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振り返ったマリア

メッセージ

2009年4月12日富里キリスト教会
      「振り返ったマリヤ」
            (ヨハネによる福音書20:11〜18)
                          
1. 墓前で泣いているマリヤ

四国にいた時、教会の近くすんでいたお子さんが、雨で増水した土管に足を取られて、流されて亡くなられました。愛する愛娘を失ったお母さんは、葬儀の後も毎日毎日、近くの山の斜面にあるお墓に行って、お花やお菓子やジュースを供えていました。墓前で泣いているお母さんの姿に、町の人たちも悲しい思いで見つめていました。ちょうど、今朝の聖書の箇所も、死んでしまったイエス様の面影をしのんで、マリヤが墓前に行って泣いている場面です。

11節のところに「マリヤは墓の外に立って泣いていた」とあります。愛する者を失った者にとっては、その遺体が置いてあった場所を訪ね、その人の面影をしのんで泣くしかありませんでした。マリヤは泣きながらお墓の中をのぞきました。この復活されたお方を、墓の中に探すということは、いわば、復活という出来事を科学的にあるいは医学的に証明するということではないでしょうか。現代人は科学的に実証されたほうが、納得できるかもしれません。しかし、この復活の出来事は科学的に証明できることを拒否しております。

私たちもそうです。自分の目で見て信じ、手で触れてみなければ信じることができないかもしれません。出来れば復活の主が、この礼拝の場に突然現れてくださったらどんなにか心強いことでしょう。トマスも「私は釘のあとを自分の目で確かめ、自分の指で触って、実際に触れて見なければ信じない!」(ヨハネ20:25)と断言しました。でも、復活の主には、そういう形ではお会いすることはできません。ではどうしたら、真に復活の主にお会いできるでしょうか。

2. 振り返ったマリヤ

もう一度聖書を見て見ましょう。14〜16節まで読んでみます。 
「こう言いながら(マリヤが)後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか。」マリヤは園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが「マリヤ」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。」

ここで気がつくことは、イエス様は二回マリヤに声をかけています。そして、マリヤは二度後ろを振り向いています。しかし、最初に声をかけられたときは、誰か後ろにいるということは知っていましたが、それがあのイエス様とは分かりませんでした。それでは、どうして最初の呼びかけにマリヤは気がつかなかったのでしょうか。この共同訳聖書では、どちらも同じ言葉ですが、口語訳聖書では前の方は「振り向くと」で、後のほうは「振り返って」になっています。私はしばらくこの「振り向く」と「振り返る」の違いについて考えてみました。

英語のリビング・バイブルではもっとはっきりと分かります。最初は「SHE GLANCED HER SHOULDER AND SAW」で二回目は「SHE TURNED TOWARD HIM」です。つまり、最初は肩越しにイエスをチラッと見た、ということです。でも、二回目は肩越しではなく、向きを変えて、方向転換をして、イエス様に表面から面と向う、相対したということです。これが「振り返ったマリヤ」です。

つまり私が、何を言いたいかといいますと、復活の主に出会うのは、イエス様としっかりと向き合うことだということです。イエス様と向き合わずして、失われたもの、自分の喪失感、空っぽの心に捕われていては、復活の主にお会いできないということです。復活という出来事を、墓穴に目を向けて、科学的に証明しようとしたり、歴史的に説明しようとする限りは分かりません。そうではなく、復活の主に出会うということは、この世から目を転じて、身体の向きを変えてイエス様と真正面から向き合うことです。声の方向に焦点を合わせることです。キリストの御言葉に全身全霊をもって、真正面から向き合うということです。一対一で主と相対することです。

私も牧師になる前にも、教会では伝道執事をしておりました。でも、気持ちは教会半分、仕事や組合活動も半分の生活でした。現実にも目をやりながら、教会のこともほどほどに奉仕していました。十字架も復活もほどほどに知っていました。いわば、主に「振り向いていた」生活でした。でも、私にも大きな転機が訪れたのは、友人の教会での葬儀の時でした。天に召された兄弟の弔辞を、友人代表として述べることになりました。その中で、私は一緒に学んでいたローマ書の6:8の御言葉を引用しました。「キリストと共に死んだ者は、またキリストと共に生きることを信じる」と。そしてその時、私は初めて、兄弟の遺体を目の前にして、彼は生きている、今信仰を持って天に凱旋したんだ、という強い確信がこみ上げてきました。復活のキリストが御言葉を通して、復活の確かさを私の心に示して下った瞬間でした。それ以来、私の心は定まりました。復活の主に完全に、180度振り返ったのです。そして私はこの復活の証人として、2年後に県職員の仕事を辞めて、東京神学大学に入るために青森から上京しました。30歳の時でした。

3. 復活の証人となったマリヤ

マリヤも主に振り返った時、復活の主の証人になりました。マリヤは、イエス様からこれから天に上って行くということを告げるようにと、命ぜられました。イエス様と出会った人は、イエス様が復活されたことを、そしてこれからなすべきことを告げられます。復活の主の証人となって、出かけて行き、主を証する時、そこにまた、復活の主が現れて下さるのです。こうして、御言葉の真実が復活の主の御臨在と共に、人から人へと宣べ伝えられて行くのです。これが主の宣教の働きです。

復活が信じられない人は、自分の心の中をのぞいて見ましょう。また、自分の人生について、自分の死について、一度向き合って考えてみてはいかがでしょうか。死ですべてが終る人生で良いのか。あるいは死んだ後、天国に凱旋し、やがて復活の栄光のからだに甦るという道もあります。一度、歩みを止めて自分の人生について、死について真剣に真正面から考えてみてはいかがでしょうか。

また、クリスチャンになったけど、復活が良く解らないという方もおられるのではないでしょうか。そういう方は、まずこの聖書の御言葉に心をまっすぐに向けましょう。「振り向く」のではなく「振り返る」ことです。御言葉に集中し、御言葉に専念し、全身全霊をもって読みましょう。復活の主は御言葉を通して、必ず出会ってくださいます。この御言葉をたずさえて、宣教の地へ、それぞれの生活の場へと出かけてゆこうではありませんか。復活の主がすでに先に行って待っておられます。
                                     (岡田 久)

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