人の目から見ると異様なものだったかもしれません。最初70人だったのがいつに間にか6000人になっていたわけですから。ちょっと普通ではありえない増え方だったわけです。そして、この祝福は人によっては脅威に見えたわけです。このイスラエルの祝福は、実は苦しみの始まりともなってしまったのです。

③為政者の傲慢
8節
「そのころ、ヨセフのことを知らない新しい王が出て、エジプトを支配し、国民に警告した。『イスラエル人という民は、今や、我々にとってあまりに数多く、強力になりすぎた。抜かりなく取り扱い、これ以上の増加を食い止めよう。一度戦争が起これば、敵側に付いて、我々と戦い、この国を取るかもしれない。』」

イスラエルの民がどんどん増える中、エジプトの支配者はかつてエジプトを救い出したヨセフを知らない者が王となりました。かつて受けた神の恵みをエジプトは忘れてしまったのです。神の恵み、神の存在を知らない、神を恐れない為政者の政治は、自己中心、差別、貪り、争い、欺瞞、そういった罪に囚われたものとなっていきます。王は、増えてきたイスラエルを脅威に感じ、自国民にイスラエルを敵となりうると恐怖をあおり、イスラエルの民を抑圧し始めたのです。
イスラエルの民はこの出エジプト記だけでなく歴史全体を通して見てもそのような目に、本当に悲劇に遭ってきていますね。ヒトラー、ナチスドイツにおけるホロコーストなどは本当に忘れてはならない悲劇です。彼らの虐殺の言い分もドイツ国民が不況で苦しんでいるのは裕福なユダヤ人がその富を奪っているからだということでした。自分たちの富や権利を脅かす危険があると恐怖をあおり、平気でその民の命を奪い取る。これが神をも恐れぬ為政者のやり方です。
そして、ヒトラーならぬエジプト王も、これ以上イスラエルが強くならないようにと彼らを奴隷化し、だれもが嫌がるような過酷な重労働をさせ続けたのです。きつい仕事は外国人がやればいい。比較的楽で、収入もいい自分たちの仕事は確保されなければならない。その環境を脅かすような在留異国人、移民などはいらない。そういった感じだったのではないでしょうか。
このエジプト王の姿を見ると、ヒトラーほど露骨でないにしても私はどこか今の現代社会を彷彿とさせるなぁと思ってしまいました。元々、先進国は移民を労働力として比較的歓迎していました。そうやってグロバリゼーションは進んできました。経済がそれによって活性化するからです。しかし、移民の数が増えてくると、だんだんと脅威となり文化的摩擦も重なり、元々住んでいた人たちが出て行けというようになったのです。では、私たち日本はどうでしょうか。外国人、移民に優しいでしょうか。決してそんなことはありません。むしろ冷たい、無関心です。自戒を込めていいます。どの国もこのエジプト王と変わらない。さらに言えば、人間の歴史を振り変えると、ずっと人の社会は罪に満ちているものであったことを痛感します。

④神の約束は罪からの解放
罪の呪いの中、人は生きていく奴隷なのだろうか。この出エジプト記の冒頭はそんな現実を突きつけてきます。神様という慈愛に満ちた方がおられなければ、罪の力に絶望してしまうでしょう。しかし、これはまだ、序曲であります。当然こんなところで終わりはしないのです。慈しみに満ちた神様の救いの介入があるのです。神様はエジプトに行く前にヤコブに祝福を約束されました。しかし、そのあともう一つのことを約束されました。

創世記46:7
「わたしがあなたと共にエジプトへ下り、わたしがあなたを必ず連れ戻す。ヨセフがあなたのまぶたを閉じてくれるであろう。」

神様は、必ずこの奴隷の状態から救い出し、必ず約束の地へと連れ戻すと約束されていたのです。どんなに苦しくても、必ずそこから私が救い出す。暗闇の中にある希望の光です。アメリカで奴隷として抑圧されていた黒人奴隷の方々はこの出エジプトのイスラエルの民と自分たちの姿をよく重ねていたそうです。彼らは、白人を憎むのではなく、神の救いの希望に目を向け、慰めを受けていました。囚われの苦しみの中でまさしく救いの希望を見たのです。
そして、どこまでも約束、契約に対して誠実な主なる神様は、約束通り奴隷の泥沼から引き上げ、救い出してくださりました。この出エジプトの中でだけ見ると、イスラエルがエジプトの奴隷状態、苦しみから救い出されたということでしょう。しかし全ての人間においてみれば、私たちの最大の苦しみは罪に縛られていること、罪の奴隷であることです。
その罪の泥沼から引き上げ、罪の縄目から神様は私たちを解き放ってくださいました。それがイエス・キリストの十字架の贖いです。私たちの罪を全て背負い、身代わりとなって十字架にかかってくださったのです。その事実を信じ、告白する者はその罪がゆるされ、それと共に罪によってしばられていた、たましいが解放されるのです。罪からの解放、脱出。これが人類全ての人に用意されている救いです。そして、すでにイエス様は来られ、十字架にかかられ、死に、復活なされました。すでにその救いは、達成されているのです。

◎結
出エジプト記のテーマは、救いと解放です。外国で奴隷として苦しみの中にいたイスラエルの民を神さまは、憐れみ、救い出して解放されました。それは、今、まさに抑圧されている人にとっては大きな慰めとなるでしょう。
逆に抑圧している側、罪の世界を作る、神をも恐れぬ高慢な者、為政者にとっては痛烈な皮肉と警告となります。私たちはどちらでしょうか。もしかしたら、抑圧している側かもしれません。その現状を許しているということは消極的な加担とも言えるのではないでしょうか。この日本に住む移民の人のことをどれだけ真剣に考えているだろうか。自分自身のように隣人を愛しているだろうか。私自身はまだまだ認識が甘い自分がいることを受け止めなければならないと思っています。
また、根本的なたましいのところで言えば、罪の奴隷として苦しみの中にいた私たちを神様は憐れみ、十字架の贖いをもって救い出して、解放されました。私たちは主によって、召され、引き上げられ、救い出された者たちなのです。その罪から解放された恵みに生きる者として私たちはどう生きるべきなのでしょうか。
それは、霊的に言えばまだ、キリストに出会わず罪に囚われている人を、憐れみ、愛し、救いを願い、祈り、伝道に励むことでしょう。また、現実面で言えば現代の抑圧されている人たちを愛し、その人たちと共により良い社会を築いていけるよう働きかけていくことでしょう。簡単に言えば、自分と立場や価値観の違う相手を大切に愛していきなさいということです。

レビ19:33−34
「寄留者があなたの土地に共に住んでいるなら、彼を虐げてはならない。あなたたちのもとに寄留する者をあなたたちのうちの土地に生まれた者同様に扱い、自分自身のように愛しなさい。なぜなら、あなたたちもエジプトの国においては寄留者であったからである。わたしはあなたたちの神、主である。」

寄留者、異邦人、囚われ人を大切に愛しなさい。それは、かつてはあなたたちも囚われ人だったのだからだ。これが神の恵みに生きる者の姿です。神の御心は私たちの解放です。それは、たましい、心、社会、その全ての領域においてなされるべきことなのです。

「みこころの天になるごとく地にもなさせたまえ。」

かつては、自分は罪に囚われた悲惨な奴隷であった。しかし、そんな私やあなたを決して神様はそのままにはしませんでした。命をかけて救い出してくださったのです。私たちはその十字架の恵みによって解放された者なのです。救われた者として神のみこころがこの地で現れること、捕らわれ人の解放を祈り、願い、共に神の国の建設に参与してまいりましょう。最後に一箇所みことばを読んで本日の宣教を終わりといたします。共にみことばに耳、心、体、人格の全てを傾けましょう。

ルカ4:18−19
「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。」

武井誠司

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