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我らの罪をも許したまえ (マタイ18:21~35)

メッセージ

2015年2月1日富里キリスト教会

「我らの罪をも赦したまえ」
(マタイ18:21~35)

1.つまずきの祈り

ロバート・R・スティヴンスンというスコットランドの作家は、毎日家族礼拝をし、主の祈りをする習慣がありました。ある日ひざまずいて祈っていましたが、彼は祈りの途中で一人立って部屋の外に出て行きました。彼の妻は急いで後を追って、尋ねました。「どうしました?どこか体の具合が悪いのですか?」と。彼は、「いや、今日は主の祈りをすることができない。」と言いました。

ですからある意味では、この第五の祈りは、わたしたちを深い反省と悔い改めへと導く力をもった祈りではないでしょうか。なぜなら、たとえクリスチャンであっても、罪を犯したことのない人はいないからです。その人は、この祈りをする前に、果たして自分が相手を赦しているかどうかを吟味し、自問しなければならないからです。

厳密に言いますと、この祈りを口にする時、「彼の罪を赦しました。」というか、それともそういう祈りをすることができずに、祈りの部屋を出て行くかのどちらかだからです。もちろん、神様は、わたしたちがこの祈りをするたびに、自分を振り返り反省し、赦さない自分の罪を深く悔い改めて、相手を赦すことを願っておられるのです。 

2.一万タラントン(約8千億円)の借金

今日読んでいただきましたマタイ18章のたとえ話も、同じようなことをイエス様は弟子たちに教えています。「そのとき、ペテロがイエスのところに来て言った。『主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。』イエスは言われた。『あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。』」(マタイ18:21~22)

イエス様は、ここで赦す回数のことを問題にしてはいませんでした。七の七十倍まで赦しなさいと言いました。これは7×70=490回までは赦して、491回目は赦さないということでしょうか。そうではありません。七の七十倍というのは、どこまでも赦しなさいという意味です。何回でも赦してあげなさいということです。どうしてかということで、イエス様は次に一万タラントンの負債を抱えた家来のたとえ話をしているからです。

かいつまんでこの一万タラントの借金を抱えた家来のたとえ話をしてみますと、ある国の王様が、一万タラントンの王の借金を抱えた自分の家来に、決済をして王から借りた借金を返済するようにと命じました。1タラントンは6千デナリです。そして1デナリは一日分の日当ですから、1タラントンは6千日分の日当ということになります。一日の日当を約1万円としますと、1タラントンは6千万円になります。そして、その一万倍が1万タラントンですから、1万タラントンというのは、約6千億円ということになります。相当な借金です。

ところがこの神様の大きな犠牲的な償いをいただいていながら、この一人の家来の取った行動はどんなだったでしょうか。28節から読んでみます。「ところが、この家来は外に出て、自分に百デナリオンの借金をしている仲間に出会うと、捕まえて首を絞め、『借金を返せ』といった。仲間はひれ伏して、『どうか待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし、承知せず、その仲間を引っ張って行き、借金を返すまでと牢に入れた。」(18:28~29)

彼は神様から、自分の負債である6千億円もの借金を帳消しにしてもらい、無罪放免になって喜んで王宮から出て来たのです。しかしその途中で、自分がお金を貸している人を見るや否や、捕まえて首を絞め、「借金を返せ。さもなければお前を訴えて牢屋に入れるぞ。」と脅かしたのです。そしてとうとう、返済できない友人を訴えて牢に閉じ込めてしまいました。これを聞いた王は、「せっかく自分が1万タラントンもの借金を帳消しにしてやったのに、どうして自分の仲間の負債を免除してやらなかったのか。」と悲しみ残念に思いました。

そして、王の憐みと赦しを何とも思わず、自分の仲間を赦さなかったこの家来を、捕えて牢に入れてしまいました。そしてこう言いました。「不届きな家来だ。お前が頼んだから、借金を帳消しにしてやったのだ。わたしがお前を憐れんでやったように、お前も自分の仲間を憐れんでやるべきではなかったか。そして、主君は怒って、借金をすっかり返済するまでと、家来を牢役人に引き渡した。あなたがたの一人一人が、心から兄弟を赦さないなら、わたしの天の父もあなたがたに同じようになさるであろう。」(18:32~
35)と言いました。

3.あなた大きな愛で赦されている

わたしはこの天国のたとえ話が、実は先ほどの主の祈りの第五の祈りに当たるのではないかと思いました。この自分が赦されたのに、仲間を赦さなかった家来の態度を主の祈りにあてはめてみますと、こうなるのではないでしょうか。「わたしに借金のある人を私は赦しませんでした。でも神様は愛のかたですから、わたしの借金は赦して下さい。」と。いかがでしょうか。皆様が王様だったら、快くこの家来を赦すでしょうか。これはどう考えても矛盾するような気がします。1デナリオンが一日分の日当ですから、約百万円になります。百万円は、6千億円の何パーセントか計算しますと、0.0000016パーセントです。こんなにたくさん赦してもらっているのに、これっぽっちのことすら赦すことができなかったのでしょうか。

神様の態度は、わたしたちが兄弟姉妹に対してとった態度によって決められるというのです。わたしたちが誰か隣人を赦さないなら、わたしたちも神様に赦されていません。わたしたちが誰かを憎むならば、神様もわたしを憎みます。わたしたちが誰かを赦さないままであれば、神様もわたしたちを赦さないままです。わたしたちの態度によって、神様の対応が決まりますよということを、この祈りもまたこのたとえ話も教えているのではないでしょうか。

ではどうしてこの家来は、あんなに莫大な借金を帳消しにしてもらったのに、自分の仲間を赦さなかったのでしょうか。ふとそう考えてしまいました。神様の赦しにはえこひいきがあったのだろうか。ある人にはたくさん赦し与え、ある人には少ししか与えなかったのでしょうか。そうではありません。神様の愛と赦しは、すべての人に平等に豊かに注がれています。あふれるほどに与えられています。

「神は、その独り子をお与えになったほどにこの世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」(ヨハネ3:16)とありますとおり、神の愛と赦しは全世界にすべての人に同じように注がれています。ただ問題は、その赦しを受け取る側に、二種類の人がいるということではないでしょうか。一人は、どんなにか神様が自分を愛しているかを知っている人です。自分の罪がどれほど重かったか、そしてその自分の大きな罪を無条件で赦して下さり、帳消しにして下さった神様の愛を知っている人です。もう一人は、自分のことをそれほど罪人だとは思っていまい人です。

そしてその借金を帳消しにするということ、その莫大な負債を赦して下さったということが、どんなに大変であったのかそのことを知らない人です。そして、自分に対してたった百万円の借金を返さない人を赦さないわけです。人は誰でも百万円を帳消しにするということは難しいかもしれません。この百万円の借金を赦すことが、どんなに大変なことかを自分でも分かっているはずです。実際、赦していませんから。人は誰でも赦したくない、赦せないのです。赦すためには、そこに大きな痛みと犠牲と損失が伴うからです。だから誰でもできないのです。それは分かっています。

でも自分は、赦されているのです。しかも莫大な金額の罪の負債を無償で赦してもらったのです。イエス様は、泣きながら御自分の足を涙で洗い、その足に香油を塗ってくれた一人の女性を指してこう言いました。「この人が多くの罪を赦されたのは、わたしに示した愛の大きさで解る。赦されることの少ない者は愛することも少ない。」(ルカ7:47)と。イエス様はすべての人を同じ大きな愛をもって愛され、その罪を赦して下さいました。

もしわたしたちが、誰か人を赦すことができないなら、そのことで悩み呻いているならば、もう一度、このイエス様の支払って下さったわたしたちの罪の代価の大きさを思い起したいものです。自分の罪の大きさを知ることなしには、この第五の祈りを献げることはできないのではないでしょうか。この主の祈りの中に、この第五の祈りがここにあるということは、わたしたちが絶えず祈るたびごとに主の十字架の前に立つことを教えているような気がしてなりません。

人を赦すことができずにいるその人のためにも、主は今も血を流して執り成していて下さいます。「わたしはあなたの罪を贖った。あなたの罪を赦した。あなたを愛している。だから、あなたも赦す者となりなさい。」と。今日もこの後、主の晩餐式があります。もう一度自分を振り返り吟味しつつ、悔いた砕かれた心を持って、主の流された血潮とその裂かれた肉を受けて行きましょう。そして、主のこの十字架の愛と赦しを証して行く者となりたいと願っております。

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